YUKI

言語、言語で表現できることすべて

communication

2004-12-17 15:29:07 | Weblog
人文科学で扱う諸概念のなかで、およそ、informationとならんでcommunicationほど幅広く曖昧な抽象概念はないだろう。
communicationって何ですか?
という質問でworkshopを始める英語教育学者もいるくらいだ。
英語教育学者の間でも、非常に浅薄な理解にとどまっている人も少なくない。
よく見聞きする定義に、communicationを構成するcompetenceを4つほど挙げてsocio-linguistic competence etcという定義があるが、「海外の文献も読んでますよ~」というミエ以外、とくに意味はないようで、定義としてうまく機能しているとは思えない。
学習指導要領に実践的コミュニケーション能力という言葉があるが、「実践的でないコミュニケーション能力は存在するのか?」という質問が、学習指導要領作成に関わった人のなかで為されたという。もちろん、解答出来た人はいなかったそうだ。

まず、communicationとは非常に大きな概念なので、言語教育においては「言語によるコミュニケーション」と限定する必要があるだろう。
verbal communicationよりもnon-verbal communicationが情報量も重要度も上だ、と誤解する人がいるようだが、たとえverbal messsageとnon-verbal messageが矛盾した場合、人間は後者に基づいて判断し行動するとしても、日常的なcommunicationにおいて言語の果たす役割は、やはり、primaryと考えざるを得ない。

communicationとは何か、定義論争にあけくれるのは不毛なことだろう。
いくつかの了解事項で十分だと思う。
その一つは、communication能力は言語能力と等しいものではなく、より大きなものだ、ということ。
また、実際のcommunicationとcommunication能力は次元の違うものだ、ということ。
英語の知識がそれほどなくても、高いcommunication能力を発揮できる人もいるし、その逆も。
communication能力には言語能力とは違った、固有の領域があるのだろう。
だから、communication能力を高める、というほとんど実現不可能な目標を立てるのではなく、実際のcommunicationに役立つ言語知識を、使えるような状態で習得するという具体的な目標にするべきだろう。
英語という言語を使って、何ができるのか、何がしたいのか、それを考え学習するという、ごくあたりまえのことが最も大切だと思う。
実際、使える言語知識を学ぶこと以外、学習者に何ができるのだろう?

言語知識じゃないんだ、communicationなんだ!とわめく前に、自分のその言葉が何を意味するのか吟味するべきだ。
正常な判断力を失っていなければ、、それが、実は何も意味していないことに気付くだろう。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« Foreign Language or Second ... | トップ | Knowledge is Power »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事