ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

属人評価

2014-05-18 07:53:31 | Weblog

「属人性」5月13日
 『校歌 歌えない』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『福岡県春日市の小学校校長が、覚せい剤取締法違反の疑いで逮捕される事件があった。同市内には、この校長が校歌を作曲した小学校が2校あり、うち1校は12日、当面校歌を歌わないことを決めた』のだそうです。
 こうした事件が発生した際、我が国ではよく目にする対応ですが、私は腑に落ちません。楽曲でも、絵画や彫刻でも、詩や小説でも、作品それ自体が評価の対象であるべきなのに、その作者に問題が発生すると、それまでの高評価が一転して問題作という評価に一変してしまうという現象が。
 これは、作品と作者を一体のものとしてみるという発想に基づくものと考えられます。そうした考え方は間違いだと思います。それは、作品を評価するする自分の目に自信をもてず、作者の人間性や評判を評価の参考にすることにつながっているからです。
 教員は、「評価する人」です。授業力の中核をなすのは評価力であるということは、以前このブログでも述べましたが、授業以外の場面においても、教員の仕事は評価の連続であるといっても言い過ぎではありません。清掃指導も、給食指導も、問題行動への対応も、部活も、すべてその場その場での子供の言動を適切に評価し、その評価を的確に伝える作業だと言い換えても間違いではありません。
 しかし、四六時中、正しい評価を続けることはとても難しいですし、疲れることでもあります。教員も人間ですからサボりたくなる、手抜きをして楽をしたくなるのは避けられません。そこで登場するのが、子供の言動を「既に行われた評価」によって評価するという方法です。分かりやすく言えば、責任感のある○○君がしたのだから~、真面目な努力家の△△さんが言っているのだから、落ち着きがなく我が儘な□□君なら~、というような評価の仕方です。
 こうした評価を続ける限り、悪ガキはいつまでたっても悪ガキですし、優等生はずっと優等生のままです。こうした評価は教員にとって楽ですが、確実に子供の意欲を削いでいきます。評価の属人化です。
 今回の校歌騒動においても、校歌自体の評価ではなく、逮捕されたという作者の作曲家としての評価とは別の部分の評価に重きが置かれています。こうした態度は、評価の属人化を排除しなければならない教育現場にはふさわしくないと考えます。この校歌が純粋にすばらしいもので子供が親しみを感じていたのだとしたら、歌わない理由を子供に説明できないのではないでしょうか。逆に、あまりよくない校歌であったのに逮捕された校長への配慮で歌わせてきたのであれば、それも教育的ではありませんが。

 

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