「30秒?」9月29日
『容姿で自分の価値を決めない』という見出しの記事が掲載されました。『人は見た目ですか』という永遠のテーマに、コラムニストジェーン・スー氏が答える記事です。その中に気になる記述がありました。
『「相手が30秒で変えられないものを指摘してはいけない」と。つまり、髪にゴミがついているのは指摘してもよいが、髪色や髪質を褒めるのもけなすのも間違っている。「今日のあなたはとても素敵ね!」はOKだが、「脚が長くてすてきね!」はNG』という記述です。分かりやすい表現です。
国籍や肌の色、性別や障害などに基づいて他人を評価することは差別や人権侵害につながる、私もそうした意味で、「自分の努力で変えられないもので人を評価するな」ということを言ってきました。似ているような気がします。しかし、30秒というところに引っ掛かるのです。
私には忘れられない失敗談があります。背が低い級友を「チビ」と言ってからかった子供がいました。私は上述の「自分の努力で~」という考え方を用いて、注意しました。そのとき他の子供から、「じゃあ、デブは?」と訊かれたのです。私は、「太り過ぎていると思ったら、運動をしたり、お菓子を減らしたりして体重を落とすことができるよね。だからチビとは少し違うかな」という趣旨の話をしてしまったのです。後日、小太りの女児Iさんの母親から、「うちの子は自分は我慢ができない子なんだと落ち込んでいました」と抗議され、自分の発言がIさんや他の子供を傷付けてしまったことに気づきました。
身長は努力で伸ばすことはできません。しかし、体重は努力で減らすことができます。とはいえ、体重を減らすことは30秒ではできません。30日なら可能ですが。同じように、成績が悪いということも、30秒では無理ですが、30日間正しい計画に従って努力すれば向上させることができます。泳げない子供が泳げるようになるためには、30秒ではなく数日が必要でしょう。
30日後、「キュートな体形で素敵ね」「こんな難しいテストで95点なんて尊敬しちゃうよ」「クロールのフォームすごくきれいだ」と褒めることは、「足が長くてステキね」と褒めることは違うということでもあります。
つまり、私は、30秒(10分でも1時間でも)という基準は正当なのか、という疑問が消えないのです。学校教育はもちろん、教育とは対象者を変えることです。できないことができるようになり、分からないことが分かるようになる、感じ取れなかったことが感じ取れるようになる、そう働きかけるのが教育という営みであり、変えることができたとき、教育は「成功」したと評価されるのです。
ですから、「変えることができないこと」を30秒などと狭く設定されてしまうと、私自身が長く関わってきた教育という営みそのものを否定されたような気になってしまうのです。改めて考えてみると、「努力で変えられる、変えられない」という概念自体もあやふやになってきてしまいます。私は何を教えてきたのでしょうか。