ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

夢を追うために

2014-06-10 09:52:30 | Weblog

「夢」6月3日
 読者投稿欄に、京都市の大学生川端明香里氏の『小学校教諭の夢に向け努力』という表題の投稿が掲載されました。頑張ってほしいものです。本当に素直にそう思います。川端氏は、『自分にきちんと向き合ってくれる担任の先生の姿を見て』教職志望を決めたそうです。私は、教え子に「先生みたいな先生になりたい」と言われるのが夢だったので、川端氏の担任の教員が羨ましいです。きっと素晴らしい教員だったのでしょう。
  ところで、川端氏の投稿の中に少しだけ気になる記述がありました。それは、『勉学以外の面でも児童の立場にたつことを忘れない教師でありたい』『大学で高度な専門性を身に着けていきたい』という2つです。
 私が教委に勤務し、新規採用教員の面接を担当していたとき、多くの人が川端氏のような発言をしていました。そんなとき、若い方の夢を壊すようですが、具体的な場面を描く想像力を発揮してみてほしいと思ったものでした。
 例えば、自分が担任する学級でいじめが発生し、いじめられた子供が不登校になり、その保護者からの訴えで調査してみると、10人近い子供がいじめに加わり、それ以外にも学級の20数人が傍観者として消極的に加担しているというケースで、子供の立場に立つとはどういうことなのか、考えてみてほしいのです。なお、こうしたケースは決して珍しいものではありません。
 上記のようなケースにおいて、未熟な教員は、次々に明らかになる情報に振り回され、自分の立ち位置を見失ってしまいます。いじめ被害者は一人であり、加害者側は学級の大多数です。聞き取り調査で聞かされる「声」は、被害者の子供が自分勝手であり、かつてはいじめる側の中心人物であり、自分たちは控えめに反撃しただけだという加害者の主張が大部分を占めます。実際、そうした主張を裏付けるような事実ばかり出てくることもよくあります。被害者側に立って指導しようとすると、学級の子供全員が教員に対してボイコットのような姿勢を示すこともあります。教員自身が孤立したような情勢の中で、多数派に阿ってしまった方が楽であり、そうした誘惑に負ける教員は少なくありません。
 どう対処すべきかは、今までこのブログの中で再三具体的に述べてきたので、ここでは触れません。ただ、学校は子供たちが集団で生活をする場であり、子供対大人という対立よりも子供同士の対立やトラブルがほとんどを占めるのです。ですから、学園ドラマのように、子供を管理しようとする大人と抵抗する子供というような構図はめったにありません。また、子供の中に弱者と強者がいて、弱い立場の子供の側に立つというような単純なものでもありません。いじめの被害者と加害者が入れ替わってしまうことが珍しくないように、子供同士の人間関係は常に動き続けているのですから。
 もちろん、「子供の立場に立つ」という志そのものが間違っているというのではありません。そうした思いは尊いものです。ただ、実際に教員にならなければわからない部分もあり、学生時代にはメディアなどで取り上げられるいじめ事件などを例に、自分だったらどうするか、それは本当に実行可能か、などシミュレーションする習慣を身に着けてほしいと思うだけです。そうした繰り返しの中で磨き抜かれた思いこそが、本当の力となってくれるはずです。
 また、「高度な専門性」については、具体的にどのようなことをイメージなさっているのか、ということが気になりました。私は、拙著「教師誕生」の中で、新規採用の教員が授業や学級経営に悩む姿を紹介してきましたが、教員にとっての専門性とは、歴史や科学についての知識ではありませんし、児童心理や初等教育概論などの知識でもありません。教員にとっての専門性は「教えること」です。ある知識や概念、考え方などについて知っていることではなく、それらを限定された条件の中で、どのように子供自身に獲得させるかということであり、そのための様々な手段を自家薬籠中の物にすることができているか、なのです。それは、実際に子供との触れ合いややり取りを通して体得していくしかないのです。大学での学びを軽視するわけではありませんが、教員になってからの自己研さんこそが教員として輝く鍵だということを忘れずにいてほしいと思います。大学で学んできたから、教員としての能力を身に着けたなどと考えていては、必ず失敗してしまいます。

 


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