ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

仮に時間が十分にあっても

2024-08-08 08:27:05 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「時間だけでなく中身を」7月30日
 『教員 授業研究時間限られ』という見出しの記事が掲載されました。全国学力テストで、『以前から指摘されてきた課題は残った。学校現場では「思考・判断・表現力」を育むための試行錯誤が続いているが、「多忙のため授業の研究に充てられる時間も限られる」と悩む教員もいる』という問題を掘り下げる記事です。
 記事では、『授業では教員側が話しすぎないように心がける。まずは問いを投げかけ、子どもに発話を促している(略)ただ難しさも感じる。30人前後に一斉に教える形式の授業ではどうしても児童の間に差が生じ、理解が浅い児童には最低限の「知識・技能」を教えるだけで終わってしまうこともある』という現役教員の悩みや、『生徒指導や校務の業務の負担が大きく、授業について考える時間の確保は簡単ではない』という現状が紹介されていました。
 また、『パソコン端末を議論や発表に使っている場合には正答率が高いというデータ』を踏まえ『端末活用の工夫によって思考・判断・表現力はもっと伸びる可能性がある』という文科省の見解も述べられていました。
 大事なことが抜け落ちている、残念ながらそう思わざるを得ませんでした。記事で紹介されている内容には、いくつもの誤解や認識不足があります。まず、「知識・技能をおしえるだけで終わってしまうことがある」ということについてです。それでよいのです。何の問題もありません。新しい漢字を覚える、筆順を身につける、掛け算九九を暗記する、みな大切な学習です。しかしこれらの学習を通して思考・判断・表現力を培うのは非常に困難です。
 思考・判断・表現力を重視するということは、1年間、1000余時間、全ての授業で対話をし、思考させ、判断させ、そのことを表現させなければならないということではないのです。単元なり、数時間の学習のまとまりの中で、考えるに値する学習問題を設定し、調べたり、話し合ったりして思考・判断・表現力を高める場面や機会を設ければよいのです。
 また、授業について考える時間の確保、という述懐についても問題があります。この教員は、もし十分な時間があったら、どのように授業について考えようとしているのでしょうか。私は社会科を専門に研究してきましたので、社会科を例に話します。
 某文科省の研究指定校での話です。ある中堅の教員は、4年生の玉川上水を教材とした授業を研究発表会当日の授業で行うことになりました。彼は、いくつもの書店を回り、古書店にも足を運び、玉川上水に関する文献を十数冊、30cm以上も机に積み上げ、全部読んだと自慢していました。ちょっとした「玉川上水博士」です。教科書にも、副読本にも掲載されていない秘話や誰も知らなかった小ネタを仕込んだ彼は、研究発表日当日、授業でそれらを披露し、子供たちは興味深そうな顔で聞き入っていました。
 授業における子供の集中度は高く、「面白かった」という反応も多かったです。でも、それは思考・判断・表現力を培う授業ではありませんでした。話芸が達者で知識が豊富な教員の講義でしかありませんでした。これは私がまだ若いころの話ですが、今でも授業のための準備や研究というと、対象となる教材についてより深く調べることだと誤解している教員は少なくありません。特に、社会(歴史)や理科、国語の文学教材などの場合、こうした傾向が強く見られます。
 話し合いを中心にした考える授業で教員に求められるのは、子供の発言を生かしながら、授業の目標からそれずに話し合いを方向付け、ときに新しい知見を提供することで子供たちを刺激し、適切な評価で満足感を与えながら、テーマに対する興味関心を維持したまま、話し合いの活性化を図る能力です。
 そのためには、個々の子供の思考の型や認知の傾向、こだわりや既有の知識や経験を把握するとともに、過去の話し合い場面の分析によって望ましい介入の在り方についての造詣を深めることが必要なのです。そのために最もふさわしい方法が、授業の記録を分析し続けることです。
 いくら時間を作っても、文献を何冊も読むというような教材研究ばかりに時間を費やすようでは、授業の質の向上は叶えられません。

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