ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

教室で向き合わなければ授業ではない?

2024-08-07 08:16:36 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「共存」7月28日
 『動画配信を味方に』という見出しの記事が掲載されました。映画を劇場公開と動画配信することについて、『劇場と配信が客を食い合うのでは』という指摘に反論する記事です。その中に次のような記述がありました。
 『映画館で上映されるから映画が映画たるものになる。映画館がなくなれば、我々が配信するものは映画ではなくなり価値が下がってしまう』という動画配信側のスタッフの声が紹介されていたのです。
  動画配信であろうが、映画館での上映であろうが、映画の中身は同じです。当然、価値も同じと考えてしまいます。もちろん、映画館のスクリーンの大きさからくる迫力とか、最近では映画のシーンに合わせて椅子が揺れたりするものもあり、多少は視聴環境が異なることはあるでしょう。でもそれを言うならば、動画配信で見る方が、好きなときにトイレ休憩を入れたり、食事をしながら、風呂に入りながらなど、自由度は上です。
 それにも関わらず、映画館で上映されなければ映画ではない、とはどういう意味なのでしょうか。私には分かりませんでした。ただ、私の頭の中にこんな言葉が浮かんできました。「教室で大勢の級友と共に教員と対面で受けるのでなければ授業ではなくなり、価値が下がってしまう」。
 コロナ禍によって、リモート授業が広がりました。コロナの第5類移行後、また通常の形に戻りつつありますが、長期的に見れば、教員不足等への対応という面も含めてリモート授業が普及していく流れになっていくことは間違いないと思います。そのときに、学びの多様化、機会均等などの概念から、リモート授業を評価する反面、やはり教室での授業というものがあってこそ、その変形版としてリモート授業があるということになるのか、という疑問がわいたのです。
 やはり同じ場所に学習者と指導者がいて、その場の雰囲気を共有しつつ、言葉だけでなく非言語コミュニケーションをも駆使して、学びを造り上げていく、それが授業の基本形かつ理想形であり、応用編として時と場合によってリモート授業もあり得るという考え方が認められるのか、ということでもあります。
 古い考え方をする私は、授業は対面が基本という考え方をしがちです。でも、突き詰めていくと確たる理由はなく、慣習と郷愁という感情的な理由でそうした考え方を支持しているだけであることを否定できません。
 映画館で上映しなければ映画ではない、この言葉の真意を知りたいと思います。対面授業とリモート授業について考えるヒントがあるはずですから。

 

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