ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

偏りが「らしさ」をつくる

2020-02-07 08:56:18 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「公教育再発見」1月30日
 『時論フォーラム』欄に、北海道大教授吉田徹氏が、『民間との境界ない時代 新たな公共の構築を』という表題で自説を書かれていました。その中に、『若手官僚たちの今を追った「BUSINESS INSIDER」の記事は、念願かなって公務員になったものの、その後やりがいを失い、社会貢献のためベンチャ-企業などに転職した人々の声を拾っている。その中には、民間企業を経験したことで官公庁が「自分のためよりも、誰かに喜んでもらえることでハートに火が着く人にとって、人の幸せを願い、それを目的に出来る場所」であると、「公」ならではの役割を「私」を通じて再発見する官僚がいることが紹介されている』という記述がありました。
 これだ、と胸を打たれました。自分がこのブログを通して言いたかったこと、それはいくつもありますが、その一つがこの記述にあることだったと、改めて思いました。私が拙い表現力のため、上手く言い表せなかったことを、吉田氏が的確に表現してくださったという思いです。
 学校には様々な批判があります。教員に対しても、否定的な見方をする人は少なくありません。そうした批判や見方の中には、誤解に基づくものやあまりにも偏ったものがありますが、事実に基づく適切な評価もあると認めざるを得ません。
 しかし、私は学校文化や教員の体質に潜む、ある種の特性といったものにどうしようもなく惹かれてしまうのです。それが、吉田氏の言う「公」であり、「誰かに喜んでもらえることでハートに火が着く」ということなのです。確かに教員には他の職に比べて社会常識に欠けていたり、コスト感覚がなかったり、視野が狭かったりする傾向があるかもしれません。私自身、自覚はあまりないのですが、そうなのかもしれません。子供のことを思い、子供に喜んでもらうことでハートに火が着く、その心情が肥大化し、他のことを軽視しがちで、その結果何だかバランスを崩してしまったかのように見える人たち、それが教員であり、教員らしい人ということです。
 私がよく歌う演歌の歌詞に、「優しさと甲斐性のなさが裏と表に~」というフレーズがあります。優しくて甲斐性もあれば言うことはないのですが、優しい人はどうしても他人を押しのけて前に出ることが出来ない、だから競争社会を生き抜くという面で見ると甲斐性なしになってしまう、ということです。
 教員も、子供を思い、なおかつコスト感覚をもち視野が広ければ言うことがないのですが、なかなかそうはいかないということなのではないでしょうか。子供思いという資質がなく、コスト感覚や視野の広さに優れていても良い教員とは……、という考え方は間違いではないはずです。教員の資質として、情熱や教育愛よりも具体的な指導技術を重視する立場を強調してきた私ではありますが。

 

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