ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

親と教員は違う

2010-04-24 07:34:54 | Weblog
「親と教員の違い」4月21日
 読者投稿欄に『子育ては「信じて待つ」忍耐必要』というタイトルの投書が掲載されていました。その投書の内容はタイトルからも想像がつくとおりで、『木も人も「育てる」ためには「育ってくる」のを信じて待つ忍耐が必要、という趣旨の一節が心に残りました。堅いつぼみが開く時を信じ、どこまでも応援してあげようと心に決めました』と結ばれていました。
 私は以前から繰り返し述べてきたように、大人の役割として重要なのは見守ることよりも子供の壁となって子供に壁を乗り越える体験をさせることだと考えています。しかし、その主張をここで繰り返すつもりはありません。ただ、同じように子供の成長に関わるとはいっても、親と教員は違うということだけを指摘しておきたいと思います。
 親は子供の一生に責任と利害関係をもちます。よく育てば、その果実は有形無形の「親孝行」として返ってきます。何か問題を起こせば、責任を問われ、世間の非難を浴びなければなりません。それだけに、「信じて待つ」ことには大変な努力と克己心が必要となります。しかし、教員はそうではありません。小学校の教員は、教え子が中学校や高等学校で問題を起こしたとしても、責任を問われることはありません。「小さいころは優しい素直な子だったのに」と首を傾げれば済んでしまいます。子供が3年生の時に世間を騒がすような行為をしても、1年生のときの担任は、「信じられない。あの明るく人気者だったA君が」と絶句してみせればよいだけです。つまり、教員は、建前はともかく、実際には子供の将来には無責任でいられるのです。
 誤解してもらっては困るのですが、私は、教員が子供の将来にも責任をもてと言っているのではありません。そんなことは不可能ですし、理不尽です。ただ、無責任でいられる教員が、自分の怠慢や無能を正当化する理屈として、「お子さんの可能性を信じて待ちましょう」「どの子にも伸びる力があるのですから黙って見守りましょう」という態度をとることは卑怯だし、許されないと思うのです。
 私は、教委に勤務していたとき、多くの教員を見、話を聞いてきました。残念なことにその中には、上記のように、自分の怠慢と無能を「見守り教育論」で正当化して親や子供を誤魔化している教員が少なからずいました。教員は、教育のプロとして、限られた時間の中で、子供に対して、常に様々な働きかけをしていかなければなりませんし、そのための「技」をもっていなくてはなりません。もちろん、高度な「技」としての「見守り」は否定するものではありません。

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