ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

データかエピソードか

2024-07-07 08:47:12 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「何をもって説得するか」7月1日
 見開き2面を使ってユニバーサル委員会第17回座談会の様子が掲載されていました。テーマは「障害者スポーツ」です。5人の参加者の中の知花くらら氏が語られたことが強く印象に残りました。
 知花氏は、『何か支援を求めるためには具体的なエピソードが必要です。例えば「貧しいアフリカの子どもたちに支援が必要」と伝えたいなら、「朝食に何を食べたか聞くと、ある男の子は木の根っこでした」と具体的な話をすることです。そうすれば多くの人が共感して耳を傾けてくれます』と話されていたのです。
 知花氏は、国連世界食糧計画の親善大使を務めた経験に基づいて発言をなさっています。でも、私は「そうなのかな?」という思いを消すことができませんでした。ある分野について、その分野の専門家が、それほど知識や経験のない「素人」に対して理解を深めてもらうために話をするとき、大きく分けて2つの方法があると思います。一つは、知花氏のように、インパクトのある物語を提示することであり、もう一つは客観的なデータを示すことです。
 前者が木の根っこの朝食であれば、後者は子供の平均的な1日当たりの摂取カロリー値であったり、栄養失調児童の100人当たりの人数であったりすることになります。私はこのブログで約20年間、学校教育や教員の問題について自説を展開してきました。私は正規の(?)教育学者でも研究者でもありません。自分の教員としての、社会科教育の実践者としての、教委に勤務して教育行政に末端を担ったものとしての、あるいはその中でも人権教育や指導力不足教員問題を担当してきた経験を基に連載してきたものです。
 ですから、私の話は知花氏のいうところのエピソード型になりがちです。それでも私は、エピソード型を良しとするのではなく、少しでも客観性をもたせたいと考え、A君の話、Bさんの事件、C教員の実践、D教員の失敗などという形で語ることをできるだけ抑えようとしてきました。
 それは、エピソード型は、得意な事例に焦点をあてることで、事実とは異なる印象を与え、植え付けてしまう危険性があるからです。悲惨ないじめの事例を取り上げれば、学校にはいじめ被害者の苦痛に無関心で、自己保身のための情報隠蔽しか考えていない教員と校長しかいないような印象を与えることは可能ですが、それは事実とは違うのです。複数の教え子と性的な関係をもった教員を取り上げれば、学校は変態教員が野放しになった無法地帯のように見えてしまいますが、もちろんそれは間違いです。
 客観的なデータを提示することでも、印象的なエピソードを提供することでもなく、面白くも感動的でもない「普通」や「多数派」の物語を提示する、私は自分はそうありたいと考えてきました。それでよかったのか、改めて考えさせられました。
 

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