ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

馴染まないものは定着しない?

2021-11-18 06:59:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「定着する?」11月14日
 心療内科医海原純子氏が、『燃え尽きない』という表題でコラムを書かれていました。その中で海原氏は、『簡単にイメージできる言葉がない英単語は日本の社会となじみが薄いと思っている。例えば「プライバシー」や「ジェンダー」という言葉はうまく訳せないから外来語としてそのまま使われている。プライバシーやジェンダーという概念は、この言葉が海外から入ってくる前は、考えずにきたのではないだろうか』と書かれています。
 そうかもしれないなぁ、と思って読み進めていましたが、気が付くと学校教育の分野ではどうだろうと考えていました。学校教育にも様々な外来語が使われています。それらは、それまで日本人があまり考えたことがない概念、解説されても感覚としてしっくりとなじまないものなのではないか、ということです。もし、そうであるならば、その定着には多くの工夫が必要となるのではないか、ということを考えたのです。
 まず長年使われている体育とスポーツについて考えてみます。学校の授業は体育です。一方で、身体を動かす行為のことを学校外ではスポーツと呼びます。運動という言葉が使われることもありますが、学校外で体育という言葉が使われることはありません。教育ではないので、「育」の字が入った体育は使われなかったという説もありますが、そもそも本来のスポーツという概念が、我が国の学校教育に馴染みのないものだったことが原因だと考えます。我が国の体育は、軍隊の教練や運動会の組み体操のイメージと親和性が高く、楽しむより鍛えるが勝ったものなのです。
  次に、ボランティア教育を取り上げてみます。当初は奉仕活動などと呼ばれたこともありましたが、どうもしっくりとせず、結局訳すことなくボランティア教育という呼称に落ち着きました。これも、キリスト教の博愛主義に基づくボランティア活動を学校が消化できなかったことを示しています。
 単位を取るためのボランティア、内申書の評価を上げたり、就職に有利だからボランティアの経験歴を得るというような在り方がおかしいのは当然ですし、ボランティアを強要するというようなあり得ない発想が真面目に議論されることも、馴染まないことを示しています。
 ディベートはどうでしょうか。30年ほど前、新しい教育手法としてディベートが注目を浴びました。当時の教育研究のテーマを見ると、何らかの形でディベートに触れたものが多く目につきます。一時、討論型授業などと言ったこともありましたが、いつの間にか消え、訳さずにディベートをそのまま使うようになりました。ボランティアと同じ形です。
 一方で、LDやADHDをいう言葉は、学習障害、注意欠陥多動障害など日本語に訳され、教員間での理解が深まっていきました。以前からそうした子供たちへの対応に悩んでいた教員にとって、実態が目に見えて理解されやすかったのでしょう。
 今年は、コロナ禍の広がりによって、リモート学習という言葉を再三目にするようになりました。今のところ、遠隔授業などと言い換える動きは乏しいようです。リモート学習は、学校に馴染み受け入れられていくのでしょうか。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 前提を疑う | トップ | わが子の担任はキムタク »

コメントを投稿

我が国の教育行政と学校の抱える問題」カテゴリの最新記事