ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

異論だらけの平和教育を

2024-08-20 08:33:00 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「思考停止」8月14日
 論点欄は、『「記憶の継承」の継承』というテーマで、3人の識者が、『戦争体験者から非体験者に、その体験を伝える「記憶の継承」は、平和学習などで繰り返しなされてきた。しかし、戦争の記憶を残す人々が減る中、さらに次の世代に教訓を継承する難しさが浮かび上がる』  という現状を踏まえて、それぞれの見解を述べていらっしゃいました。
 その中で私は、次の2つの言葉が印象に残りました。明治学院大研究員古波藏契氏の『「二度と戦争を起こしません」と復唱させるだけの「修身教育」然とした平和教育の弊害』という言葉と、慶応大専任講師清水亮氏の『「記憶の継承」=「結論の継承」だった面がある。多くの場合、送り手も受け手も「平和の大切さ」といった結論が伝われば、継承ができたように感じていた』です。
 つまり、どのような記録や記憶を教材としても、最終的には、「戦争反対」「平和が大切」といった結論を強制し、子供たちがこうした言葉を口にすれば、平和教育、反戦教育は成功である、というこれまで主流だった平和教育を批判しているのです。
 偏見だ、平和教育の実践者と伝統への冒涜だ、という反論はあるでしょう。私も、教委勤務時代に一緒に仕事をした熱心な平和教育実践者の教員たちの顔が浮かび、彼らはこの指摘をどう受け止めるだろうと考えてしまいました。しかし、お二人の指摘は的を射たものだと思います。
 私はこのブログで、我が国の平和教育、反戦教育を批判してきました。それは情緒的なアプローチが多く、戦争のメカニズムを知り、戦争へ暴走しようとする権力をどのように制御するか、という方法論を欠いたものであるという趣旨でした。それは今も変わりません。ただ、今回、お二人の指摘を目にし、もう一つ考えたことがあります。
 それは、異論の排除という問題です。古波藏氏が「修身教育」然と言い、清水市が「結論の継承」と言ったことに共通するのは、学びの結果はもちろん、学びの経過においても、異論、例えば「戦争でしか解決できないときもある」、「実際に外国に攻めこまれたとき、何の抵抗もしないのか」、「弱い国だと思われれば何の落ち度がなくても攻め込まれる、ウクライナがそうじゃないか」といった意見を子供がもつ、あるいは表明するということを認めない学びが本当の学びか、自らの頭で考える主体的な学びかという疑問です。
 実際、多くの平和教育、反戦教育の授業では、こうした異論は表面化しません。もし、子供からこうした発言が出れば、それは指導の失敗だという評価を下されてしまうのです。教員はそのことを知っているために、授業は「戦争反対」「戦争は悪」「戦争を肯定する人は悪人」という類の発言で埋め尽くされるのです。そして、良い授業だったと、授業者も参観者も満足して終わるのです。
 平和教育に限らず、子供が授業のテーマを自らとかかわりの深い問題だと捉え、持てる知識と思考力を総動員して考える授業というのは、十人十色の様々な意見が飛び交い、そのことによって自分の考えがブラッシュアップされていく、そうした過程を繰り返す授業なのです。
 ですから、むしろ授業の初めや中盤では、戦争や軍備などについて肯定する意見が出るように仕向け、話し合いの中でそれらが次第に淘汰されていくような展開こそが望ましいのです。それでも、授業終了時、子供の1割は、時と場合によっては戦争は必要と考え、2割は戦争反対の人が多いのにどうして戦争は起きてしまうんだろうという疑問を抱き、3割は「先生、今度はウクライナ戦争のこと調べよう」と口にし、…というような授業こそ本当に評価されるべきなのです。
 そんな実践、今年は行われるでしょうか。

 

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