ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

恩師

2011-03-16 07:28:21 | Weblog
「恩師」3月11日
 編集委員の網谷隆司郎氏が、『「恩師」という言葉が、素直に心に入ってくる季節です』というタイトルでコラムを書かれていました。網谷氏は、北海道大学時代の「恩師」吉田廸子氏の訃報記事を目にしたことから、吉田氏との思い出を書かれているのです。
 『担任といってもその時間だけ教室に現れる程度だった。アメリカ文学が専門の先生が使った教材は米女性作家、カーソン・マッカラーズの短編小説だった。叙情的な繊細さに満ちた作品に私は引かれた。「彼女の作品が好きなら、これも読んでみたら」と先生に薦められたのが、同じ作家の長編小説「The Heart Is A Lonely Hunter」だった。厚さ2cmもあるペーパーバックの原書を買って辞書を引き引き読んだ。人生初の原書完読経験だ~(中略)~その後私は教養部から法学部に進み、先生と会うことはなかった。ただこの一冊のつながりで私は「恩師」と心に刻んでいる』というものです。
 吉田氏は、なんと幸せな「教育者」だったのでしょう。私もこうした関係を教え子との間で結びたかったと思います。しかし、だからといって、吉田氏が、素晴らしい教員であったと言い切ることはできません。それは2つの理由からです。
 まず、網谷氏にとって生涯の「恩師」であっても、他の学生からみたとき、全く別の評価が下されているかもしれないということです。そんな事例は珍しくありません。私にとって歴史の面白さに気付かせてくれた中学校のI先生は、同じ中学で学んだ私の姉にとっては「感じの悪い先生」でしかありませんでしたし、小中9年間の友人であったS君は、私の好きなS先生のことを「嫌味なババア」と嫌っていました。ですから、もしかしたら、吉田氏のお陰で英語が嫌いになった、などと考えている元学生がいるかもしれないのです。
 そして、網谷氏が吉田氏に抱く好印象は、吉田氏の英語教員としての授業力や講義力によるものではないということです。講義以外の場でどんなに素晴らしい行為があろうと、教員の評価には関係がありません。端的に言えば、「教育者」としての評価と「教員」としての評価は同じではないということです。実際、こうした「教育者」としてはまあまあだが、「教員」としてはダメという教員は、小中学校でも珍しくないのです。授業は下手だけれど不登校の子供の家に毎日通い子供の話し相手になってやる教員、授業は問題集の答え合わせばかりだが放課後も休みの日も部活の指導で子供と向き合っている教員、授業中は脱線ばかりして年度末には教科書を読むだけで授業を終えてしまうけれども話が面白いと評判の教員、等々。教員が自由に講義内容を決めることができる大学とは異なり、学習指導要領によって学習内容が決められている小中学校の教員の場合、これでは、教員失格なのです。
 今、多くの学校で教員評価の試みが行われています。そこでは、一人にとって好ましい教員は良い教員なのか、良い教育者は良い教員なのか、という基本的な問題が未解決のままであることが多いように思います。
 小中学校の教員は、吉田氏のように一人の教え子に深く影響を与えることよりも、すべての子供に広く薄く良い影響を与えることを目指すべきなのです。その上で、一人でも網谷氏のように思ってくれる子供がいれば、何も言うことはありません。
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