「○○なら」8月13日
オピニオン編集部吉井理記氏が、『靖国と土用の丑』という表題でコラムを書かれていました。その中で、次の記述が印象に残りました。『憲法学者の小林節さんが、右派団体「日本会議」系の憲法学者に「日本人なら8月15日に靖国に行くのは当然ですよね」と問われ、「違う」とはねつけると「汚物を見るような目で見られた」と明かしていた』という記述です。
私は、8月15日に靖国神社に行ったことはありません。閣僚の靖国参拝にも反対です。でも、8月15日に靖国に行く人を非難しようとは思いません。もちろん、行かない人を「偉い」と褒めるつもりもありません。
それは、自由を尊ぶ我が国において、様々な背景をもつ人がいて、様々な考え方をする人がいるのは当然であり、個人として参拝は自由であるべきだと考えるからです。実際に自分の祖先が靖国に祭られている人であれば、年に一度お参りを、と思うのは自然かもしれません。共に先の大戦を戦った戦友が祭られている人であれば、家族に車いすを押してもらっても手を合わせたいと思う心情も理解できます。
そうしたことの延長線上で、亡き祖父から「8月15日には自分の代わりに靖国へ…」という遺言を伝えられて足を運ぶという人もいるかもしれません。しかしその一方で、自分の祖父の戦地での苦しみを聞いて育ち、当時の政府や軍の上層部に強い恨みをもつ人がいても不思議ではありません。そんな連中(A級戦犯)が祭られているとこへなんか一歩でも足を踏み入れるものか、という気持ちになってもおかしくはありません。
もちろん、先の大戦に直接的な思い入れはなくても、我が国のために働かれた人に感謝の気持ちをという人もいれば、A級戦犯を合祀している靖国を参拝することは帝国主義侵略主義を肯定することだという思いから靖国に背を向けるひともいるでしょう。
そうした全ての人の思いを否定せず、「あなたはそうなんですか、私はあなたとは違って~」と話し合えるのが、自由な社会の良さであるはずです。「日本人なら~」という言い方、考え方は、個人を認めず尊重しない危険な考え方です。
男なら、女なら、○○なら、というように人間をたった一つの属性で括り、ある価値観を押し付ける行為こそ、人権侵害の典型的なパターンなのです。また、○○ならという発想は、○○のくせにという捉え方に転化して、他人を攻撃する手段と化していくのです。朝鮮人のくせに、中国人のくせにといって差別をしてきた歴史がそれを証明しています。
我が国がこれからも引き続き、レッテル貼とは無縁な自由な意見交換ができる社会であるために、学校教育の場からレッテル貼をなくさなければなりません。日本人なら、男なら、お兄さんなら、上級生なら、そんな「なら」は身の回りに残っていないでしょうか。
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