創価学会・公明党が日本を亡ぼす

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サヨナラ.私の池田大作-49

2016-11-27 11:35:30 | Weblog

『サヨナラ 私の池田大作』--女たちの決別--
  創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編著
              2013/7/3 人間の科学新社 

18.学会の公認通訳として見た池田氏の姿  後呂 聖子

      理境坊所属妙観講
      埼玉県出身
      元学会公認通訳
      創価大学・文学部 英文科第十期生
   ------(P260)---(以下、本文)-------
<2-1>
◆ 学会への献身
 私は学会っ子二世として、創価学会員の両親のもとに生まれました。
 両親は、学会の活動拠点として我が家を提供し、広布のためにと、より広い会場を目指して引っ越したり、家を建て替えたり、百畳敷きの会館を提供したり、熱心に活動を行なってきました。
 父は、昔から、創価学会戸田二代会長をとても尊敬していました。それは、戸田氏が、日蓮大聖人の教えである折伏を実践し抜いた人だったからです。
 そうした関係で、我が家は、自然と日蓮正宗の教えに素直に従うことができ、それはとてもありかたいことでした。

◆ 池田センセーの愛人問題
 私が静岡の高校にいた頃、母がN子さんと大親友になり、その女性が池田センセーの愛人であることを知りました。
  その女性は、結婚していて夫も子供もいます。御主人は、自分の妻とセンセ-との関係を承知していて、何も言わない御褒美として、センセ-から大幹部に任命されたというのです。
  N子さんの母親は私の母の前で、センセ-との親密な関係について話してくれたそうです。「先生のためなら娘がヴァージンを捨てることは名誉なことだ」と母親が語っていたと聞かされ、あまりの異常さに信じられない思いでした。
 当時高校生だった私は、おかしいのは、N子さんの母親なんだと判断し、池田先生を疑うことなどしませんでした。そして、中学時代からの夢であった通訳になるために勉学に励み、第二志望の創価大学に入学することになりました。
 そして、在学中に「通訳になりたいのは、単なる自己満足ではなく、世界中に日蓮大聖人の仏法を求めている人達がいて、その人達に仏法を正しく伝えるためであり、少しでもその人達が幸せになるお手伝いをさせて頂くためである」と自覚してからは、さらに一心不乱に英語の勉強と信心活動に打ち込みました。

◆ 「御本尊模刻事件」に衝撃
 そうした中で池田大作不信への決定打となったのは、池田センセ-によるご本尊模刻事件でした。
 昭和五十四年十一月七日、池田センセーをはじめとする学会幹部が、御本尊様を偽造したことに対するお詫び登山を申し上げたことが聖教新聞紙上に掲載され、その記事を読んだ私は「御本尊様を偽造してしまうような大謗法の人間を自分は絶対と仰いできたのか、これからは何を信じれば良いのか」と大混乱に陥りました。当時学会の幹部であった両親からも事の真相を聞き、池田センセ-が御本尊を勝手に作ってしまったことが、本当であったと知るにつけ、自分のこれまでの全人生が否定された気持ちになり、大衝撃を覚えたのでした。この事は、生涯拭うことのできない池田大作不信の根源となったのです。それでもその時に両親の出した結論は、「学会側が御詫びをしたのだから、学会からはとりあえず離れない」ということでした。

◆ 間近に接してショック!
 私は、内心にわだかまりを抱えながらも、「広宣流布のお役に立てる通訳になりたい」という強い気持ちに変わりはなく、勉強を続けていました。当時は、池田センセーの英語の通訳といえば、矢倉涼子さんが活躍中でした。
 その矢倉さんが私の大学在学中に結婚することになり、“ポスト矢倉涼子”選びが始まって、まだ学生だった私に白羽の矢が立ち、私は「涼子部隊」と称される通訳のメンバ-に選ばれました。
 そのグループの目的は、“矢倉涼子に続く、池田センセーのお役に立てる通訳を育てる”というもので、英語以外の言語も含め、全部で七、八人はいたと思います。
 それまでは比較的遠い存在だった池田センセーを、私がすぐ目の前で見たのも、この涼子部隊の集まりの時でした。それまでは、池田センセ-が大学に来た時に、一緒に記念写真を撮ったり、講演を聞いたり、会食会に参加したりということは数多くありましたが、私は大勢の中の一人にしかすぎませんでした。それが、私のすぐ目の前でセンセ-に接する機会ができたのです。
 間近で接したセンセ-に対する私の第一印象は、「ふんぞり返っていて、何と不遜な態度の人なんだろう」という強烈なものでした。しかし、その頃の私の心の奥底では、矛盾を抱えながらも“池田センセ-は、信心の絶対的な指導者”と信じ込むよう教えられていましたので、すぐさま、「自分は何て信心がないんだろう! そんなふうに思うのは、自分の心が汚ないからだ」と思い直し、自分の直感をかき消しました。
 その席では、さらに腑に落ちないことがありました。
 涼子部隊の一人がセンセ-に、「八〇歳を越えた祖母が体も弱っていて、どうしたらよいか」との質問をしたところ、センセ-からは、「もう、そこまで生きたのだから、いいよ」と答えたのです。
 私にはどうにも納得のいかない返事でしたが、それもまた、深く考えないようにして、心の中に封印しました。
 今にして思えば、誰人たりとも、「あなたはもう充分に生きたからよい」とか「悪い」とかなどと判断を下す権利などあるはずがなく、正しい信仰者の言葉としては、「最後まで福徳を積ませて成仏を遂げられるように、家族で助けてあげましょう」と言うべきだろう、と思います。
 いずれにせよ、これが生(なま)の池田センセーとの最初の出会いでした。
    ----この項おわり----(264P)----つづく--

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