創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

サヨナラ.私の池田大作-47

2016-11-25 08:34:03 | Weblog

『サヨナラ 私の池田大作』--女たちの決別--
  創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編著
              2013/7/3 人間の科学新社

17.創価大学OBの使命は創価を糺すこと    森下正代
      理境坊所属妙観講
      入信 昭和三十五年十一月二十七日
      出身地 大阪府大阪市・堺市
      創価大学法学部九期生
    ------(P249)---(以下、本文)-------
<3-2>
◆ 創価大学の寮生活は、過激な池田崇拝教育
 創価大学の男子学生寮にいた友人から聞いた話を紹介します。創価大学生は殆どが創価学会員で、入寮者ともなると、例外を除いて一〇〇%学会員です。
 同じ信仰をしている仲間の共同生活である寮生活ですが、外敵がいないとどうなるかというと、お互いのあら探しを始めるそうです。
 寮では、朝、部屋員みんなで一緒に勤行して、聖教新聞を読み合わせたり残寮生の指導があったり、一人一人決意や目標を発表したり、学会歌を歌ってから大学にいく。
 部屋員や寮生どうしだとお互いの目標や決意を熟知しているので、そこから外れたように見えることをすると、「お前は池田先生の思いがわかっていない」だの「池田先生の御恩にこたえられるのか?」だのと怒られる。叱咤ならいいが、それを逸脱したいわゆるつるしあげの攻撃がある。
 努力して池田先生に近い寮生が偉くて、努力を怠って池田先生から遠い部屋員は駄目という雰囲気が充満している。
 各部屋の残寮生(原則一年で退寮のところ、一年以後も寮に残る優秀とされる学生)どうしは部屋と部屋でライバル意識があり、池田先生を求めるという点で従順ではない一年生がいると、「あそこは残寮生の指導がなっていない」、「俺の部屋がみんなで強く池田先生を求めているのは、俺がしっかりしているからだ」などと、陰で罵ったり自慢したりする。
 最悪は学年末にある残寮ミーティングというもので、「どういう思いで寮を卒寮するのか?」「どういう思いで寮に残寮するのか?」という各々の明確な意思と根拠を部屋員全員に認めてもらわなければならない。
 これを全員が納得の上で出来ない場合は、部屋員全員の連帯責任となり卒寮も残寮も保留になる。
 また部屋員に認めてもらえない人は、池田先生の弟子失格の烙印を押される。
 このように、残寮ミーティング中は険悪かつ最悪の雰囲気が漂い、とても勉強どころではない。
 寮に残る意思がある人は一挙手一投足を周囲から見られて「そんなんで残寮する気か!」「そんなんで池田先生から預かった後輩を守れるのか!」と、正論ぶった罵倒合戦が繰り広げられる。その試練を乗り越えてこそ栄誉ある残寮生となる事が出来る。
 だから、残寮生ミーティング期間は寮生全員が池田優等生の良い子の模範生を装わざるを得ない。
 これが、創価大学の生々しい寮生活の姿だと教えてくれました。
 そういえば、池田大作の次男である城久氏が、創価大学の学生課に勤めておられた頃、有望な学生の情報を創立者に報告していたと聞いたことがあります。報告を受けた創立者は、その学生に目をかけるようになり便宜を図ったそうです。 壁に耳あり障子に目ありの情報収集が行われていて、男子寮は大変だなあと思ったものでした。
 幼い創価学園の寮では、担当教官が寮の舎監として付きますので、一層マインドコントロールが強化されているとも言われています。
 私自身は、創価一貫教育の中にいましたが、幸いにも寮生活は大学一年の一年間だけでしたし、私のいた朝風寮はいたって自由でしたので、池田絶対崇拝者にならないですんだのだと思います。

◆ いつしかマインドコン卜ロールされる
  五十二年路線と呼ばれる謗法路線の最中、学生時代を過ごした訳ですが、まさか本当に学会が謗法をしていたとは思ってもいませんでした。
 「週刊誌には嘘しか書いていないから読んじゃいけない」と言われて真に受けていました。大学入学後すぐに日達上人様御遷化と池田会長勇退の記事が聖教新聞に載った時、勿体無いことなのですが猊下様は遠い存在にしか思えず、ああ御遷化なさったのだとしか受け取らなかったのに、池田先生は何も悪いことをしていないのに、どうして勇退されなきゃならないのだ? と涙したことを覚えています。
 組織の中にいると、時折違和感を感じつつも、何故違和感なのか自分を納得させるに足りる説明がつけられないまま、次第次第にマインドコントロールされてしまうのだと恐ろしく思えます。
 今は還俗していますが、下の弟が昭和五十七年に得度を許され、日顕上人様の徒弟になりました。その頃から我が家では大日蓮という日蓮正宗の機関紙を購入し、猊下様の御指南を拝するようになり、父母会で猊下様の御尊顔を拝する機会に恵まれました。
 弟は無念にも還俗してしまいましたが、そのような昭和と平成の端境期の頃、創価大卒業生の集いである総友会総会が開催された創価大の体育館で、久しぶりに創立者を見ました。

◆ お茶を飲みながら勤行する池田大作
  創立者の池田は「皆勤行して無いだろうから、僕が皆の分も祈ってあげるよ」そう言って始まった勤行ですが、突如お鐘の連打、打つというよりもお鐘を殴るという状態が二十回ほどあり、その後唸り声にしか聞こえない御題目めいたものがしばらく続き、また突然お経めいたものが始まりました。
  唱和しようと努力はするものの、私にはどうしてもお経に聞こえないのに、周りの人達は唱和しているようで、その異様さに恐怖を感じました。唱導している創立者の前に香炉が運ばれ、焼香が終り香炉が下げられると、今度は蓋の付いたお茶碗が恭しく運ばれ経机に置かれました。やおら蓋を開け中のものを飲むという信じられない光景を見ました。
 勤行後の、創立者の学術的スピーチを楽しみにしていたのですが、「明日の聖教新聞読んで」とおっしゃいました。訳が判らず、会の終了後、久々にあった東京在住の親友に、「今日の創立者体調お悪いの? 勤行変だつたよね? 途中で何か飲まれるし」と言うと、「そんなこと言うのは正代の信心がおかしいのよ!」と言い返され、「勤行が御題目三唱か
ら始まらないなんて違うでしょ」と言うと、彼女は「皆に元気をつけて下さるために気合を入れておられるのよ!」と不可解な弁護を強調するばかりでした。
       ---------(254P)-------つづく--

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サヨナラ.私の池田大作-46

2016-11-24 08:54:08 | Weblog

『サヨナラ 私の池田大作』--女たちの決別--
  創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編著
              2013/7/3 人間の科学新社

17.創価大学OBの使命は創価を糺すこと  森下正代
      理境坊所属  妙観講
      入信 昭和三十五年十一月二十七日
      出身地 大阪府大阪市・堺市
      創価大学法学部九期生
    ------(P245)---(以下、本文)-------
<3-1>
◆ 創価二世として生まれる
 私は大阪府泉南市樽井在住の森下正代(旧姓河野)と申します。
 昭和三十五年十一月二十七日に、創価学会員であった会社員の父と教員の母のもとに生まれました。母は三三歳の初産でしたが、御秘符を頂いて、破水し逆子だった私を七日目に無痛分娩したそうです。
 父母はそれぞれに様々な不幸を解決するべく多種多様な宗教に関わったのですが、何の解決も得られず、創価学会を通じて日蓮正宗に迪り着きました。
 両親は、一生懸命信心する中で、自身の病弱さや、経済苦等を解決させて頂いたので、御本尊様への確信と感謝をしっかり持つておりました。
 二世である私は、ただ親のいうとおりに信心しており、仏間にある日達上人様のお写真と池田会長の写真には、外出、帰宅時に、御本尊様に三唱、「猊下様、会長先生行って参ります」「只今帰りました」と挨拶し、「御供養しょうね」と母に言われると、節約を心掛けていました。勤行唱題は生活の一部でしたが、創価学会に特に興味があったわけではなかったので、両親の役職が何だったかを定かに覚えておりません。一時期は大B長、大B担だつたと思います。

◆ 池田会長は小太りのおじさん
 小学四年の頃、大阪府堺市の大浜体育館で池田会長との記念撮影会があり、そこで初めて池田会長を見ました。周りの大人が尊敬している池田会長の登場に、大きな期待があったのですが、普通の小太りのおじさんが現れたので、内心がっかりしながら、この人物の偉大さが判らないのは、私の信心が足りないからだろうと思い直しました。
 その時に、昭和四十七年に大阪に創価女子中学・高校を創ると発表があり、私は丁度中学進学の年だったので是非いこうと決意しました。
 創価女子中学・高校の入学式で、「創立者から一億円の寄付がありました」と発表があり、そんな大金を寄付できるなんて、池田先生はどんな仕事をしてそんなにお金が稼けるのだろう? という思いと、創立者が自分の学校に寄付するなんて当たり前のことを、敢てこの場で発表しなくても良いのではないかしら? という複雑な思いを感じました。
 一年目は中学一期三クラス、高校一期五クラスしか在校生がおらず、創立者は頻繁に学園を訪問され、私達学園生を学園の園の子、「園子(そのこ)、私の娘達」と呼び、私達は創立者夫妻を「お父さん」「お母さん」と呼ぶようになりました。創立者寄贈の「園子」と命名されたフランス人形が、図書館の二階に飾られていました。(創価大を卒業してまもなく、中学からの同級生が飛び降り自殺をしたという報を受けて、かって「私の娘」と呼んでいたはずの創立者が「高校四期の恥」と吐き捨てたそうです。たとえ名ばかりの娘であつたとしても命を絶った者を恥呼ばわりできるものでしょうか)
 学園のモットーは良識・健康・希望です。
 校訓には、
1.明朗快活な行動の中に豊かな心と気品を併せ持ち、敬愛される女性に育とう。
2. 想像的意欲に燃えて学習し、健全な判断力を養い、常に自己の向上を目指す聡明な女性に育とう。
3. 大きな視野に立つとともに、小さな事柄にも気を配り、人の立場を良く理解できる親切で礼儀正しい女性に育とう。
4.生命を尊び、平和と人々の幸福を切り開く強靭な意志を持つ女性に育とう。
 とありました。
 こんな女性になれたらどんなに素晴らしいだろうと思い、私は、創立者の期待に応えるベく、校訓通りの女性を目指そうと努力しました。

◆ 学園教育には違和感
 当時「創価と名前が付くけど宗教学校ではないの?」と一般の方から質問をされると、「創立者が創価学会の会長というだけで、宗教学校ではありません。」と答えていました。
 でも、授業の中で、広宣流布を熱烈に語った生物の先生が「総本山がアメリカにあっても良いんだ!」と主張する事もあり、私は、漠然とした違和感を感じていました。
 昭和五十一年創価女子高校四期、昭和五十四年創価大学九期(法学部法律学科)と推薦進学し、大学では生命哲学研究会(生哲)という日蓮大聖人様の仏法を学ぶクラブに入りました。
 生哲では、ことあるごとに「池田先生との原点」を問われ、一応当たり障り無く答えてはいましたが、別に池田先生との原点なんて無いんだけど、と思うしかなく、「如是我聞(池田先生のおっしゃつたことを私はこう聞いた)」と聞く度に違和感を感じていました。
 親友が落研に入り、先輩から「練習を何度も見て落ちを知ってるのに、本番でも笑うから正代ちやんは重宝するよ」と私は客員部員になりました。そんな時にある先輩が、「一分で出来る勤行って知ってる?」と言われ、「ありえないです」と答えると、実演してくれたのでびっくりしました。合掌、お鐘を打つふり、「勤行」と言うのです。こんなことをギャグにして良いのか? 笑えるのか? と思いました。後日、学会が提出した池田大作の裁判記録に、勤行一分とあるのを見て、さもありなんと思いました。
       ---------(249P)-------つづく--

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サヨナラ.私の池田大作-45

2016-11-23 07:33:07 | Weblog

『サヨナラ 私の池田大作』--女たちの決別--
  創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編著
              2013/7/3 人間の科学新社
    ------(P241)---(以下、本文)-------
《コラム》
④創価I貫教育の始まりと終わり  元愛媛大学助教授 福本潤一博士 (東大)
                                  理境坊信徒
 昭和四三年に創価学園が開学になつたと聞いて、いよいよ牧ロ初代会長の創価教育学の実践の場が展開するのだと胸躍らせた会員は、多いことだろう。
 創価高校一期生として入学した人には、今創価大学理事長になっている田代、アメリカ創価大学学長になっている羽吹、公明党国会議員になっている木庭健太郎、北側一雄などがいる。彼らはすべて創価大学に進学して、創価で重用されてきた人物である。
 逆にこの創価高校一期生で成績優秀なものの、創価教育にうんざりして晴れて昭和四六年東大に入学してきた人にSM、SH、HOの3羽カラスがいる。それぞれ、通産省キャリア官僚、東工大教授、弁護士になったし、実力でその職で活躍していくことができた3人だ。私は、創価学会学生部の前身とも言える東大法華経研究会の幹部として受け入れ、この後輩3羽カラスを担当した関係で、創価学園でのさまざまな体験談を聞かせてもらった。創価学園執行部や教官たちが張り切りすぎての強烈さがあったようでさまざまなエピソードが生まれていた。
 創価学園校歌となった「草木は萌ゆる」を作詞した一橋大学進学のOG君も、三羽カラスとともに東大駒場寮にやってきて創価学園での出来事や創価に対する苦情などの聞き役となることも多かった。(上記の特に三羽カラスと小倉氏の名前出してもOKか)
 東大入学年、日蓮正宗に入信し、日蓮大聖人の仏法に命の底から感動し、永遠にこの仏法を続けると決意し、牧口常三郎全集、戸田会長全集を読破していた私も、昭和四七年には、正本堂完成と共に創価大学が開学すると聞き、待ち遠しく思ったものである。地域の座談会で「将来は、創価大学に行きたい」と体験発表して婦人部の地区担さんから、「あんた東大出て創価大学に行くの?」と言われ「いえ、学者になって大学の先生として創価大学教官にと言う意味です」と答えた。
 本部幹部会でも、池田会長から初代学長になるという高松和男東北大教授が紹介された。「私が信頼する学会員で朴訥だが誠実な、心から信頼する高松新学長です」(趣旨)と、外部学者批判した後、高松経済学者をほめたたえていた。その子息長男は創価大学一期生に入学させ学者になったものの、その後、わいせつ罪で逮捕されたりしている。
 多くの学会員に期待され、昭和四七年に鳴り物入りで登場するはずであつた創価大学に大問題が勃発した。創価大学の創立準備委員会の責任者だった篠原学生部長から、昭和四五年頃、突然に連絡があった。
「四七年、開学予定だった創価大だが、それでは、創価高校一期生が四六年卒なので他大学へ分散してしまうことになる。急きょ一年早めることになった。教官陣をそろえたり、文部省と交渉したり大忙しだ。」ついては「新入生に配布したりする資料を整えるので、東大の入学生に配布する資料を全部くれ」ということであった。それで、大学規約や新入生の手引きなど、入学時に受けとる東大の資料一式を送ったことがある。
 正本堂着工の四三年に創価学園開校、正本堂完成の四七年に創価大学開校というふうに、ゴロ合わせの好きな池田流の宗教的権威の象徴にする予定が、一年間違えていたというお粗末な実態を露呈してしまったのだ。この事実を知つている人間は創大関係者にも余りいない。
 この当時、創価高校三年生として受験勉強中だった木庭参議院議員などは、「創価大学開学が翌年になるので、どこの大学に行くか悩んでいた」と言うから、卒業時に創価大学が間に合わなかったでは、創価の総体革命にも問題が生じて来よう。
 急ぎ、六〇年安保で亡くなった東大生樺美智子さんの父親樺教授など有名教授陣を招聘し、なんとか昭和四六年にあたふたと、開学にこぎつけたようで、池田流つじつまあわせは、見事と言う他無いが、諸問題を抱えての船出であった。
 その後、学会員以外の教授陣の追い出しや、他大学の学生も驚いた学生達による授業料値上げ要望の運動とか、創価大学のOB学生が創価大学を訴えたピッカリコ劇団事件、創大OB関係者が引き起こしたNTTドコモ漏洩事件などを経ながら現在開学四二周年を迎え、卒業生OB二〇万人を数えると言う。
 その間、九一年には創価学会は三宝破壊等の謗法により日蓮正宗から破門され、増上慢の池田大作は信徒除名になった。その池田の宗教的権威の象徴正本堂は地上から消え、今は奉安堂が建立されている。
 今後、創価大学はどうなるか? 総本山を失い、教義的終末を迎えた宗教団体創価学会は、創価大学を宗教的総本山に擬したいのだろうが、そんなことが可能ほど日本の法体系はいい加減では無い。創価大学・学園は私学助成金、公明党は政党助成金、創価学会は財務の他、優遇税制で固定資産税は無税など国税の甘い汁を受け尽くすことには、成功しているが、宗教法人の総本山が創価大学では通用するまい。宗教としての創価学会は教義的終末を迎えているものの、創価大学・学園は、終わりを迎えることになるのだろうか?
    ----この項おわり----(244P)----つづく--

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サヨナラ.私の池田大作-44

2016-11-22 08:35:29 | Weblog

『サヨナラ 私の池田大作』--女たちの決別--
  創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編著
              2013/7/3 人間の科学新社

16.今生満足の人生に感謝                 野村タツワ
      西大宣寺信徒
      入信 昭和三十一年
      出身 鹿児島県
      元学会支部指導長
    ------(P236)---(以下、本文)-------
<3-3>
◆ 総本山大石寺をこの目で確かめる
  脱会してからはお寺の参詣はつづけていました。お寺でも色々なことが次ぎつぎと起こり以前にも増して創価学会からの目にあまる行為が続きました。明けて平成四年の市議選も全く同じで、山口さんもよく生きてこれたと思います。私達も片時も気の休まることはありませんでした。脱会はしたものの、まだ日蓮正宗法華講の入講には至らず、長年学会で活動した同志の顔が思い出され、心のどこかに未練もあったようです。どこが正しいのかもわからず、先ず入講するには総本山大石寺の見学が大事と思い、久かたぶりに行くことにしました。
 自分の目で見て、学会が誹謗している総本山を確かめることだと思ったのです。
 平成四年九月十六日、婦人部四名が、御寺の奥様にご案内をしていただきお登山いたしました。あこがれていた本山に着いた途端、今までのモヤモヤもすつきり晴れ、あのすがすがしさは一生忘れない体験をすることができました。
 確かに、その日は、参詣者は少なかったですが、静かな佇まい、今まで見学も出来なかった所や日蓮正宗の色々な話も聞くことができ、これが本当の日蓮正宗法華講なのだと改めて思うことができました。
 心身共に生まれ変った思いで御開扉をいただき、「これで良かったんだ。」と何回も自分にいいきかせ、確信を持って帰ることができました。

主人の末期がんに「現罰」と中傷誹謗
 そして九月二十三日秋の彼岸会の日に親子三人で入講の手続を取り、新しい気持での信仰がはじまりました。その時、主人は七〇歳で仕事もやめ、今後は老後をたのしくと思っていた矢先、「直腸ガンの末期」と診断され、すぐ入院となりました。
 医者の診断では、この末期ガンは時間の問題といわれ、全身から力が抜けてしまいました。今まで病気したこともなく、まして脱会して三ヶ月もたつていないのに、こんなことになってしまい不安が益々つのりました。
 学会にわからないようにと内緒にしていました。が、病院には女子部の学会員も多く、またたく間に「野村はガンの末期だ」との中傷が広がり、「野村に現罰が出た」と大さわぎになりました。
 早速、御住職様に指導を受けたところ、本当に信心のあり方を教えていただき、不安と心細さがなくなり、信心に勇気が湧いてきました。毎日の唱題の中で、御本尊様に全てをおまかせし、信心することができました。そして、心も平静心を取り戻し、「明日からは泣かない自分と、近所にも笑顔でありのままのことを話していこう」と決意したのです。
 更にどんなことがあっても“学会の笑いもの”にはならないと決意しました。

主人の末期がんを克服
 兄弟抄に「女人となる事は物に随つて物を随へる身なり。夫(おとこ)たのしくば妻もさかふべし。夫盗人ならば妻も盗人なるべし。是偏(ひとえ)に今生計(ばか)りの事にはあらず、世々生々(しょうじょう)に影と身と、華(はな)と果(このみ)と、根と葉との如くにておはするぞかし」(新編「御書」九八七頁)とあります。
 何回か拝読するうちに、私にも、本当に主人に対して思いやる妻になれるような気がしてきました。
 今度の「末期ガン」は主人一人の病ではない、「二人で絶対に治して見せる、」と確信して信心に励めば、必ず良い結果が出てくることを、強盛に御本尊様に誓いました。
 今まで家族の健康のことなど思いもしませんでした。このように主人がここまで悪くなつでいたことも気づかず、ひたすら「池田先生の健康」を祈らされて満足し、生き甲斐にしていた自分を心から深く反省し、御本尊様根本の人生をやり直し、一生成仏願って祈念することが信心の要諦であることを思い知ったのです。
 するとどうしたことでしょうか。あれほど、医者から「末期がん」と宣告されていた主人の様態が、手術の結果も良好で、あんなに大きかったがんは再発のおそれもなく、日常生活にも、何ら支障もなくなったのです。
  病気してから二〇年が経過しましたが、現在主人は九〇才になりました。
 今、グルーブホームに入り毎日たのしくおだやかに暮しております。

今生満足の人生に感謝
 生きて行く道のりには色々なことがありました。
 平成十九年には長男の嫁が卵巣ガンで急に亡くなり、当時四年生と幼稚園生の子供二人を、私が面倒をみることになりました。
 今年は、この孫たちが、高校と中学に進学するようになりました。
 私も八〇才を超え、確かに老齢になっての子育ては大変なことでしたが、その子供たちに教えられつつ、母親の居ない子供たちが、明るくたくましく、成長してくれましたことを心から感謝しております。
 私の人生を振り返ってみると、何と得難い人生だったのか感慨深いものがあります。
 すべて御本尊様の功徳のたまものです。母親のいない暗い家庭ではなく、にぎやかで何でも話し合える家庭です。これからもほんとうの法統相続と信心を中心に毎日を送つていきます。また二男の家族をはじめ、親せき等、あらゆる人達に信仰の話をつづけていきま学会の皆さんに申し上げたいと思います。学会で言われることや人のうわさにだまされず、先ずは総本山にお登山して自分の目でたしかめることです。
    ----この項おわり----(240P)----つづく--

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サヨナラ.私の池田大作-43

2016-11-21 08:16:16 | Weblog

『サヨナラ 私の池田大作』--女たちの決別--
  創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編著
              2013/7/3 人間の科学新社

16.今生満足の人生に感謝                 野村タツワ
      西大宣寺信徒
      入信 昭和三十一年
      出身 鹿児島県
      元学会支部指導長
    ------(P230)---(以下、本文)-------
<3-2>
学会活動の「三本柱」
 ここで、私が体験した学会活動での「三本の柱」ともいうべき聖教新聞の啓蒙・票の獲得を優先する選挙戦の実態・悲惨な財務啓蒙活動を述べて行きます。

●多部数の聖教新聞の啓蒙
 「聖教新聞の啓蒙」入信して間もなく配達員となり、当時は範囲も広く朝出て夕方帰る時もありました。やがてブロック単位になり地域別になりほっとする間もなく、啓蒙増部とそれらの活動もはげしくなり、啓蒙が思うように出来ない場合には自分で購読していた時もありました。ほとんどの配達員が聖教新聞を多部数をかかえ込んでいました。池田先生も幼少の頃配達していたと、幹部が美談の話をしながら、配達の真似をして見せる時もありました。
 何時も配達員は「無冠の友」だと、もてはやされ何の意味かもわからず頑張っていました。また外部の人たちに啓蒙のお願いをするのですが、ほとんどの人はいやがるので、それを承知で「新聞の代金は払わないで良いからお付き合いしてくれ」と頭を下げてお願いした事もあります。今でもそうしていると聞いております。六〇才で配達もやめましたが別の書籍や聖教新聞などに関する色々な購読物で、一ヶ月に約一万円近くの金を払っても、別に不思議とも思っていませんでした。今思えば情けなく自分に腹がたちます。今でも、活動家のほとんどは三部以上の人が多いと聞いております。

●選挙活動の実態
 票一つ取れば折伏一人する程、功徳がある大事な戦いだと指導されてきました。県内はもちろん県外まで着のみ着のまま一週間、二週間は帰れなくなり、家事や子供の世話もほったらかし、又自分で行けない時は、時間の取れる婦人部に活動費を渡した事も一度や二度ではありません。幹部から「家に居るな」と言われ、年寄りの人は墓に行って、墓に書いてある名前を名簿に載せて報告したと言つていました。
 とにかく、学会員が選挙活動することは、家族に対しても、多額な諸経費を使うことも、全て損失となります。選挙活動しているときは、それが見えなくなり上の幹部のいいなりになってしまうのです。今となっては、自分の責任ですが、これは明らかに創価公明党のマインドコントロールに囚われているのです。今からでも遅くはありません。学会員は選挙活動を止め、その分、家族や自分の時間に使うべきです。私の反省した選挙活動の体験から申し上げました。

●財務の献金出せない人からも取る
 学会の初期の頃は「御供養精神が大切だ。金額の大小ではない」と言いながらだんだんと上乗せの指導が始まり、地区や支部で競争するようになりました。大人から子供達迄、売れるものは全部金にした人達もいました。先ず「目標を立てれば金は出てくる」と言われ、会合では、高額財務をした功徳の話を、次から次へと幹部たちは得意になって話をしていました。
  有り得ない作り話が横行していました。例えば、北国では自分の畠だけ霜がおりず野菜が高値で売れたとか、また、以前から仔牛を生むことができない親牛が連続して仔牛を生み出し、しかもメス牛ばかりだったとか、更に漁村ではタコつぼにタイが入ったと、「目出鯛」とか、笑い話にもならない事を言って、会員を煽り続けていました。
 その結果として、幹部は、財務を三桁実行しましょうと督励していたのです。
 私たち家族も、御供養の精神で、学会に所属した最後の平成二年、家族で百二〇万円を財務しています。その悔しい思いをした領収書もまだ手元にあり、創価学会の金集め体質を許せない、思い出の資料となっております。

◆ 無節操な学会の対応
 四月七日の投票日が明けて山口さんは落選、あろうことか学会は山口さんの位牌迄作っていました。余程、山口さんに憎悪を抱いていたのでしょう。落選で喜んだのは学会でした。
 次の日から昼夜を問わず入れ替り立ち替り婦人部幹部が来て早く学会に帰るように手をかえ品をかえ、ニコニコ顔で笑いながら「野村さん、今度のことはあなたの本心ではなかったんでしょう、私達幹部の指導不足で騙されたんだから、もう一度学会で仲良くやりましょう」と説得してくるのです。
 この時ほど、創価幹部たちの態度に腹が煮えくり返る思いでした。
  私は幹部たちに向かい叫んでいました。
「昨日迄、『野村!』と呼び捨てにし、で今日は『野村さん』ですか、私が誰に騙されたというのですか、反逆者といわせたのはあなた達幹部でしょう。せっかく反逆者になったんだから反逆者の名に恥じないよう頑張るから、覚えていなさい。これ以上話すことはないから二度と来ないでくれ、」と追い返しました。
 あろうことか、このようなことは度々ありました。

◆ 二男と今生の別れ
 私の二男も東京で男子部の幹部だったので度々帰って来ては「池田先生に弓をひき、裏切るようなことだけは絶対にしないでくれ、今自分がここまで成長出来たのは母さんから学会の中で育てられたから。」と泪を流していうのです。
 いくら親子でもこれだけは一歩も引けず、「正しい道は一つしかないのだ、親だから嫌なこともいうのだ。」と必死の思いを息子に話しましたが、二男はなかなか心を開くこともなく、「また来るね」といって帰る姿を見送るが精一杯でした。
 誰がここまで洗脳したのか、ますます創価学会に憤りを感じました。
 その二男も会社の上役から抜擢され、昇進したのですが、間もなく、平成二十二年舌ガンのため五三才で亡くなりました。
 最後、病気見舞い行った時、主人がお守御本尊を私に持たしてくれたので、二人きりになった時、「最後のお願いだから父さんのいうことをきいてくれ」と病室の壁にかけて二人で唱題しました。
 息子は、きちんとベッドに座り、「今迄育ててくれた両親の気持は十分判る。まだ恩返しも出来ずこんなになって、今ではどうすることも出来ない」と大声で泣いていました。
 二人で手を取り合って「父さんは分かっているから‥‥」とだけいったのが最後の言葉でした。
 今になつて法統相続を出来なかったことが悔まれてなりません。でも現在では、精一杯、二男の追善供養をしております。
       ---------(235P)-------つづく--

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする