『サヨナラ 私の池田大作』--女たちの決別--
創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編著
2013/7/3 人間の科学新社
17.創価大学OBの使命は創価を糺すこと 森下正代
理境坊所属妙観講
入信 昭和三十五年十一月二十七日
出身地 大阪府大阪市・堺市
創価大学法学部九期生
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◆ 創価大学の寮生活は、過激な池田崇拝教育
創価大学の男子学生寮にいた友人から聞いた話を紹介します。創価大学生は殆どが創価学会員で、入寮者ともなると、例外を除いて一〇〇%学会員です。
同じ信仰をしている仲間の共同生活である寮生活ですが、外敵がいないとどうなるかというと、お互いのあら探しを始めるそうです。
寮では、朝、部屋員みんなで一緒に勤行して、聖教新聞を読み合わせたり残寮生の指導があったり、一人一人決意や目標を発表したり、学会歌を歌ってから大学にいく。
部屋員や寮生どうしだとお互いの目標や決意を熟知しているので、そこから外れたように見えることをすると、「お前は池田先生の思いがわかっていない」だの「池田先生の御恩にこたえられるのか?」だのと怒られる。叱咤ならいいが、それを逸脱したいわゆるつるしあげの攻撃がある。
努力して池田先生に近い寮生が偉くて、努力を怠って池田先生から遠い部屋員は駄目という雰囲気が充満している。
各部屋の残寮生(原則一年で退寮のところ、一年以後も寮に残る優秀とされる学生)どうしは部屋と部屋でライバル意識があり、池田先生を求めるという点で従順ではない一年生がいると、「あそこは残寮生の指導がなっていない」、「俺の部屋がみんなで強く池田先生を求めているのは、俺がしっかりしているからだ」などと、陰で罵ったり自慢したりする。
最悪は学年末にある残寮ミーティングというもので、「どういう思いで寮を卒寮するのか?」「どういう思いで寮に残寮するのか?」という各々の明確な意思と根拠を部屋員全員に認めてもらわなければならない。
これを全員が納得の上で出来ない場合は、部屋員全員の連帯責任となり卒寮も残寮も保留になる。
また部屋員に認めてもらえない人は、池田先生の弟子失格の烙印を押される。
このように、残寮ミーティング中は険悪かつ最悪の雰囲気が漂い、とても勉強どころではない。
寮に残る意思がある人は一挙手一投足を周囲から見られて「そんなんで残寮する気か!」「そんなんで池田先生から預かった後輩を守れるのか!」と、正論ぶった罵倒合戦が繰り広げられる。その試練を乗り越えてこそ栄誉ある残寮生となる事が出来る。
だから、残寮生ミーティング期間は寮生全員が池田優等生の良い子の模範生を装わざるを得ない。
これが、創価大学の生々しい寮生活の姿だと教えてくれました。
そういえば、池田大作の次男である城久氏が、創価大学の学生課に勤めておられた頃、有望な学生の情報を創立者に報告していたと聞いたことがあります。報告を受けた創立者は、その学生に目をかけるようになり便宜を図ったそうです。 壁に耳あり障子に目ありの情報収集が行われていて、男子寮は大変だなあと思ったものでした。
幼い創価学園の寮では、担当教官が寮の舎監として付きますので、一層マインドコントロールが強化されているとも言われています。
私自身は、創価一貫教育の中にいましたが、幸いにも寮生活は大学一年の一年間だけでしたし、私のいた朝風寮はいたって自由でしたので、池田絶対崇拝者にならないですんだのだと思います。
◆ いつしかマインドコン卜ロールされる
五十二年路線と呼ばれる謗法路線の最中、学生時代を過ごした訳ですが、まさか本当に学会が謗法をしていたとは思ってもいませんでした。
「週刊誌には嘘しか書いていないから読んじゃいけない」と言われて真に受けていました。大学入学後すぐに日達上人様御遷化と池田会長勇退の記事が聖教新聞に載った時、勿体無いことなのですが猊下様は遠い存在にしか思えず、ああ御遷化なさったのだとしか受け取らなかったのに、池田先生は何も悪いことをしていないのに、どうして勇退されなきゃならないのだ? と涙したことを覚えています。
組織の中にいると、時折違和感を感じつつも、何故違和感なのか自分を納得させるに足りる説明がつけられないまま、次第次第にマインドコントロールされてしまうのだと恐ろしく思えます。
今は還俗していますが、下の弟が昭和五十七年に得度を許され、日顕上人様の徒弟になりました。その頃から我が家では大日蓮という日蓮正宗の機関紙を購入し、猊下様の御指南を拝するようになり、父母会で猊下様の御尊顔を拝する機会に恵まれました。
弟は無念にも還俗してしまいましたが、そのような昭和と平成の端境期の頃、創価大卒業生の集いである総友会総会が開催された創価大の体育館で、久しぶりに創立者を見ました。
◆ お茶を飲みながら勤行する池田大作
創立者の池田は「皆勤行して無いだろうから、僕が皆の分も祈ってあげるよ」そう言って始まった勤行ですが、突如お鐘の連打、打つというよりもお鐘を殴るという状態が二十回ほどあり、その後唸り声にしか聞こえない御題目めいたものがしばらく続き、また突然お経めいたものが始まりました。
唱和しようと努力はするものの、私にはどうしてもお経に聞こえないのに、周りの人達は唱和しているようで、その異様さに恐怖を感じました。唱導している創立者の前に香炉が運ばれ、焼香が終り香炉が下げられると、今度は蓋の付いたお茶碗が恭しく運ばれ経机に置かれました。やおら蓋を開け中のものを飲むという信じられない光景を見ました。
勤行後の、創立者の学術的スピーチを楽しみにしていたのですが、「明日の聖教新聞読んで」とおっしゃいました。訳が判らず、会の終了後、久々にあった東京在住の親友に、「今日の創立者体調お悪いの? 勤行変だつたよね? 途中で何か飲まれるし」と言うと、「そんなこと言うのは正代の信心がおかしいのよ!」と言い返され、「勤行が御題目三唱か
ら始まらないなんて違うでしょ」と言うと、彼女は「皆に元気をつけて下さるために気合を入れておられるのよ!」と不可解な弁護を強調するばかりでした。
---------(254P)-------つづく--