『サヨナラ 私の池田大作』--女たちの決別--
創価学会・公明党を糺すOB有志の会 編著
2013/7/3 人間の科学新社
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8・家族全員の脱会で嫌がらせは最高潮 東島ハツネ
覚源寺信徒
入信昭和三十六年五月二十七日
佐賀県創価学会元婦人部総合婦人部長
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◆ 変わった義弟の姿にビックリ
昭和三十四年の夏、主人の弟が突然に熊本から訪ねてきました。
彼は若い頃から、親戚一同から敬遠されている放蕩息子でしたので、もしや金の無心では? と心配いたしました。しかし、顔つきが以前とは変わり、穏やかになっているのが、何故か不思議に感じました。
更に、驚いたのは、事もあろうに彼は信仰の話をするために熊本から出てきたというのです。しかもその信仰とは日蓮正宗・創価学会だというのですからびっくりです。いろいろと考えても、およそ信仰とは全く無縁の人生を送ってきた筈の義弟だったのですが、いきざ、宗教の話になると、キラキラ眼を輝かせながら熱弁を振るうのでした。
「兄さん、お義姉さん、とにかく日蓮正宗・創価学会はすごい。俺は、今までは宗教を信仰するのは、世の中の人生の落伍者か、または愚かな人間がやるものと決めていたけど、どうもそうじゃないと分かったんだ。日蓮正宗・創価学会の信仰をしてみて、自分の人生観が全く変わつてしまったんだ。
今は、昔のような馬鹿な遊びなどとは一切縁を切って、真面目に信心と仕事に打ち込んでいるんだよ」…等々。
まるで、義弟は別人のように、「人間が変わる」ことができたと熱っぼく語るのでした。
◆ 毎月のように折伏に訪れる
しかし、今までの義弟の過去の行跡を知りすぎている私たちとしては、戸惑いや反発の方が先で、俄かに信じることなどできませんでした。その日は、暫くぶりで訪ねてきたことを歓迎しつつも、宗教には全く興味を持たず、体よくあしらいながら、帰ってもらいました。少し冷たい対応をしたので、もう来ることはないだろうと思っていましたら、その翌月には、またしてもやって来て、熱心に宗教の正邪について語るのでした。
主人は、過去のいい加減な義弟からは想像もつかない、真面目で真摯に応対する弟に対して内心ではとても喜んでいました。しかし、日蓮正宗・創価学会については、全く聞く耳がなく、無関心を装っていました。
ほどほどに聞いては、義弟を帰していました。過去の義弟ならば、体よくあしらわれると二度と来なくなるのですが、あにはからんや次の月も私たちのところに来るのでした。
◆ 信仰の話だったら、家に来るな!
幾度となく冷たくあしらっても、私たちが信仰はごめんだといっても、義弟は、毎月、必ず折伏に来るのです。そのしっこさといつたら半端ではありませんでした。
ある時、義弟はいつもよりも真剣に迫ってきました。
「兄さんたちがやっている宗教では駄目だ。早く日蓮正宗・創価学会に入らなければ」
と強い口調で話してきたのです。主人は、宗教の話はできるだけ避けてきたのですが、とうとう感情が高ぶり、義弟に最後通告のように言い放ちました。
「お前も知っているように、うちは先祖代々日蓮宗で、お前の信仰したところと同じ南無妙法蓮華経じやないか。だから、お前はお前で、俺は俺だ、もう、宗教の話だったら、二度と来なくていい!」ときっぱりと言ったのでした。
すると義弟は、更に真剣な顔つきになり「違う! 兄さん、そこが違うんだよ! たしかに同じ南無妙法蓮華経でも、日蓮正宗・創価学会のお題目とは根本的に違うんだ。日蓮正宗・創価学会の方は、炊きたてのご飯で、兄さんの方は三日前の腐ったメシで、必ず体をこわす飯なんだよ…」と、信じられないような迫力で熱弁を振るうのでした。
◆ 変わった弟を冷静に見直す
宗教に対しては平行線で交わることはできないという思いでしたが、それでも毎月のように訪ねてくる毎に、義弟が過去とは違う人生を歩んでいることを見始めました。仕事に関しても浮き草のように転々としていましたが、現在の職場では真面目に仕事に励んでおり、来るたびに責任ある立場に就いているのでした。
親戚中に鳴り響いた放蕩息子の義弟が、宗教によってこんなにも変わってきたという現実を、私たちは否定することはできませんでした。さすがに私たちも少しずつ、弟の話す日蓮正宗・創価学会に関心を抱くようになりました。
半年、一年、そして二年と根気よく信仰をすすめに来る義弟にたいして、私たち夫婦は、一人の人間として、また立派に社会人として自立しているその姿に、先ず信用してみようと思うようになりました。
◆ ついに日蓮正宗,創価学会に入信
信用してからは、義弟の話を素直に聞くようになれました。
その義弟が通い始めて二年目、昭和三十六年五月二十七日、遂に我が家に「日蓮正宗の御本尊様」をお迎えすることができたのです。本当に義弟には感謝しています。
昭和三十六年当時は、日蓮正宗・創価学会が全盛期の時代でもありました。池田新会長も日蓮正宗の仏法を世界広布する目標を掲げ、インドのブダガヤに御法主日逹上人猊下を先導して訪問したりして熱気がこもっていました。
私たち夫婦は、そうした創価学会の指導通り、あらゆる会合に参加し、飢えた砂漠に水を得るように、仏法を全身全霊で吸収していこうと夢中で活動しました。佐賀県を始め、九州各地、大阪・東京にも足を伸ばし、教学も一生懸命に学び、たくさんの人たちを折伏しました。また、何回もの総選挙にも県外におもむき、市議会選挙をはじめその他の選挙活動も経験してきました。
その後、二〇年の間、学会活動に明け暮れてきましたが、いつしか、主人も私も「総合本部長」という佐賀県鳥栖の創価学会の最高幹部になっておりました。
◆ 組織の変質に疑問が出てくる
私の入信した当時の創価学会は、何事につけても、信仰を根本に切磋琢磨していました。会合でお話するときも、必ず、信仰の糧となる「御書」を真擎に学びながら折伏を実践したり、後輩を育成したりしていました。
ところが昭和五十年代に入ってから、徐々に創価学会の活動が変化し始めてきました。
東京から離れた地域で活動してい関係上、客観的に少しずつ変わつてきた学会の活動に「あれ、どうしたのだろう」との疑問が少しずつですが出始めたのです。おそらく、今の学会員の方の多くも同じように感じているところだと思います。
一つは、入信当初は、「剣豪の修行」に例えられていた伝統の教学が、かなりなおざりにされていることでした。担当者の教学力が随分と薄っぺらになっていることでした。年間を通して仏法を学んだり、折伏を励行するよりも重要だったのが、選挙の票取りに費やされる時間があまりにも多いことでした。
これでは、宗教団体ではなく、政治団体と言われてもいいくらいです。私は選挙活動するために日蓮正宗・創価学会に入信したのではなく、本当の幸せを得たいがために入ったのですが、創価学会がいつの間にか政治団体に変質してしまったのです。
---------(134P)-------つづく--