--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
(本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)
<この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
--目次は第2回目に掲載--
------(P.196)---(以下、本文)-------
第三部 展望--その危険なる未来
6 創価学会はどこまで伸びるか
7 党勢拡大へのためのさまざまなる新組織
8 強引きわまる公明党選挙作戦
9 公明党の政治的主張を裸にする
10 公明党の目指す政治体制は何か
◆ 「完全中立」という虚像
◆ 政党政治をなんとみているか (~以上、前掲 P.266~)
◆ 低迷するイギリス経済を範にするのか
さらに経済体制でも、「イギスリの混合経済型」を充実、発展させたものを考えているが、いうまでもなくイギリス経済はいまやかっての面影はなく、むしろ西ドイツ、日本に脅威すら感じている状態である。公明党は、こうしたイギリス経済を範にするというのか、イギリス経済体制の吸収をはかり、それに北欧の福祉政策を加味したりして、これらの変型ともいうべき第三の経済体制を確立しょうとしているが、これとてもかって政策盗用として民社研あたりから文句をいわれたように、他国の経済体制に毛をはやそうとするチャチな発想といえなくもない。
公明党らしい言い方は「大衆福祉」とか「福祉経済」ということだが、たとえば「私有財産制については『絶対不可侵』とも考えず、また『全廃』を意図するものでもない。『原則として』生産手段の私的所有は差しつかえないと考えるものである。しかし『私有には義務がともなうべきである』」(公明党政策局『福祉経済への道』)といったアアでもない、コウでもない式の折衷にすぎないもののよせ集めが「福祉経済体制」なのである。
それをさも新鮮なようにいってるだけである。それは大企業の役割りを一方で認めながら、他方では大企業と中小企業の共栄をはかるなどといったり、社会福祉や分配の平等化を主張したりしているようなところにも現われており、資本主義と社会主義にケチをつけながら、あちこちのよさそうなところをつまみぐいしているだけのことともいえよう。
池田会長はこの「福祉経済体制」を「形態的には、たとえばイギリスの混合経済をさらに充実し、発展せしめたもの」(西島・前掲書)といっているが、公明党のかかげているものは「混合」ではなくよせ集めのキリハリ細工のような「混濁経済」といえるだろう。
ともあれ、公明党の考え方の一つにイギリス至上主義的な流れがある。さきにみた議会政治に対する考え方にしろ、イギリスを絶対化し、そこにあるものはなんでもいいんだとして、これを混合的に導人しようとしている。経済についても、ある程度まではそういえるであろう。
もっとも、率直にいって公明党には経済をやれる人間がいないようであるから、それもまたムリからぬことかもしれない。しかしそれにしても現在の低迷するイギリス経済を掘り出してみたところで、果たしてわが国が範とするものがあるかどうか、これに対し彼等はなんと答えるのか、そうしたことを曖昧にしておいて、ただ福祉経済体制だけ標榜して、それで公明党のいうような総花的政策が実現できるとでもいうのであろうか。
それにしても思い出すのは、かっての江田ビジョンである。江田ビジョンなるものは、生活水準はアメリカ、社会福祉はソ連、議会政治はイギリス、憲法は日本の平和憲法でというものであり、私はこれを四色アイスクリームと称したことがあるが、公明党にもまさにこうした甘さと粉飾がある。
要するにユートピアの対象の一つをイギリスに求め、そこにあるものはなんでもいいものとしてこれをとり入れる。そのためには現在、イギリス経済が斜陽にあろうが、その背景がどうあろうが、いっこうに気にしないという非現実性がある。実に甘い幻想をいだいているといわざるをえないということである。
◆ 実現できる政策を説け
これまでみてきたように公明党の政治姿勢は、現体制に、かたちのうえでは挑戦し、あたかも変革者になろうとする態度にみえるが、これはその保守的体質をべールにつつむための一種のジェスチヤーとみられなくもない。つまり現代日本の現象面については、とかくの批判をあびせているが、その本質、たとえば自由に対する考え方、自由に対する価値観といったものがあまり表面にでてきていない。このことに、この政党を考えるうえに注目してよい最も重要なポイントがある。いやしくも建前のうえでは公党でありながら、こうした人間本来の根源的欲求ともいうべき“自由”に対する理念あるいは倫理感、評価といったものを表面にあまり出してきていないということは、この政党の評価そのものにもつながってこよう。自由に対する理念がでてこないのは妥協を許さない日蓮正宗の教義を金科玉条とする政党の当然の帰結であり、したがつて公明党は自由に挑戦し、自由を否定しようとすらするのである。
ともあれ、公明党は創価学会という単一宗教に基盤をおいた宗教政党であり、今後も、その本質は変わらないであろう。
宗教政党は、元来、保守的体質をもちながらも理想主義的な傾向を強くもつものであるといわれている。
また、宗教政党である以上ヒューマニズムを標榜するのは当然であり、平和主義に徹するのもこれまた至極当然といわねばならない。
ただ、公明党で注意しなければならないのは、現世利益への執着が強いことから、仮に公明党が多数を制した場合--私は絶対にないと思うし、またあってはならないと考えるが--どう変化するかということである。
この点については、第二部のところでも若干ふれておいたが、考えられることは、政権に近づくことによっていっそう権勢欲をあらわにすることだろうということである。また、彼等の状況即応の理論からみても、理想主義がいつ現実主義に早変わりするか、絶対平和主義がいつ好戦主義に豹変するかわからないということである。
公明党には常に不確定な要素がつきまとっており、池田会長がどんなに立派な卓説を並べよとも、それを額面どおり受け取りかねるのである。
公明党の政策は書かれている限りでは、いうなれば書生の書いた模範的論文とでもいえる。
しかも、そこには心情倫理が常に優位先行している。それは一見理想主義、平和主義の方向にあるようにみえる。しかし、その言動はハッタリが強く、人を戸惑わすだけの右顧左べん型あるいは臆病な八方美人型にすぎないものである。実現性はきわめて乏しいといえよう。
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