創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価学会を斬る-40

2021-02-07 08:01:32 | Weblog

   --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
 創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
     (本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)
・近時のメディアは、フェイクニュース等が当たり前で、反省はないのか?
・アメリカの大統領不正選挙で、大手のメディアは横並び、SNS は言論・表現弾圧!!
・悪しき天才!! 巨大な俗物!!…は、 創価学会池田大作(石原慎太郎)…名言である。
・池田の 賽銭箱、ニセ本尊、大会館、名誉勲章等全ては真逆…その極大は政教一致!!
・もっとも、その創価・公明を利用して東京都知事を歴任した、石原もおぞましい!!


   <この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
 創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
     --目次は第2回目に掲載--
    ------(P.163)---(以下、本文)-------

5 創価学会の天皇・池田大作と幹部たち
 ◆ オールマイティな人間像のデツチ上げと神格化 (~以上、前掲 P.169~)
◆ 第三代会長に池田が就任-1
 池田が創価学会の就任したのは一九六〇年五月三日のことである。戸田城聖なきあとの創価学会をどのように拡大発展させてゆくかということが、三代会長としての彼に与えられた最大の使命であった。就任当時の規模は、ほぼ一七〇万世帯であり、現在のほぼ四分の一強に過ぎない勢力であった。これを拡大発展させうるか、現状維持にとどまるか、それとも崩壊の道を歩むか、その重大な選択をせまられ、創価学会の運命はまさに彼の腕ひとつにかかっていたといっても過言ではなかろう。

 そのとき、池田大作は三二歳。総務の職にあって、まさに熾烈な折伏の闘いをつづけ、宗教戦争の真只中にあって、全会員の先頭に立っていたといわれる。彼の若い胸中には戦争中の特攻隊長のそれにも似た悲壮な覚悟とヒロイズムが去来していたかもしれない。
  当時の彼の心境は、その就任挨拶の中によく現われている。一九六〇年五月三日、彼は東京両国の日本大学講堂において、会長就任の挨拶を次のように述べている。

 「若輩ではございますが、本日より戸田門下生を代表して、化儀の広宣流布をめざし、一歩前進への指揮をとらせていただきます。申すまでもなく、わが創価学会は、日蓮正宗の信者の団体であります。
 したがって、私どもは大御本尊様にお仕え申し上げ、御法主上人貌下に御奉公申し上げることが学会の根本精神であると信じます。
 初代会長・牧口常三郎先生、また二代会長・恩師である戸田城聖先生の、総本山に忠誠を尽くされたその心を心として、今、私は全学会員を代表して、日達上人猊下に、より以上の御忠誠を誓うものでございます。創価学会は全大衆の最大の味方であります。敵は邪宗教です。邪宗教は人々を地獄に落とす。正法は仏にする。そのあらゆる、いっさいの不幸の本源は邪宗邪義にありと、日蓮大聖人様の御金言がございますが、その御金言どおりに獅子吼なされたのが、恩師戸田城聖先生であります。
 その恩師戸田城聖先生の邪宗撲滅の大精神を精神として、今、ふたたび門下一同は、邪宗撲滅に猛然とおそいかかっていきたいと思うのでございます。

 私はあくまで、恩師戸田城聖先生の教え、思想をば実践していく会長でいきたいと信じております。
 会長先生の幾多の将来への指針、御遺訓がございますが、その一つに、昭和三三年二月の一〇日、その朝に『あと七年間で三〇〇万世帯の折伏をしような』とおおせられたことが、私の頭脳にこびりついております。三〇〇万世帯ということは、深い深い、また先生の御意図があると思いますが、今、先生のお教えのなかの、御遺訓のなかの一つである三〇〇万世帯の達成、すなわち恩師戸田城聖先生の七回忌のその年いっぱいまでに、断固として、楽しく、そして仲良く、たくましく、三〇〇万世帯の遂行を、成し遂げたいと思うしだいなのでございます。

 また、戸田城聖先生は、おなくなりになる寸前にまで『世界各国の名産を集めて、総本山に大客殿を建立しなさい』ということを、つねづね申されておりました。今、先生の御遺訓を、同じく先生の七回忌までに、世紀の大客殿を総本山に御寄進申し上げたいと思うものでございます。
 どうか、人のため、わが身のため、国のため、護法のため、全衆生のために、御木尊様を根本として、しみじみと大御本尊様のありがたさを感じつつ、邁進していきたいものと思い、以上をもって就任のあいさつといたします。」(青太文字・引用者)(笠原、既掲書による)

 ここに池田会長の決意の程がうかがえるであろう。そして「戸田前会長の御遺訓」なるものの実現が、池田新会長に背負わされた課題であるということがくり返し強調されている。
 ともかく、この挨拶のなかに、戸田前会長の名前がやたらとでてきているように、池田は戸田城聖を師とし、その手足となってきた男である。
 一九五八年四月、戸田城聖会長は五八歳で、波乱にとんだ一生を終るのであるが、後継者としては「青年部から出す」という遺志を示しただけであったということである。しかし、これには戸田の深い配慮があったといわれている。「池田大作を後継者にする」という遺言を残したとすると、会長になるかもしれないという期待をもっている他の幹部たちの失望をかうことにもなりかねない。それよりも後に残るものが十分に話し合って新会長を選んだほうが、それなりに結束が固くなるとみたためではないであろうか。そして、会長を「青年部から出す」ということだけいっておけば、池田をおいて他に会長になれるような人物はいないから、当然池田が会長になるということを見通していたのである--こういう推測もできる。
 いまや死人に口なしで、これはあくまでも第三者の憶測にすぎないけれども、あたらずといえども遠からずという感じがするということである。
     ----------(つづく)---------172

コメント
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