創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価学会を斬る-46

2021-02-13 08:54:59 | Weblog

   --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
 創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
     (本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)


   <この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
 創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
     --目次は第2回目に掲載--
    ------(P.163)---(以下、本文)-------

5 創価学会の天皇・池田大作と幹部たち
 ◆ オールマイティな人間像のデツチ上げと神格化
 ◆ 第三代会長に池田が就任 
 ◆ 池田「天皇」をとリかこむ「忠臣」たち 
 ◆ 竹入-矢野の二人三脚   (~以上、前掲 P.190~)
◆ 池田と幹部と会員の断層
  池田の側近といわれる人に秋谷城永がいる。彼は出版・広報の枢要な地位にあり、創価学会のスポークスマンのー人でもある,早大出身で病気が入信の動機、チヨットした文章も書くし論客でもある。
 現在の幹部の入信の動機をみても明瞭なように、病気が動機というのが圧倒的に多い。しかも入信の時期は、学生時代かその前後、比較的若いころが圧倒的である。ここに現在の学会幹部の入信コースの一つのパターンがあるといってもよいであろう。
 そういう意味において、青年将校が中堅になって権力をえてきた時期の陸軍将校に似ているようなところがある。

 次いでやはり池田の側近、池田の知恵袋といわれるのが中西治雄である。あまり目だたないけれども、「実力者」という定評がある。常に池田の陰にあり、なかなかの参謀ないし軍師といわれている。
 池田は、こうした若手の幹部を実にうまく使いこなしている。佐藤栄作が“人事の佐藤”といわれるように、池田の人事本能は、それなりに学会において抜群であるといってよいようで、ある意味では多くの大臣をつくった最盛期のスカルノに似たようなところがある。もっとも池田はスカルノと異なり品行は悪くはない。
 かってスカルノは、軍部、共産党、回教勢力の三頭立ての馬車に乗ってあざやかな手網さばきをみせたといわれるが、現在の池田のやり方にもこれと非常に似たところがある。

 和泉で学会を押さえ、竹入が党、北条に両者のパイプ役とともに組織面を担当させ、この三頭立て馬車に池田が馭者として乗り、巧みに馭しているという見方もできないことはないのである。しかもポストを数多くつくり、それを二重にも三重にも与え、それぞれのチェック・アンド・バランス・システムをつくっているというようなやり方も、最盛期のスカルノ体制に非常に似たところがあるといってよいだろう。
 池田大作は、ともかくそういう人間関係に対してはまこと細心の注意を払っている。それは、創価学会内部に造反のエネルギーが起こったり、派閥が発生することを極力押えるためであろう。たとえば学会では竹入よりも北条の方が上であるが、公明党にゆけぱ竹入が北条の上に立つ。学会では北条の命を竹人がうけ、党では竹入が化条に命令を下すといった具合いである。
 上下関係をクロスさせたり、ワザと過重な仕事を与えて責任を重くしたり、派閥行動のエネルギーの余裕をまったく与えないシステムをとっており、その使い分けはなかなかうまいといわなければならない。 

 このように人間関係をフルに操作し、これが創価学会には派閥がないと天下に公言しうる所以となっている。しかし、そういううまさが逆にいえば人間関係における大きなマイナスになっているといえなくもない。つまり、池田会長のワンマン的威光だけがピカピカ光り、池田の威光を加えなければ何もできない、こういうような体制ができているということである。だからどの幹部も池田会長をべタホメする。そして「会長のためには死をも辞さない」というのである。天安門の前に集まった紅衛兵が「毛主席のためには死を惜しまない」といった言葉を思い出させるものがある。さらにもっとさかのぽれば「天皇陛下のためならば、なんで命が惜しかろか」という軍歌をも、思い出さざるをえないということである。そういう、絶対的忠誠、絶対的服従が一つの心情倫理として常に要求されている人間集団であり、公明党はそれを政治に向けて押し進めていく尖兵ということになる。普通の市民的神経だと、こういう連中を向こうにまわしていろいろやり合うということは面倒であり、はなはだしくエネルギーを要することになる。かって、狂信的な超国家主義者たちに感じた無気味なカリスマと同じようなものが、彼等の中にも立ちこめているということである。

 ともかく彼等が自慢する文化祭をみていると、そういう心情倫理が、とことんまでマス・ゲームのなかに誇示されているのである。美しいバレーの衣裳をつけた娘たちが、ドシャブリの雨の中でも平気で泥の中で足を広げ、顔をくっつけ、泥まみれになって踊りまくる、まさに狂気の乱舞といったシーンが展開されるわけで、門外漢はそのすさまじさに思わず身ぶるいするといった異様な光景がつづくのである。たしかにそういうシーンだけみていると池田会長配卞の幹部や会員たちは、指揮棒一つのふりかたで青年将校にもなるだろうし、紅衛兵にもなるだろうし、特攻隊にもなるだろうという気がする。そういうところまで心情的に調教されているということは、それなりに一つの驚きであるといえるだろう。戦後が終らないどころか、戦前の日本が終っていないのではないか、外見の文化的べールの陰に、結構戦前の日本が心情的にもやもやと燃えつづけているのではないかという気さえする。こういうエネルギーを大衆的規模において再編成し、政治的に利用したならば、すさまじいエネルギーに転化されるであろうと思うわけである。だが、それが暴発したならばどうなるであろうか。そういう脅威を感じるのは私のみではなかろう。創価学会の幹部たちは、そういう威圧を与える力としてますますマス・ゲームを誇示し、一貫した指揮のもとに動く統制のすばらしさをデモンストレーションする。

 こういう創価学会の会長と幹部といわゆる一般の創価学会員との間には、明らかに大きな断層があるといって過言ではない。幹部たちは、すでに学会が教授、助教授等々のあたかも大学における教師のランキングと同じような格づけをしているのと同様に、明らかに一定の階層的序列によって、究極的には御本尊との距離感、現実的には学会会長の権威との距離によって人間の格づけをしているわけである。
 その意味においては、ある学者もいっているように、日蓮正宗の本山は徳川幕藩体制下における権力なき皇室にあたり、創価学会会長は徳川将軍にあたり、その下での旗本直参から末端にまでいたる組織において、公明党はまさに旗本直参の組織であるといえるかもしれない。そしてそれらすベてをひっくるめた幹部たちと被支配層とでもいえる会員大衆との間には、明らかに身分的断絶があるといえるかもしれない。その意味においては、池田会長に対して「忠臣」をよそおう幹部たちは、そうすることによって会員大衆の会長への忠誠のオトリ的役割を演出する立場にあるといってもよかろう。

 天皇と官僚とアウトロー(無法者)ということもいわれるが、学会員の中にもまさにアウトローがおり、そういう無法者の圧力を通じて、官僚がこれを吸収し、全体をふくらますエネルギーとして活用していくという点もみられる。そういう日本ファシズムの典型的な形態が、ベールこそ違え、学会の中にはたしかに再現されているということを、それなりにはっきりと認識しなければならないであろう。

 創価学会の幹部たちをみた場合、だいたいにおいて、ちょうど旧ナチの幹部がそうであったように、デクラッセ・インテリゲンチャないしは軍隊の下士官タイプが圧倒的に多いということがいえるわけである。それに没落した貴族、軍人が多いということからみても、ファシズムの大きな芽をもっているといえるかもしれない。一見、大衆を組織するかにみえながら、大衆の上位志向性とでもいえるものを常に利用して、幹部がそれを代行してゆくという形であり、ビラミッド型の階層的構造すなわち軍隊型組織を原理にしているという点においても、典型的である。スカルノ流のいいかたをすれば、ガイデッド・デモクラシーというような組織形態にもなる。

 いずれにしても創価学会は異様なる集団であり、この異様さにこれだけの人間が踊らされているということは、まさに二十世紀後半の日本における最大の“神話”ならぬ“仏話”を形成するものといえるかもしれない。
 “神話”は滅びたけれども“仏話”は残っているという見方も成り立つのである。
     ----------(つづく)---------195

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