創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価学会を斬る-44

2021-02-11 08:38:05 | Weblog

   --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
 創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
     (本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)


   <この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
 創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
     --目次は第2回目に掲載--
    ------(P.163)---(以下、本文)-------

5 創価学会の天皇・池田大作と幹部たち
 ◆ オールマイティな人間像のデツチ上げと神格化
 ◆ 第三代会長に池田が就任 
 ◆ 池田「天皇」をとリかこむ「忠臣」たち  (~以上、前掲 P.183~)
◆ 竹入-矢野の二人三脚-1
 池田会長は、竹入、矢野をほめて、これを“名コンビ”"だといっている。そして、そういう人材を抜擢し、さらに磨きをかけていくのが会長の使命だといういい方もしている。
 ところで、この池田によって磨きをかけられ、見守られてきた竹入義勝委員長、矢野絢也書記長の二人はどういう人物であろうか。

   竹人義勝を知る人は「実にケン力の上手な人だ」という。向こう気が強く、弱気を吐かない、そういう評価がでているのである。「ケン力がうまい」ということに妥協のコツも十分心得ているということでもあろう。
 公明党はよくドタン場で自民党と結託したり、社会党と結んだり、そのときどきで要領よく妥協する破廉恥な特色をもっているが、こういう側面も、彼一流の経験と性格がものをいっているという。
 ケンカをするようでケンカをせず、裏ですぐ手を握るやり方は、かっての自民党の古狸・大野伴睦などの常套手段であったが、竹入は若くして大野伴睦のようなところがあるという見方もできないことはないらしい。そういえば、はなはだナニワ節調であり、人情を重んじ、機を見るのにまことに敏であり、みるからにヌケ目がない。カミナリのような大声でわめき立てたかとおもうと、次の瞬間には大きな目玉をギヨロつかせて、人を食ったように二タリ、二タリとするあたりは、公明党の大野伴睦、という評は必ずしも当をえていないものではない。

 竹入の発言を聞いている限りでは、理論をふりまわすようなキレ味はほとんどない。行動のみである。それも変転自在の行動のみが優先している。まずは寝技型の政治家ということであろう。だから、彼はおそらくは自民党との連けい要人として現在委員長の職にあるといってもいい。また、竹入はよくいろんなところに顔をだす。およそ一党の党首が、と思われるようなところにまでスタコラと平気で出かけていく。人物の重みからいえば、よくて田舎の青年団の団長、わるくすると街頭をのし歩くサンドイッチマンみたいなものであるから、それも必ずしも不思議ではなかろう。党首風を吹かして妙におさまったところがないのはよいけれども、しかし、この軽量さには一つの問題があろう。学会ではそれはそれで庶民の味があり、大衆的感覚だといって評判がよいであろうけれども、ところかわれば品かわるというところであろうか。

 この竹入義勝は一九二六年一月一〇日の長野県生まれ。入信は一九五三年二七歳の時であり、肺結核が入信の動機であった。彼もまた病が人信の動機であるという点ではもっともありふれたケースである。
 入信六年後の一九五九年、はやくも東京文京区議選に出馬、みごと当選し、政界への第一歩をしるしている。時に三三歳。政治大学校に通ったのもこの頃である。一年間の単位を二年でとったというから、あまり勉強はしなかったのであろう。
 さらに一九六三年、六五年と北区から都議に、さらに翌々年の一九六七年には東京一〇区(足立、葛飾、江戸川の三区)から衆院選に立候補、当選している。これよりさき、都議時代には、第三党の幹事長として都議会のキャスティング・ボートをにぎり、ゲリラ的攪乱戦法によって、有名をはせている。乱闘騒ぎがあったのもこの頃であった。彼はこの都議会時代における幹事長生活を通じて、他の政党、とくに社会党への不信をいやというほど知らされた、というけれども、その後、社会党と組んで自民党を攻撃したり、秘かに自民党と手を通じ社会党をやっつけたりしている。こういうことをみると、不信をいだかせるのはいったい公明党の側なのか、他党の側なのか、その審判は公正な第三者にまかせるのがよいのではないか、という気がする。

 それはそれとして、竹入はこれまでしばしば選挙区が違っている。しかし、きまって最高点当選である。区議から都議、都議から国会議員というコースは、創価学会を背景にしない限りそうそうできる芸当ではない。まさに創価学会の組織の強さが生んだ代議士である。住民の集団移動も辞さない強引なやり方等々創価学会の選挙対策はまさに定評のあるところであるが、竹入のマキアベリステイックな性格は、そういう選挙当選第一主義体制とでもいえるものにとってはうってつけの人材であるということかもしれない。
 いずれにしても区議から異例の三段飛びの当選であり、衆議院の当選の得票数は一一万九〇五票という驚異的な数字であった。そして当選とともに四一歳の若さで池田会長の名指しで委員長に任命されたということである。ともかく、学会に入ってからトントン拍子の出世をしてきたということは無視してよいものではなかろう。苦労したのは病気のときだけだった、といってもよい。
     ----------(つづく)---------187

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