創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価学会を斬る-43

2021-02-10 09:04:29 | Weblog

   --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
 創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
     (本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)


   <この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
 創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
     --目次は第2回目に掲載--
    ------(P.163)---(以下、本文)-------

5 創価学会の天皇・池田大作と幹部たち
 ◆ オールマイティな人間像のデツチ上げと神格化
 ◆ 第三代会長に池田が就任 
 ◆ 池田「天皇」をとリかこむ「忠臣」たち-1   (~以上、前掲 P.179~)
◆ 池田「天皇」をとリかこむ「忠臣」たち-2
 学会における池田会長に次ぐナンパー2は北条浩である。旧華族の家柄に生まれ、学習院に進んだ。ここでは三島由起夫と同級だった。海軍兵学校を卒業して「銀河」のパイロットであった話はあまりにも有名で、終戦時は海軍中尉。学会へは一九五一年に元子爵夫人の叔母に折伏されて入信している。旧華族は没落し、戦前の価値体系はくずれ、軍部は崩壊してしまったあとの精神的空白期にあって、まずはバッサリと折伏されたということでもあろう。その意味において、折伏されながらも彼は戦前から戦後にかけて連続性をもっているということが無視できないところである。いうならば,華族クズレ身の典型的タイプといえよう。

  彼はまた党副委員長でもある。党結成とともに書記長に就任、党の土台をつくることに尽力した。当時、彼は議席がなかったが、一九六五年に東京地方区から参議院議員に当選、議席をえて今日にいたっている。
 公明党は、議員が増えるとともに、その党の中心的機能は参議院から衆議院に移行した。そして現在の竹入・矢野ラインは池田会長の信頼が厚く、まずまずの指導体制になっているが、これも池田会長の「人物を見つけ全魂をうちこんで麿きをかけていく。これが私の勇断です」という言葉に示されているように、池田の人材育成の結果、こういうことになったということである。
 この竹入・矢野ラインに対して、池田にかわって実質上の後見役をしているのが北条浩である。北条は池田の信頼も厚く、党・学会を通じての実力者なのである。彼は学会では、東京第一総合本部長でもある。ともかく肩書きはたいへん多い。
 北条系列に近いものに、多田省吾(党機関紙局長・参議院議員)、石田幸四郎(党国民生活局長・衆議院議員)などの若手リーダーがいる。

 多田省吾は、北条と同じく一九六五年に参議院(全国区)議員になった。党の国防部会部長であり、国防問題では党内屈指といわれている。
 東北大工学部在学中に入信、一九五四年卒業と同時に聖教新聞杜に入り、一〇年余り新聞の仕事をしている。その経験と腕をかわれて公明党の機関紙局長におさまったという経歴である。「聖教新聞」に在職中は、学会の教学面で多くの業績を残したといわれている。また、副教学部長当時、池田大作の『立正安国論講義』の刊行に協力している。理論部総合部長、青年部参与、東京第八総合部長などもしている。まずは順調に学会内の出世コースを歩んだといえよう。

 他方、石田幸四郎は、一九六五年の参院選に愛知地方区から出馬したが、落選。翌々年の一九六七年、今度は愛知六区から、衆院選に出馬、ようやく議席を獲得した。政界へのスタートはやや遅れたが、学会、党内を通じての有力者の一人である。公明党の体制が参議院から衆議院に移行した現在では、参院選での落選はかえってラッキーだったかもしれない。
 石田もまた多田と同じく大学在学中(明大商学部)の一九五三年に入信している。しかも卒業と同時に聖教新聞社に入社するなど、多田省吾とほとんど同じコースを歩んでいる。その意味では、いうならばこの二人は、他の社会を知らない学会の秘蔵っ子とでもいえるであろう。
 しかし、石田のほうは多田の熱血漢タイプに対し、実務家タイプの温和な感じが強い。そのためか政界入りしてからもあまり表面に出ず、党内調整役に甘んじている。いわば縁の下の力持ちである。それだけに政治家としてはやや線が細いとの評価がもっぱらである。とはいうものの公明党衆院代議士二五人の中で、学会総務の肩書きをもっているのは竹入委員長と石田だけであり、学会では相当な政治力をもっていることはたしかなようだ。なお、石田は公明党衆議院議員団長でもある。

 若手でしかも学会総務、党学生局長でもある矢追秀彦(参議院議員)も、前二者と似たようなコースをたどっている。彼もまた一九六五年の参院選に全国区から当選し、三一歳で国会入りしている。入信は阪大在学中である。
 次に、いささか順序は前後するが学会の大立者、和泉覚のプロフィルをちょっとのぞいておこう。

  和泉は、一九六二年に参院選に出馬(東京地方区)し、議席をえた。一九六八年には出馬せず、都知事に立候補して落選した安部憲ーに議席を譲っている。学会運営に専念するというのが不出馬の理由であった。
 彼は、一九一一年五月生まれで、学会では最古参の一人である。明治人特有の気骨もあり、なによりもあのデッカイ坊主頭はトレードマークにもなっている。一見、比叡山の悪僧タイプである。それに外向的性格は学会運営にもってこいて、幹部たちのうけもなかなかよいようである。しかし年齢からみて、そろそろ交替の時期であるというところらしい。とくにいまの創価学会には、幹部に若手がどしどし登用されており、静かな選手交替の波紋が起こっているおりから、遠からず第一線を退くことになろう。消え去る一歩手前のところにいるということであろう。

 池田会長は明治一〇〇年の昨年、いみじくも「今年こそは世代の交替のとき」ということをいっているが、それがいよいよ現実になってきたとみるべきであろう。池田はさらに、昨年の参院選のあとで「世代の交替は現実になりました。思っていたより早くなりましたね。いよいよ明治は遠くなった。いまや昭和の人、大正の人の時代が現実に来ましたね。企業でも組織でも、トップの人は明治の人が多いので、私の年齢とはなれすぎていて、話があまりあわないときがあります。未来の人とつきあいたい。それは昭和・大正の人です。
 すでに昭和生まれが七二パーセントを占める時代です。企業でも、よどみがでてきています。もっとみずみずしい組織にする時代に入らざるをえないでしょう。」(『週刊現代』一九六八年八月二二日号)……ともいっているが、これはそっくりそのまま創価学会内部事情にもあてはまるということであろう。あるいは学会を意識しての発言であったという見方もできる。
 いずれにせよ創価学会の内部においては、すでに池田の年齢にあわせて一種の世代の交替が行なわれていることはたしかだ。
     ----------(つづく)---------183

コメント
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