今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

植物学の日

2005-04-24 | 記念日
今日(4月24日)「植物学の日」
1862(文久2)年4月24日、植物分類学者の牧野富太郎が高知県佐川町の豪商(酒造家)の家に生まれた日。世界的な博物学者南方熊楠と同時代を生きた彼は、物心ついた頃から植物に惹かれ、野山で草花を見つけては植物の名を調べるような少年だったようで、単に花を眺めるだけにとどめず、微に入り細に入り観察し、図に写し、ノートに取った。植物分類学者として世に認められた後の晩年も植物に対する探求心は衰えることはなく、1957(昭和32)年1月18日、95歳でこの世を去るまでの生涯を植物研究に費やして、新種・変種約2500種を発見、命名した。没後、文化勲章を授与され、日本の「植物学の父」と呼ばれている。私は、この学者については、植物分類学者としての名前だけは知っていたが、どのような業績があるのかなどは、よく知らなかった。最も、現役を退き、その後、家人と一緒に、裏山へ登るようになり、それ以来少しは、野の花や山の花などに興味を持つようになったものの、それ以前は、草花など全然興味がなかったものね~。
それで、ちょっと調べてみたが、1887(明20)年、牧野富太郎が日本人として初めて学名をつけた記念すべき植物として「ヤマトグサ」(大和=日本草)と命名されたものがある。これが面白い形をした草花で、上から見ると普通の草のようだが、下に付いている花はまるで変装用の鼻眼鏡に白い髭をたらしたような面白い顔に見える。皆さんはご存知でしたか?興味のある方は、ここのHP「ヤマトグサ (ヤマトグサ科 ヤマトグサ属)」覗いて見てみてください。
高知県に県立牧野植物園があり、園内に牧野富太郎記念館(本館と展示館)があり、牧野博士の膨大な標本や牧野博士が私財を投じて収集した植物関連の書籍や貴重な資料が管理・展示されているそうだが、お金に糸目を付けず書籍を購入したため、妻のスエさんは費用の工面に苦労が絶えなかったそうだ。牧野は妻スエさんがなくなった年に発見した新種のササに「スエコザサ」と名付け、「家守りし妻の恵みや我が学び 世の中のあらむ限りやすえ子笹」の句を捧げているという。彼は、植物画の名手でもあり、その植物知識の集大成である『牧野日本植物図鑑』(昭和15年;1940)は時代を超えて読みつがれているという。植物図鑑は特徴を捉えた手書きの画が付いているそうなのでいいな~。私も、携帯用の花の本を持っているが、写真である。細かい点など図で解説している方がわかりやすいよね~。しかし、牧野富太郎は、小学校を中退し、家の資産を食いつぶして植物の採集と分類に没頭、財産を使い果たしたあとも、貧困に苦しみながら研究を続けた。そのため、独学・苦学の研究者として有名だそうだが、歴史に名を残すような、秀でた業績を残している人は、家庭のことなど顧みず、その仕事に没頭してしまうので、裏から支えている奥さん方の苦労は、大変だったろうと思うね~。
(画像は、私の携帯用・文庫版の花の本。)
参考:
牧野博士の紹介
http://www.makino.or.jp/dr_makino/makino.html
高知県立牧野植物園
http://www.makino.or.jp/
牧野標本館タイプ標本データベース(東京都立大学牧野標本館所蔵)
http://taxa.soken.ac.jp/MakinoDB/makino/html_j/index.html

ヤマトグサ科 和名一覧

サンジョルディの日,世界本の日、そして、「ドン・キホーテ」の作家ミゲル・デ・セルバンテスの忌日

2005-04-23 | 記念日
今日(4月23日)は、「サンジョルディの日、世界本の日」そして、「ドン・キホーテ」の作家ミゲル・デ・セルバンテスの忌日でもある。
日本書店組合連合会、日本カタロニア友好親善協会等が1986(昭和61)年に制定。スペイン・カタロニア地方には、この日、守護聖人サン・ジョルディを祭り、女性は男性に本を、男性は女性に赤いバラを贈る風習があるそうだ。このは、カタルーニャの守護聖人である騎士「サン・ジョルディの伝説」に由来すると言われているが、このことについては、以下参考の「サンジョルディの日」の中の「サン・ジョルディの伝説」が詳しいのでここをご覧ください。
又、この日は「ドン・キホーテ」の作者ミゲル・デ・セルバンテスの命日でもあるため、スペインでは「本の日」とされているという。セルバンテスは、スペイン黄金世紀の作家で、代表作の「ドン・キホーテ」は、世界文学の傑作のひとつに数えられている。貧しい外科医の家に生まれ、1971年レパントの海戦に参加、その後無敵艦隊の食糧徴発係や滞納税金の徴収吏の職に就くが、徴税活動の不備により数回投獄され、その投獄中に構想を得た物語が「ドン・キホーテ」だといわれている。
前篇と後編があり、前編は、1605年に発表された。騎士道物語を読み過ぎて妄想に陥った郷士の主人公が、自らを伝説の騎士と思い込み、「ドン・キホーテ・デ・ラマンチャ」(「ドン」は郷士より上位の貴族の名に付く称号で、「デ・ラマンチャ」は彼の出身地のラマンチャ村を指す)と名乗り、痩せこけた馬のロシナンテにまたがり、従者サンチョ・パンサを引きつれ遍歴の旅に出かけ、風車を巨人と思い込んで突進する有名なエピソードも出てくる物語である。この前編の大成功にもかかわらず、その版権を売り渡していたため、彼の貧しい生活はいっこうに良くならなかったといわれている。
そして、10年後の1615年に後編が出版された。後編の中では、前年に出版された贋作の『ドン・キホーテ』に対抗して、この小説の後半で行き先をサラゴーサからバルセロナに変更している。そして、後編では前編とは異なり、ドン・キホーテの狂気の取り扱い方が変化しており、もはや、彼は自らの狂気に欺かれる事はなく、旅篭は城ではなく旅篭に見え、田舎娘は粗野で醜い田舎娘でしかない。ここにいるのは、現実との相克に悩み思案する、懐疑的なドンキ・ホーテであり、主人公の自意識や人間的な成長が描かれている。
兎に角、真に人間を書くことを主題にした近代小説は『ドンキホーテ』から始まったと言われている。小説は長編であり、なかなか読むのには時間を要するが、この本は映画、そして舞台でも何度も上演され、又、漫画などにもなっているので、物語の粗筋を知らない人はいないだろう。
この小説をもとにしたミュージカルは、日本でも数多く公演されているが、中でも、歌舞伎役者・九代松本幸四郎の、父親譲りの「赤毛モノ」のミュージカル『ラ・マンチャの男』 が有名である。このミュージカルは、1969(昭和44)年の初演(六代目市川染五郎時代)から、通算上演回数も1015回を数えるといい、ミュージカルでの同一主演者による日本記録更新中である。
この作品には、現代人の生き方を根源から問い直す激しいメッセージが秘められている。劇中でキホーテが歌う『見果てぬ夢』は、人間に必要なのは夢で、それを求めて生き抜くことが真の人生であるというような歌詞である。
この曲は、メロディーの美しさもさることながら、歌詞も良い。
そして、劇中で、キホーテは「狂気とはなんだ。最も憎むべき狂気とは、人生に折り合いをつけてあるべき姿の為に戦わぬことだ」と語り、「事実は真実の敵である」と叫ぶ。
生涯詩人を夢見ていたセルバンテスは、「ドン・キホーテ」の中で以下のようなことも言っている。
「喜劇で一番難しい役は愚か者の役であり、それを演ずる役者は愚か者ではない。」
(画像は、マイコレクションより、松本幸四郎主演ミュージカル「ラ・マンチャの男」青山劇場、平成7年チラシ)
参考:
Martian's BGM
ここでは『見果てぬ夢』が聞けます。他にも名曲がずらり・・・。
http://www.h5.dion.ne.jp/~koba1956/bgm.htm
ラ・マンチャの男 (Man of La Mancha) ['97. 9.13]
ここでは、「見果てぬ夢」の 歌詞がわかります。
http://www.asahi-net.or.jp/~KX5N-KGYM/past2.htm
サンジョルディの日
http://home.att.ne.jp/banana/cck/que-sanjordi.html
日本書店商業組合連合会「本屋さんへ行こう!」
http://www.shoten.co.jp/

忠犬ハチ公像」が完成

2005-04-21 | 歴史
1934(昭和9)年の今日(4月月21日)は、渋谷駅前の「忠犬ハチ公像」が完成した日。
秋田で誕生した子犬が、東京・渋谷に住む大学の先生、上野英三郎に貰われ、ハチと名づけられて、一緒に寝起きするほど可愛がられた。そんな上野博士が帰らぬ人となった後も、毎朝決まった時間に渋谷駅で主人を待つハチ公がいた。・・・いつしかそんなハチ公の噂が広まり、1932(昭和7)年10月4日の朝日新聞紙上に忠犬として報道された。新聞には「いとしや老犬物語 今は亡き主人の帰りを待ちかねる7年間東横電車の渋谷駅、朝夕真っ黒な乗降客の間に混じって人待ち顔の老犬がある。」という大きな記事が載ったそうだ。この記事で、ハチ公が一躍有名になったという。
そして、1934(昭和9)年の今日渋谷駅前に銅像が立てられ、上野博士の未亡人をはじめ各界の名士が参加し、除幕式が盛大に行われたが、この序幕式にはハチ公も参加し、自分の銅像を眺めていたそうである。一体、ハチ公は、どのような気持ちで、自分の銅像を眺めていたんだろうね~。
ハチ公は、その翌(昭和10)年3月8日死亡。当時11才というから、人間なら7~80才位になるんだろうね~。死後は、上野科学博物館に剥製が保存され、遺骨は青山墓地の上野博士の脇に埋められているそうである。太平洋戦争の中、昭和19年には、金属の不足から金属回収令が公布され、ハチ公の銅像も回収され姿を消したが、戦後の昭和23年には、再び渋谷駅前に2代目ハチ公像が再建されている。
この忠犬ハチ公の生涯を描いた映画「ハチ公物語」が1987(昭和62)年だったか、神山征二郎監督によって作られ、映画を見て涙した人もいるかと思うが、ハチ公が渋谷駅前にまで毎日出かけていたのは、主人の帰りを待つというのが目的だけじゃなく、その後、帰りに、駅前の飲み屋で焼き鳥などを貰えるという理由があったようだ。主人の死後も渋谷に出かけたのは、もちろん焼き鳥目当てであったと思う。ハチ公の死後一人歩きをはじめた忠犬物語は、しだいに戦争へと突き進む中で軍部によって、「主人に忠義を誓う」という美談にしたてて利用されていくことにもなる。ハチ公の死んだ翌(昭和11)年には、「恩ヲ忘レルナ」と題して尋常小学校の修身の教材になっているからね~。
ハチ公に主人の恩に報いるなどという気持ちがあったとは思わないが、犬には、本来、自分を可愛がってくれた主人への従順な気持ちは共通してあるようだね。太古の昔から、人間と一番長い期間共生してきた動物だから・・。だから、今は、ペットブームと言われているが、ペットの中でも犬は人間と一番親しい動物であると言える。
ハチ公は、秋田犬(あきたいぬ)で、国の天然記念物に指定されている6つの日本犬種のうちの大型犬種である。しかし、もともと、秋田犬の祖先犬は、「秋田マタギ」と呼ばれるマタギ犬(山岳狩猟犬)で、元来日本犬には大型犬は存在せず、秋田マタギも中型の熊猟犬であったようだ。それが、、昔、秋田地方で闘犬が盛んになり、体が大きく強い犬を望む人々の手によって、マタギ犬と土着犬又、後には、外国種犬などとのの交配が行われ大型犬となったようだが、大正時代に入って以降の再作出努力の結果日本犬種として天然記念物に指定されることになったと言う。犬は犬種によって、性格も異なり、色々と向きがあり、秋田犬などは、番犬に向いているんだろうね。最近は、家の中で飼う人が多く小形の外国の犬種が多く飼われているようだね~。私も家人も犬は大好きなので、飼いたいとの話はよくするのだが、毎日の散歩など世話をする自信がないので、残念ながら、結局、飼うのを諦めている。
ところで、余談だが、『忠犬ハチ公』という唱歌があったの知っている・・・おもちゃのマ-チ」などを作曲している小田島樹人氏作曲だと言うよ。下参考の『忠犬ハチ公』の歌があったってほんとう……?を見てみて・・。
(画像は、20世紀デザイン切手シリーズ第7集の「忠犬ハチ公」)
参考:
秋田犬 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E7%94%B0%E7%8A%AC

忠犬ハチ公と秋田犬
http://odate-machikyo.com/odate/akitainu.html

『忠犬ハチ公』の歌があったってほんとう……?

「忠犬ハチ公」を知っていますか?
http://www.jsidre.or.jp/hachi/hachi-ex.html

辰巳柳太郎

2005-04-20 | 人物
今日(4月20日)は「辰巳柳太郎 」の誕生日。
1905(明治38)年4月20日、兵庫県赤穂郡に生まれる。少年時代から旅芸人一座とともに転々とした後、1926(大正15)年、宝塚国民座に入座。大阪・浪花座公演中の新国劇を見て感動。1027(昭和2)年4月、坪内士行の紹介で、澤田正二郎主宰の新国劇に入団する。芸名は巳年生まれの自分と、辰年の沢田を合わせたものだそうだ。しかし、2年後の1929(昭和4)年に澤田正二郎が38歳の若さで急逝。支配人・俵藤丈夫は、すでに幹部だった島田正吾(24歳)と大部屋にいた無名の辰巳柳太郎を大抜擢、 2枚看板で再スタートすることを決めた。時に島田24歳、辰巳23歳だったという。暫く内部での紛争が起こり、巳柳も、幹部と同僚の板ばさみになり苦悩していたが、昭和6年頃から盟友島田正吾とともに交代で主役を演じるようになる。辰巳の面ざしは沢田によく似ていて、沢田の国定忠治、月形半平太役にぴったりだったようだ。そして、辰巳の豪快な演技、見事立ち回り、又一方の島田の内面的な演技、この持ち味のまったく違う2人によって、「沢正の新国劇」とまで言われた新国劇が再興される。
しかし、戦時中の1940(昭和15)年頃から満州、中国各地を慰問巡業するようになるが、敗戦後の1947(昭和22)年6月、新国劇創立30周年に、有楽座で「王将」を公演、辰巳は坂田三吉を演じ大好評を受ける。宿敵関根名人には島田正悟が扮した。この公演は大ヒットし、翌(昭和23)年・大映・伊藤大輔監督によって同名で映画化され、これまた空前の大ヒットとなった。映画では、主演の坂田三吉は阪東妻三郎、関根名人には滝沢修が扮した。この名画は今までに何度再放映されたことだろう。
辰巳と島田は共に、2人揃って、1969(昭和44)年に紫綬褒章を受章、1976(昭和51)年には勲四等旭日小綬章を受賞している。しかし、両者が余りにも突出していため、後継者が育たなかったと言われている。又、非常に斬新だった舞台も、後半は次第に型にはまったマンネリ化したものとなり、新鮮味もなくなってきた。
1987(昭和62)年9月7日、新国劇は創立70周年記念公演終了後、70年の歴史の幕を閉じた。その2年後、1989( 平成元)年7月29日、辰巳は心不全のため享年84歳で死去す。盟友島田正吾も、2004(平成16)年11月26日亡くなった。
「動の辰巳、静の島田」と好対照な2人の演技であった。独特の渋さをうりものとする島田正吾も良いが、独特の味のある演技をする辰巳柳太郎も好きである。
私は若い頃見た映画に、「わが町」(日活)がある。内容は、よく覚えていないが、ただ、大阪の下町を舞台にした人情物映画だったと思うが、主人公の頑固一徹な男他吉ことタァやん(辰巳柳太郎)がラストで、大阪のプラネタリウムで南十字星を見ながら眠るように死んでいったシーンがやけに記憶に残っている。このシーンでは、柄にもなく目が潤んだものだ。今調べなおしてみると、1956(昭和31)年の織田作之助の原作で、川島雄三監督作品であった。本当にいい映画だったが、今、こんなにいい映画なのにビデオ化はされていないらしい。他に、辰巳柳太郎が主役として出ている映画では、1955(昭和30)年の「王将一代」(新東宝)ぐらいしか記憶にないが、この映画は、再放送など含めて数回見ている。映画では、坂東妻三郎の王将・坂田三吉の方がよく知られており、確かに坂妻の演技も良いが、この辰巳柳太郎の坂田三吉も味があって甲乙つけがたい。余り、彼の作品を数見ているわけでもないのに、なぜか、すごく、近い人に感じる役者であった。
(画像は新歌舞伎座・新国劇公演チラシ、左:辰巳柳太郎、右島田正吾。)
参考:
上方芸能人顕彰
http://www.art-space.gr.jp/kamigata/h11b.html

辰巳柳太郎・出演映画
http://www.jmdb.ne.jp/person/p0263520.htm

地図の日,最初の一歩の日

2005-04-19 | 記念日
今日(4月19日)は、「地図の日,最初の一歩の日」
1800(寛政12)年閏4月19日、伊能忠敬(いのうただたか)が蝦夷地(北海道)へ最初に測量に出発した日。
伊能忠敬(本名、神保三治郎)は1745(延享2)年、上総国に生まれ、佐原の伊能家の養子となり、忠敬と名を改め、造酒業、米穀の取引など家業に精を出すとともに名主として村政にも力をつくした。彼が伊能家に来た時、家業は衰え危機的な状態だったが、倹約を徹底すると共に、本業以外にも、薪問屋を江戸に設けたり、米穀取り引きの仲買をして、約10年程で完全に経営を立て直したという。又、1783年、彼が38歳の時、天明の大飢饉では、私財をなげうって地域の窮民を救済し、こうした功績が幕府の知るところとなり、彼は苗字・帯刀を許されたのだという。彼は、近代日本地図の始祖として有名だが、経営手腕もたいしたものだったのですね~。
その後、1795年(寛政7年)50歳で、家督を長男に譲り、幼い頃から興味を持っていた天文学を本格的に勉強する為に江戸深川に移り住み、19歳も年下の幕府天文方・暦学者の高橋至時(たかはし よしとき)の門下に入り、そこで天文学の知識を学んだ。
1800(寛政12)年閏4月19日、忠敬56歳を数える頃、彼は3人の若い弟子と2人の従者を引き連れ、蝦夷地へ測量に出発するのであるが、この時期、幕府は、北方からの脅威に神経を尖らせていた。何故なら、17世紀以来、アジア進出を開始していたロシアが、このころ、その船を千島や日本海に出現させ、かつ、蝦夷地に来て通商を求めるような事件すら起こっていたのである。そして、幕府は、ロシアの進出を食い止めようと、北辺の防備を強化する一方、年は若いが、優れた天文方であった高橋至時の提案を入れて、地図作成の測量を、至時の老弟子伊能忠敬に命じたのである。ところが、その時、伊能忠敬を送り出した、至時の主目的は、別のところにあった。彼は、子午線上の一度の距離、つまり、緯度一度の距離を実測することで地球の大きさを計算し、それによって、正確な暦を作ろうとしたのである。忠敬もよくこのことを承知していたため、忠敬一行は、江戸から、海路で蝦夷地へ向かうようにとの幕府の提案を、忠敬は測量や地図製作の費用を自費でまかなうという条件で、説得し、多額の自費を注ぎ込み、往復ともに陸路、つまり、南北に長い奥州街道を北へ直行して蝦夷地に渡ったのである。
至時が期待したのは、主に、天文学上の必要からの測量行であったが、幕府へ上程した蝦夷地南岸の地図はその巧妙さで幕府役人たちを感心させ、一応の成功を収めた。
忠敬はこの蝦夷地に行って実測を始めたときに、全国図の完成を考え始めたのであろう。その後、72歳まで、18年間を費やして、日本全国の測量を敢行。実測による日本初の全国図「大日本沿海輿地全図」の作成に取り組むも1818年に死去。地図の完成は彼の没後3年を経て、1821(文政4)年、門弟らの手によってなる。この地図は、明治から大正に掛けて、教育用、産業用、軍事用に使われ大いに真価を発揮した。
経営面でもやり手の忠敬は、50歳になると、さっさと隠居し、長男に家督を譲り、自分のしたいことの為に没頭した。今時、よく、サラリーマンなどに、定年後、何をしてよいか判らないなどと言って、余り、自分の望みでもないような職業について、老後を過ごしている人も多いのではないだろうか。折角、長い間、自分のしたいことも出来ないまま、家族の為に一生懸命働いてきたのだから、定年後の余生くらいは、自分のしたいことをして過ごせば良いのにと思うが・・・。その意味でも、伊能忠敬という人は、サラリーマンなどのモデルにしても良い人だね~。
忠敬の測量の基本は、歩測と磁石と三角法。自分で一歩一歩地面を踏みしめながら、その一歩一歩が地図作りの貴重なデータを生み出していく。伊能忠敬の一歩は69cmだったという。江戸以前の人々の履き物は「下駄」にしても「草履」にしても踵がない。ある人が実験した結果、これらの履物で、フラット着地で歩くと、歩幅は狭くなり、踵をつかず一定のスピ-ドを保って歩ける最大歩幅を探しながら歩いた歩幅は69cm弱になった。自分の記録75cm(通常歩行)、72cm(なんば歩行・踵着地)ではなく、伊能忠敬の歩幅と云われる69cmにほとんどぴったりと重なってしまったという。(以下参考の「nanba なんば歩行 」を参照。)
私も、色々な仕事をしてきたが、ある仕事で、デパーなどの売り場や駐車場の敷地面積を、自分の歩幅で調べたことがある。よく床にピータイルといわれるものが貼られている場合、それは30cm四角のものが多く、その枚数を数えれば判るのだが、それが貼られていないときなど、その倍の60cmを基本に歩く練習をした上で、現地で歩数を数えるのである。同じところを2度歩いて、同じ歩数で歩いていれば、ほぼ正確である。2度歩くのは検算のようなもの。人間て、訓練するとほぼ同じ歩幅で歩くことが出来る。歩数で距離は計算出来るのだ。しかし、そのため、伊能忠敬ですら一日に10kmほどしか測量できなかったと言われている。
そして、曲がり角では方位を計測し、坂道では傾斜角を計測する。こうして集めた数値データを集計することで、きわめて正確な地図を作り出していく。測量方法そのものに新しさや独創性はないそうだが、忠敬のすごさは測量地点を多く取って測量の正確を期したこと。測量自体は小さな地味な仕事だが、それが積もり積もるとこんな大きなことが出来上がる。正に、根気と努力の賜物といえるだろう。
日本で最初の近代測量地図を作った伊能忠敬の伝記映画「伊能忠敬子午線の夢-」は、劇団俳優座創立55周年記念作品として製作され、映画では、このねばり強さを、忠敬の身体に流れる“農民の血”から生まれたものとして描き、主演・加藤剛が好演している。
(画像は映画「伊能忠敬」-子午線の夢-東映。ポスター)
参考:
神戸市立博物館:伊能忠敬の日本地図展
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/museum/tokuten/2004/01_ino.html
伊能忠敬記念館
http://www.sawara.com/tadataka/
伊能忠敬の略年譜
http://www2s.biglobe.ne.jp/~auto/nenpu.html
nanba なんば歩行
http://www.isone-sekkei.com/hosaka/hosaka2/nanba/nanba.htm