今日(4月5日)は「ヘアカットの日」
1872(明治5)年4月5日、東京府が女子の断髪禁止令を出した。
明治維新以降、生活の様々な面で、西洋化を進めようとして1871(明治4)年、散髪・脱刀勝手たるべしとの「散髪脱刀令」が出され、男性はそれまでの「丁髷(ちょんまげ)」から「ざんぎり頭」とするのを奨励された。それと同時に、文明開化に乗り遅れまいと競って、断髪をする女性が続出したため、東京府は「男性に限って許可した断髪を女性が真似てはならない」とする禁止令を発布した。
当時の新聞は「近頃府下にて往々女子の断髪する者あり、もとより我が古俗にもあらず、また西洋文化の諸国にも未だかって見ざることにてその醜体陋風見るに忍びず。女子は従順温和を以て主とする者なれば、髪を長くし飾りを用ゆるこそ万国の通俗なるを、いかなる主意にやあたら黒髪を切捨て、開化の姿とか色気を離るるとか思いて、すまし顔なるは実に片腹いたき業なり。この説既に府下諸新聞に掲載して言を待たざることなれど、また別に洋学女生と見え、大帯の上に男子の用いる袴を着用し、下駄をはき、腕まくりなどして、要所を提げ往来するあり、いかに女学生とてみだりに男子の服を着して活気がましき風俗をなすこと、既に学問の他道に馳せて女学の本位を失いたる一端なり。これ等はいずれも文明開化の弊にして、当人は論なく父兄たる者教えざるの罪と謂ふべきなり。・・・・と報じている。([出典:毎日コミュニケーションズ出版部編 明治ニュース事典 第1巻、p.273.])
実際に男性の頭からチョン髷が消えたのは断髪脱刀令から10年後の明治20年頃と言われ、チョン髷を切ることには相当の勇気が必要だったのだろう。それに引き換え、女性の反応が早かったのは、今も昔も、女性が流行に敏感だった証だろうか。
兎に角、女性の断髪を、快く思わない人々が多く「女性は日本髪を結わなければならない」という社会的な圧力を強めることになった。 しかし、日本髪は洗髪回数が少なく不潔で、結うのに時間がかかり、床屋代も馬鹿にならない。これを見かねた男性、渡部鼎(わたなべかなえ=野口英世の手を治した医師として有名)と石川暎作(日本で最初に『国富論』を翻訳した人物)の二人が、明治18年に日本の女性に衛生、経済、便益の三つを提供するという目的で婦人束髪会を結成し、婦人結髪改良の提唱を始めた。そして、新しい髪形(束髪)の例として、上げ髪、下げ髪、英吉利結び、まがれいとの四種類の束髪を手本に掲げ、図解した錦絵も発行された。彼らの主旨は、1885(明治18)年8月31日の「今日新聞」にも、日本風束ね結びなど各種束髪を普及させる「日本婦人束髪会」の運動を伝え、新しい髪形(束髪)の例として、図を添えて新しい髪形を紹介されるなど、 新聞、雑誌に支持され、たちまちのうちに「束髪」は全国に広まった。髪形は、旧来の不便で窮屈しかも手間が掛かる日本髪に悩んでいた女性の共感を呼び、爆発的に広がっていく。それは旧習に決別し、新しい時代に生き始めた女性の証しでもあったろう。しかし、このため髪飾りやべっこう、珊瑚などの材料が大暴落、髪結いが失業するなどし、鼎らは業者の脅迫にあったことも度々であったという。明治のこの頃文明開化による生活様式の変化として、流行ったものに、束髪のほかにも牛鍋、カレーライスなどがあるがどれも和洋折衷だったことが共通している。洋風化を勧める中にも、日本の伝統を守ろうとする意識が感じられる。
明治16年に鹿鳴館が完成し、洋装が広まったのを機に、ようやく女性の新しい髪型として束髪というスタイルが流行し始めた。この束髪は瞬く間に広まったが、明治27~8年の日清戦争の頃になると国粋主義が台頭し、再び日本髪が奨励され主流として復活した。しかし、明治40年代になると、江戸時代から結われていた「丸髷」は古風な印象を与えるようになっていたようであり、森鴎外に至っては「醜い女はなぜ似合わない丸髷を結いたがるのだろう」(『雁』明治44年)とまで書いている。そして、女性の髪型が自由になったのは大正時代になってからのことである。明治から大正にかけて束髪の語は洋髪と同義に使用された。
明治年間の流行唄に「おっぺけぺ節」というのがあるのを、ご存知ですか。色々とありますが、その中に明治23~4年頃のものと思われる以下のような歌がある。
権利幸福きらいな人に 自由湯(党)をば飲ませたい
オッペケペー オツペケペッポー ペッポッポー
堅(かた)い上下角(かみしも)とれて マンテルズボンに人力車
いきな束髪(そくはつ)ボンネット
貴女(きじょ)に紳士の扮装(いでたち)で
外部(うわべ)の飾りはよいけれど 政治の思想が欠乏だ
天地の真理がわからない こころに自由のたねをまけ
オッペケペー オッペケペッポーポー・・・・
又、やつこりや節(明治27年)に、
丸髷崩して束髪結うて、看護婦するのもヤツコリヤ国のため・・・。というのがあるそうだが、日清戦争が始まったころの皮肉たっぷりの歌だね~。
おっぺけぺ節」にしても、「やつこりや節」にしても、権力への反骨精神が伺えるね~。それに反し、どうも、最近は、反骨精神が見られなくなったのが寂しい。
(画像は改良束髪の図。髪のミュージアムより)
参考:
髪のミュージアム
http://www.hoyu.com/iroiro/funfan/museum/bunka/top.html
日々激動「新時代の『束髪』が大流行」
http://www.tokyo-np.co.jp/120th/henshu/gekidou/gekidou_040505.html
「束髪」(そくはつ)
http://www.cosmo.ne.jp/~barber/sokuhatu.html
書庫明治5(スポーツ文化資料館)
日本女子の髪型の歴史
http://www.cosmo.ne.jp/~barber/kamigat2.html
自由民権運動
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/jiyuuminnkennunndou.htm
1872(明治5)年4月5日、東京府が女子の断髪禁止令を出した。
明治維新以降、生活の様々な面で、西洋化を進めようとして1871(明治4)年、散髪・脱刀勝手たるべしとの「散髪脱刀令」が出され、男性はそれまでの「丁髷(ちょんまげ)」から「ざんぎり頭」とするのを奨励された。それと同時に、文明開化に乗り遅れまいと競って、断髪をする女性が続出したため、東京府は「男性に限って許可した断髪を女性が真似てはならない」とする禁止令を発布した。
当時の新聞は「近頃府下にて往々女子の断髪する者あり、もとより我が古俗にもあらず、また西洋文化の諸国にも未だかって見ざることにてその醜体陋風見るに忍びず。女子は従順温和を以て主とする者なれば、髪を長くし飾りを用ゆるこそ万国の通俗なるを、いかなる主意にやあたら黒髪を切捨て、開化の姿とか色気を離るるとか思いて、すまし顔なるは実に片腹いたき業なり。この説既に府下諸新聞に掲載して言を待たざることなれど、また別に洋学女生と見え、大帯の上に男子の用いる袴を着用し、下駄をはき、腕まくりなどして、要所を提げ往来するあり、いかに女学生とてみだりに男子の服を着して活気がましき風俗をなすこと、既に学問の他道に馳せて女学の本位を失いたる一端なり。これ等はいずれも文明開化の弊にして、当人は論なく父兄たる者教えざるの罪と謂ふべきなり。・・・・と報じている。([出典:毎日コミュニケーションズ出版部編 明治ニュース事典 第1巻、p.273.])
実際に男性の頭からチョン髷が消えたのは断髪脱刀令から10年後の明治20年頃と言われ、チョン髷を切ることには相当の勇気が必要だったのだろう。それに引き換え、女性の反応が早かったのは、今も昔も、女性が流行に敏感だった証だろうか。
兎に角、女性の断髪を、快く思わない人々が多く「女性は日本髪を結わなければならない」という社会的な圧力を強めることになった。 しかし、日本髪は洗髪回数が少なく不潔で、結うのに時間がかかり、床屋代も馬鹿にならない。これを見かねた男性、渡部鼎(わたなべかなえ=野口英世の手を治した医師として有名)と石川暎作(日本で最初に『国富論』を翻訳した人物)の二人が、明治18年に日本の女性に衛生、経済、便益の三つを提供するという目的で婦人束髪会を結成し、婦人結髪改良の提唱を始めた。そして、新しい髪形(束髪)の例として、上げ髪、下げ髪、英吉利結び、まがれいとの四種類の束髪を手本に掲げ、図解した錦絵も発行された。彼らの主旨は、1885(明治18)年8月31日の「今日新聞」にも、日本風束ね結びなど各種束髪を普及させる「日本婦人束髪会」の運動を伝え、新しい髪形(束髪)の例として、図を添えて新しい髪形を紹介されるなど、 新聞、雑誌に支持され、たちまちのうちに「束髪」は全国に広まった。髪形は、旧来の不便で窮屈しかも手間が掛かる日本髪に悩んでいた女性の共感を呼び、爆発的に広がっていく。それは旧習に決別し、新しい時代に生き始めた女性の証しでもあったろう。しかし、このため髪飾りやべっこう、珊瑚などの材料が大暴落、髪結いが失業するなどし、鼎らは業者の脅迫にあったことも度々であったという。明治のこの頃文明開化による生活様式の変化として、流行ったものに、束髪のほかにも牛鍋、カレーライスなどがあるがどれも和洋折衷だったことが共通している。洋風化を勧める中にも、日本の伝統を守ろうとする意識が感じられる。
明治16年に鹿鳴館が完成し、洋装が広まったのを機に、ようやく女性の新しい髪型として束髪というスタイルが流行し始めた。この束髪は瞬く間に広まったが、明治27~8年の日清戦争の頃になると国粋主義が台頭し、再び日本髪が奨励され主流として復活した。しかし、明治40年代になると、江戸時代から結われていた「丸髷」は古風な印象を与えるようになっていたようであり、森鴎外に至っては「醜い女はなぜ似合わない丸髷を結いたがるのだろう」(『雁』明治44年)とまで書いている。そして、女性の髪型が自由になったのは大正時代になってからのことである。明治から大正にかけて束髪の語は洋髪と同義に使用された。
明治年間の流行唄に「おっぺけぺ節」というのがあるのを、ご存知ですか。色々とありますが、その中に明治23~4年頃のものと思われる以下のような歌がある。
権利幸福きらいな人に 自由湯(党)をば飲ませたい
オッペケペー オツペケペッポー ペッポッポー
堅(かた)い上下角(かみしも)とれて マンテルズボンに人力車
いきな束髪(そくはつ)ボンネット
貴女(きじょ)に紳士の扮装(いでたち)で
外部(うわべ)の飾りはよいけれど 政治の思想が欠乏だ
天地の真理がわからない こころに自由のたねをまけ
オッペケペー オッペケペッポーポー・・・・
又、やつこりや節(明治27年)に、
丸髷崩して束髪結うて、看護婦するのもヤツコリヤ国のため・・・。というのがあるそうだが、日清戦争が始まったころの皮肉たっぷりの歌だね~。
おっぺけぺ節」にしても、「やつこりや節」にしても、権力への反骨精神が伺えるね~。それに反し、どうも、最近は、反骨精神が見られなくなったのが寂しい。
(画像は改良束髪の図。髪のミュージアムより)
参考:
髪のミュージアム
http://www.hoyu.com/iroiro/funfan/museum/bunka/top.html
日々激動「新時代の『束髪』が大流行」
http://www.tokyo-np.co.jp/120th/henshu/gekidou/gekidou_040505.html
「束髪」(そくはつ)
http://www.cosmo.ne.jp/~barber/sokuhatu.html
書庫明治5(スポーツ文化資料館)
日本女子の髪型の歴史
http://www.cosmo.ne.jp/~barber/kamigat2.html
自由民権運動
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/jiyuuminnkennunndou.htm