1616年の今日(4月17日)は徳川家康(江戸幕府将軍(初代))の忌日 。<75歳> [1542年12月26日生] 死後、家康は日光東照宮をはじめ全国に東照大権現として祀られている。
戦国時代に三河の弱小大名の子として生まれ、織田信長の盟友として版図を広げる。本能寺の変で信長が討たれると、豊臣秀吉との小牧・長久手の戦いを経て秀吉に従う。秀吉の死後、関が原の戦いで勝利をおさめた家康は、1603(慶長8)年2月、待望の征夷大将軍に宣下(せんげ)された。頼朝依頼のこの官職は全国の武士を動員する権限を有するとともに、足利三代将軍義光以後は朝廷の権限おも大幅に吸収し、「公方(くぼう)さま」として、全国支配の機能をもつと考えられた。家康はこの権限に依拠して、1605年将軍を秀忠に譲った後も大御所として、外交・内政両面にわたって基礎的諸制度の整備を進めていった。しかし、このことは、他方では、諸大名と家康の関係が官職上の指揮関係に基づいてはいるが、武士の間の強固な主従関係によっているのではないことを意味するものであった。このような弱点は、1602年に家康が従一位となると正二位に、家康が将軍となると内大臣にというように朝廷の官職の上でも家康と雁行し、依然として公家や外様大名の尊崇を受けて難攻不落の大阪城に住む秀頼の存在は、家康にとって全国統治の上で非常に厄介な存在ではあった。
豊臣秀吉が生存中は「秀吉様々」の家康が、その子・豊臣秀頼(とよとみ ひでより)には、「国家安康」の言いがかりをつけての「鐘銘事件」で、滅ぼしたと言うので、太閤贔屓の関西人は、徳川家康を「狸親父」と呼び余りよく思っていない人が多い。
しかし、家康は、秀吉の遺言を履行して、秀忠の娘千姫を秀頼夫人として大阪城に入れているが、大阪城では秀吉恩顧の諸大名の存在を背景に、母淀殿とともに家康の指揮を受け入れようとしない秀頼を何とか家康に屈服させたかったのである。
大仏殿建立は当初から家康と秀頼の共同の国家事業として計画されていたものであり、家康は「国家安康」の名文よりも、当事権者である自分に相談なしに大阪方が銘文をえらばせたことを越権として激怒したのが実情であるという。そして、秀頼に、大阪から他地域への国替え、淀殿を江戸へ人質に送る、秀頼自身が江戸に下向するの3つに1つを選ぶよう迫ったが、これを拒否したため冬の陣は起きた。
江戸時代の狂言に、
「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 すわりしままに食うは徳川」
というのがあり、信長、秀吉、家康、3人の天下統一の仕方をそれぞれ餅つきにたとえた。明智光秀のこね取りで信長がつき、秀吉がのしをした天下餅を、家康は座ったままで手に入れる。つまり、3人の天下取りの中で、家康が一番楽をし、一番得をしたことになっている。
家康は、「鳴くまで待とうほととぎす」のあの句にも出ているように、非常に気の長い人だと思われているようだけれども、本当は反対の非常に気性の激しい人だったといわれている。小さいときからの修養によって我慢することを学んだのだろう。
家康は三河の一向一揆以来信仰というものを理解し、法然の念仏宗に入り、本当の信仰者となる。桶狭間の合戦で今川義元が殺された時に、大高城から岡崎の大樹寺に引き上げてきた時、家康が、大樹寺の上人から貰ったという「厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)」の経文、つまり、戦国乱世の世を住みよい浄土にするのがお前の役目だとさとされ、家康は、この「厭離穢土、欣求浄土」の八文字を終生の座右の銘としていたといわれている。
家康という人は色々誤解されているが、本当は素朴なまごころの人だったのではないだろうか。子どものときに、人質として苦労してきた家康は戦争の怖さを知っていて、自分の死後、戦争のない平和な時代にしたいという気持ちから、我慢強い家康もついに冬の陣で豊臣氏を滅ぼしてしまったものと考えられる。以後、260年間もの戦争のない平和な時代が続くことになる。徳川家康の最大の功績は、なんといっても、戦争のない平和な時代をつくりあげたことではないだろうか。
「人の一生は、重荷を負ひて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思へば不足なし、心に望み起こらば困窮したる時を思い起こすべし。堪忍は無事長久の基、怒りを敵と思え、勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば害その身に至る。おのれを責むるな。及ばざるは過ぎたるにまされり。」
家康の遺訓して知られるこの言葉は、後世の人が家康の特性を儒教の立場から潤色したなどとも言われているが、この、短い言葉の中には、若き日の家康の苦闘と歴史、そして、家康の人間像が読み取れる。私の座右の銘としている言葉でもある。
(画像は、愛知県岡崎市岡崎公園徳川家康像)
参考:
Wikipedia - 徳川家康
http://ja.wikipedia.org/wiki/徳川家康
戦国時代に三河の弱小大名の子として生まれ、織田信長の盟友として版図を広げる。本能寺の変で信長が討たれると、豊臣秀吉との小牧・長久手の戦いを経て秀吉に従う。秀吉の死後、関が原の戦いで勝利をおさめた家康は、1603(慶長8)年2月、待望の征夷大将軍に宣下(せんげ)された。頼朝依頼のこの官職は全国の武士を動員する権限を有するとともに、足利三代将軍義光以後は朝廷の権限おも大幅に吸収し、「公方(くぼう)さま」として、全国支配の機能をもつと考えられた。家康はこの権限に依拠して、1605年将軍を秀忠に譲った後も大御所として、外交・内政両面にわたって基礎的諸制度の整備を進めていった。しかし、このことは、他方では、諸大名と家康の関係が官職上の指揮関係に基づいてはいるが、武士の間の強固な主従関係によっているのではないことを意味するものであった。このような弱点は、1602年に家康が従一位となると正二位に、家康が将軍となると内大臣にというように朝廷の官職の上でも家康と雁行し、依然として公家や外様大名の尊崇を受けて難攻不落の大阪城に住む秀頼の存在は、家康にとって全国統治の上で非常に厄介な存在ではあった。
豊臣秀吉が生存中は「秀吉様々」の家康が、その子・豊臣秀頼(とよとみ ひでより)には、「国家安康」の言いがかりをつけての「鐘銘事件」で、滅ぼしたと言うので、太閤贔屓の関西人は、徳川家康を「狸親父」と呼び余りよく思っていない人が多い。
しかし、家康は、秀吉の遺言を履行して、秀忠の娘千姫を秀頼夫人として大阪城に入れているが、大阪城では秀吉恩顧の諸大名の存在を背景に、母淀殿とともに家康の指揮を受け入れようとしない秀頼を何とか家康に屈服させたかったのである。
大仏殿建立は当初から家康と秀頼の共同の国家事業として計画されていたものであり、家康は「国家安康」の名文よりも、当事権者である自分に相談なしに大阪方が銘文をえらばせたことを越権として激怒したのが実情であるという。そして、秀頼に、大阪から他地域への国替え、淀殿を江戸へ人質に送る、秀頼自身が江戸に下向するの3つに1つを選ぶよう迫ったが、これを拒否したため冬の陣は起きた。
江戸時代の狂言に、
「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 すわりしままに食うは徳川」
というのがあり、信長、秀吉、家康、3人の天下統一の仕方をそれぞれ餅つきにたとえた。明智光秀のこね取りで信長がつき、秀吉がのしをした天下餅を、家康は座ったままで手に入れる。つまり、3人の天下取りの中で、家康が一番楽をし、一番得をしたことになっている。
家康は、「鳴くまで待とうほととぎす」のあの句にも出ているように、非常に気の長い人だと思われているようだけれども、本当は反対の非常に気性の激しい人だったといわれている。小さいときからの修養によって我慢することを学んだのだろう。
家康は三河の一向一揆以来信仰というものを理解し、法然の念仏宗に入り、本当の信仰者となる。桶狭間の合戦で今川義元が殺された時に、大高城から岡崎の大樹寺に引き上げてきた時、家康が、大樹寺の上人から貰ったという「厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)」の経文、つまり、戦国乱世の世を住みよい浄土にするのがお前の役目だとさとされ、家康は、この「厭離穢土、欣求浄土」の八文字を終生の座右の銘としていたといわれている。
家康という人は色々誤解されているが、本当は素朴なまごころの人だったのではないだろうか。子どものときに、人質として苦労してきた家康は戦争の怖さを知っていて、自分の死後、戦争のない平和な時代にしたいという気持ちから、我慢強い家康もついに冬の陣で豊臣氏を滅ぼしてしまったものと考えられる。以後、260年間もの戦争のない平和な時代が続くことになる。徳川家康の最大の功績は、なんといっても、戦争のない平和な時代をつくりあげたことではないだろうか。
「人の一生は、重荷を負ひて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思へば不足なし、心に望み起こらば困窮したる時を思い起こすべし。堪忍は無事長久の基、怒りを敵と思え、勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば害その身に至る。おのれを責むるな。及ばざるは過ぎたるにまされり。」
家康の遺訓して知られるこの言葉は、後世の人が家康の特性を儒教の立場から潤色したなどとも言われているが、この、短い言葉の中には、若き日の家康の苦闘と歴史、そして、家康の人間像が読み取れる。私の座右の銘としている言葉でもある。
(画像は、愛知県岡崎市岡崎公園徳川家康像)
参考:
Wikipedia - 徳川家康
http://ja.wikipedia.org/wiki/徳川家康