今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

ゴルフ記念日

2007-05-28 | 記念日
今日(5月28日)は「ゴルフ記念日」
スポーツ用品メーカー・ミズノの直営店・エスポートミズノが1994(平成6)年に制定したそうだ。今日の記念日は、1927(昭和2)年の今日(5月28日)、第1回全日本オープン・ゴルフ選手権大会が横浜の保土ヶ谷カントリー倶楽部で開催されたことによる。このとき参加者は、アマ12人、プロ5人。2位の鶴見プロに10打差で優勝したアマの赤星六郎は、米国留学中にゴルフに親しんだ。
日本のゴルフは、神戸や横浜の居留地外国人の間で始まった。現在の神戸・六甲山の歴史は、明治時代以降に欧米人によって開発されたハイリゾートに始まる。神戸の貿易商A・H・グルームは、六甲山の開祖と言われている。1894(明治28)年、彼は当時人跡まれであった六甲山頂にはじめて別荘を建て、この別荘では多くの外国人が週末を過した。数年後、山頂には2・30件の別荘が建ちならぶ、外国人別荘村が出現した。彼らは山頂にゴルフ場を開発し、春から秋にかけてはゴルフに興じた。これが、日本で最初のゴルフ場といわれる神戸ゴルフ倶楽部である。1903(明治36)年5月24日にオープンしたことから、5月24日は「ゴルフ場記念日」となっており、「ゴルフ場記念日」のことは以前にも書いた。
→5月24日は「ゴルフ場記念日
日本人妻を娶ったグルームは神戸・横浜でお茶の輸出商をしていた。神戸ゴルフクラブは、当初9ホールであったが、オープンの翌25日には、日本初となる第1回クラブ選手権が行われている。そして、翌1904(明治37年)年には、18ホールに拡大され、現在の神戸市東灘区にも「横屋ゴルフ・アソシエーション」が6ホールで開設された(1913年閉鎖)。 その翌・1905(明治38)年9月、「婦人フォアサム競技」と「ロングドライビング競技」が、さらに10月には「キャディ競技」と呼ばれる、いずれも日本初の競技会が続々と開催される。
ここからは、日本人選手として初めて全英オープンに出場した宮本留吉や日本初のプロゴルファー福井覚治らも輩出している。明治の開港当時から、神戸とライバル関係にあった横浜の根岸競馬場コース内に9ホールの「ニッポン・レース・クラブ・ゴルフィング・アソシエーション」(NRCGA)が開設されたのは「神戸ゴルフ倶楽部」が出来てから、3年後の1906(明治39)年11月23日のことである。横浜にもゴルフクラブができたことから、早速、六甲に横浜を迎えて第1回対抗戦インターポート・マッチが1907(明治40)年8月に行われ、神戸が勝利している。 その後、何度も神戸と横浜の対抗戦が行われている。
神戸、横浜に次いで、1913(大正2)年頃、長崎県に「雲仙ゴルフリンクス」(日本最初のパブリックコース )が出来、1914(大正3)年には東京・駒沢に、「東京ゴルフ倶楽部」(TGC)が、1922年には「程ヶ谷カントリー倶楽部」(HCC)が開業し、翌年開業時の9ホールから18ホールに拡張されている。このようにして、ゴルフ場の開設と共に次第に日本人ゴルファーも増えていった。 そして、1924(大正13)年に日本ゴルフ協会(JGA)が設立された。そして、1926(大正15=昭和元)年には国内のアマチュアゴルフの普及のためにナショナルハンディキャップ制度が制定され、翌1927(昭和2)年に始まった日本オープン選手権は、このナショナルハンディが適用され、アマチュアはハンディキャップ8またはそれ以内と決められたそうだ。(以下参考に記載の「JGA 日本ゴルフ協会」の日本のトーナメントのルールを探る参照)
この試合では、冒頭にも書いたように2位の鶴見プロに10打差で優勝したアマの赤星六郎が優勝しているが、以下参考に記載の「有鄰 No.456 P4 よこはまゴルフことはじめ」を見ると、「赤星四郎は弟の六郎と参加したらしいが、四郎はペンシルバニア大学卒のスタンダード石油社員。 六郎はプリンストン大学留学中の1924(大正13)年3月、ノースカロライナ州パインハースト・カントリー・クラブでのスプリングトーナメントで、319人のアマチュアゴルファーを制して優勝という、 当時では想像もつかないような実績をひっさげて帰国したそうだ。 そして、
四郎は、1924(大正13)年11月に上海での第1回チャイナ・アマ選手権に遠征して第6位に入った。 程ヶ谷カントリー倶楽部でおこなわれた1926(大正15=昭和元)年の日本アマチュア選手権では弟の六郎と競って優勝していたそうだ。何でも、 「身長6尺」(約1.8メートル)の体躯において欧米人にひけをとらない赤星四郎・六郎兄弟は、日本ゴルフ協会の招きで来日した世界のトップ・プロを相手にしたマッチ・プレーで互角、あるいは互角以上に渡り合い、ゴルフ人気の拡大に多大に寄与した人物だという。
日本のプロゴルファーの誕生は1925(大正14)年、赤星六郎がアメリカから帰ってきた後だ、というのが通説だ。プロの生まれたのは、安田幸吉が1924(大正13)年頃、宮本留吉は1925年頃と伝えられているが、プロとは名ばかり、人を教えられるだけの素地がなく、赤星六郎から「ゴルフとはこうするものだ」と教えられ、はじめてレッスンの仕方を覚えたというのが実情だそうである。(日本のトーナメントのルールを探るより)
1926(大正15=昭和元)年に結成された「東京婦人ゴルフ倶楽部」のメンバーのモダンファッションを見ると、帽子にスカート。当時モボ・モガが町を闊歩していた時代、ゴルフがまだごく一部の人しか楽しめなかったころの女性プレーヤーは、そのファッションもまた、最先端を行くものだったようだ。
その後ゴルフは益々盛んになるが昭和に入ると日本は15年戦争へと進んでゆくが1940(昭和15)年2月8日の衆議院予算総会ではこの「事変中の、ゴルフ場を耕作地に活用すべきでないか」など難局時のゴルフ談義が活発に交わされたという。翌年からは第二次世界大戦に入りゴルフどころではなくなるが、終戦を迎え、昭和30年代に入ると経済成長の波に乗ってゴルフ場開発が進み、バブル景気時代に建設ラッシュが起き、猫も杓子もゴルフゴルフと言う時代になった。1988(昭和63)年に施行されたリゾート法(総合保養地域整備法)もそれに後押しする形となった。1990年代には日本のゴルフ場の総数は2000以上まで膨れあがった。また、ゴルフ会員権の相場はゴルフ場経営者に対する預託金よりも上がり、フィールドに入る権利としてよりも投資対象となり会員権売買が盛んとなった。まさに異常であった。そして、バブルがはじけ、会員権は値崩れしたが、バブルが弾けて萎んだのは、もともとそんなに価値のないものを投棄の対象としたものばかりである。バブルが弾けて、元に戻っただけ。今もゴルフは人気があり、このところ、女子のプロゴルファーの活躍が目覚しい。そのゴルフウェアであるが、ここ2~3年の若手女子プロはへそだしルックが標準のようだね~。女子プロのファンには女性よりも圧倒的に男性、特に中年男性以上の人が多いのではないかな?。だから、職業としてのゴルファーだからへそだしルックも顧客サービスとしてはいいのだろう。だけど時々裾からシャツを出しているのもある。裾からシャツを出すだらしない格好も今時の流行かも知れないが、何の面白みもないしだらしないだけで、おじいちゃんとしては、いただけない気がするんだがな~。
今は、ゴルフを、男も女も、そして、年寄りから若いものまでするが、もともと、六甲山に「神戸ゴルフクラブ」をつくって、ゴルフを始めた・居留地の外国人グルームたちは、神戸の経済の中心となり、忙しい合間を見ては、現在神戸市役所前にある東遊園地に集まり、近代スポーツであるラグビー、サッカー、ホッケー、テニス、野球、クリケット、陸上競技、またレガッタなどの激しいスポーツで汗をかいていた。当時の日本人には何故そんなに走り回ったりすることで汗を汗をかくのが楽しいのか最初は理解できなかったようだが、好奇心旺盛な学生が先ずルールを覚え試合を行うようになり日本のスポーツが普及していった。しかし、グルームたちも30年もすると歳をとり、激しいスポーツは出来なくなった、それで、六甲山の上に、同年代の者達と体力がなくても楽しめるボーリングの倶楽部やゴルフの倶楽部をつくって始めた。本来、スポーツは、このように普段の忙しい仕事などから離れて、休養、楽しみ、遊びといった、レジャーや余暇活動であり、ボーリングのようなゲームなども含めた全てを包括するものであり、それ自体を楽しむための生活文化であっった。そのために、スポーツは、当初はクラブから発足したもの。神戸・六甲でグルーム等がはじめたゴルフも、体力がなくなった気の合う老人達が余暇に楽しむ倶楽部を作って始まったもの。
私も、昭和30年代も始め、まだ、パブリックのゴルフ場が少ない時代に商社に勤めていたものだから、ゴルフの練習は入社当時からさせられた。させられたのは、商社は人と人の付き合いが多いので社交上、ゴルフも出来なければならないからだ。会社のビルの屋上にはゴルフの練習場があって、上司の部長や先輩が手取り足取り毎日教えてくれた。当時は有馬のゴルフ場で会員権が30万円くらい。これは当時の新入社員の30か月分ぐらいに相当する。安月給の新入社員などにはおいそれとゴルフ場へ行けるものではない。だから、費用もかかりすぎるのでの練習はしてもなかな自分で余暇に楽しめるといったもではない。それに、ゴルフ場で、空気の良いグリーンを歩くのは、お散歩程度の運動にはなるだろうし、気持ちも良く、レジャーとして楽しむのには良いが、若くてエネルギーをもてあましていた当時の私などには、ただ軽いクラブを振って歩くだけのゴルフはものたりなかった。どう見ても若い成長期の若者のするものではなさそうに思った。これから身体をつくっていく必要のある成長期の子供達には、もう少し汗を流してやる激しいスポーツをする方が良いように思うのだがね~。
今の日本のプロゴルフ界は若手の女子プロの成長著しく、人気も女子プロの方が男子より高いようだ。小さな子供にうちから、プロになるのを目指して教育パパに育てられているのだろう。先日は、マンシングウエアーオープンKSBで、高校生のハニカミ王子こと石川遼(りょう)君15歳が史上最年少優勝を果たした。なかなかの好青年で私も好きなタイプだし、これで、やっと、日本の男子プロゴルフ界も人気が出るかと期待はしている。ただ、私的な見方からすれば、もともと、体力の衰えたお年寄りのレジャーとしてやるもののような世界に、成長期のエネルギーが溢れて元気いっぱい、体格的にはもう成人並みに成長した子供たちが割り込んできたって感じ。若者には若者としてのスポーツがあると思うが、年寄りがお遊びとして楽しむような競技に若い者がそれを職業として入り込んできたら、その世界では、年をとった大人たちは、もう、勝負にはならないだろう。2位になったプロゴルファーが、おこぼれの優勝賞金を貰ってにやついているなんてさまはさまにならないね~。元来プロのスポーツなどと言うものはありえない。今プロスポーツと言われているものは、普通のアマよりは少し訓練された人の運動ショーと言うべきものである。今の世の中は、本来余暇に自分がそれをして楽しむものを、金儲けの職業として見世物にするために、小さな子供のうちから頑張っているといったいった感じの人が増えてきて、そういう意味では、もう、ラグビーのような本来の純粋なスポーツと呼べるようなものはなくなりつつあるといえるかも知れない。4年に一度行われるオリンピックももはや、それを職業とする者達が技を競っているだけだからね~。優勝すれば、名前も売れるし、その後のお金儲けに繋がるからね~。
(日本初の全日本オープンゴルフが1927(昭和2)年5月に保土ヶ谷カントリー倶楽部で行われたが、この画像は、同じ頃、同年7月、駒沢カントリー倶楽部で行われたゴルフ風景。朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
ゴルフ場記念日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/8ccc7cc9466b121d78f0ffaa67b499bc
有鄰 No.456 P4 よこはまゴルフことはじめ
http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_456/yurin4.html
神戸ゴルフ倶楽部 - 「3世紀を生きるクラブライフ」 第2回 -
http://www.nikkeibp.co.jp/style/golfers/special/kobe/051202.html
社団法人 日本プロゴルフ協会
http://www.pga.or.jp/
JGA 日本ゴルフ協会【日本オープンゴルフ選手権競技】
http://www.jga.or.jp/jga/html/2006/08-0/history/history_03.html
ColfJounalBackNumber/特集「六甲山からの出発」
http://www.jga.or.jp/jga/html/about_jga/vol65/10p.html
雲仙ゴルフ場 /日本最初のパブリックコース
http://www.g-reserve.net/sys/rsv/?gc03759&sid=255f8f82b57aacc0e8c4f85d9ba12226