今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

マレーネ・ディートリッヒの忌日

2007-05-06 | 人物
今日(5月6日)は、マレーネ・ディートリッヒの1992年の忌日
マレーネ・ディートリッヒ(Marie Magdalene "Marlene" Dietrich, 本名:マリア・マグダレーナ・ディートリッヒ)は、ドイツ・ベルリン出身の女優・歌手である。通称はマルレーン。100万ドルの脚線美と大ヒット曲『リリー・マルレーン』で有名。
Vor der Kaserne                  
Vor dem großen Tor                          
Stand eine Laterne               
Und steht sie noch davor          
So woll'n wir uns da wieder seh'n    
Bei der Laterne wollen wir steh'n     
Wie einst Lili Marleen,  
Wie einst Lili Marleen.
歌詞は、兵舎で最前線から自分が帰ってくるのを待ってるであろう「リリー・マルレーン」と昔の様にまた会おう・・、という恋人を思う一兵卒を歌ったものである。以下で、リリー・マルレーンの歌詞(ドイツ語/英語)*歌詞の訳があり、また、歌を聞くことが出来る。
Lili Marlene
http://www.geocities.jp/asukal_trader/Asukal/lilimarlene.htm
いかなる国の軍歌にも戦意を高揚させる軍歌が存在し、いったん戦争となるとそれが国民にまで歌われるようになる。それらの大部分は当然、勇ましい行進曲風なのであるが、中には例外もあり、その代表的なものが、第二次世界大戦中に多くのドイツ兵によって、歌われたスローバラードの歌「リリー・マルレーン」(Lili Marleen)である。愛する恋人への思いを込めたなんとなく寂し気で、美しい旋律は、ヨーロッパその他各地で戦う兵士たちの間に静かに広がってゆき、しかも、驚くべき事は、次第に、敵対している国の多くの兵士達がくちずさみ始めた。この歌を聴いていると、厳しい戦場で兵士たちが情感溢れる、優しさを心に求めた気持ちがわかるような気がする。そのような気持ちを癒してくれる良い歌というものは、戦場においても、敵味方を越えて、熱狂的に支持されるものであるという事実を証明しており、また、そのことは、憎しみあいの場となる戦場で敵・見方に別れて殺し合いをしている兵士というものが決して、ただの殺人マシンではなく血の通った人間であることを如実に示しているものだともいえるであろう。そのような意味でこの歌は、画期的な歌であり、戦後の昭和50年代に至っては日本国内でも大流行をした。
マレーネ・ディートリッヒ」といえば「リリー・マルレーン」の名前が出てくる来るほどに、私達の年代のものにとっては懐かしい歌である。この曲は原題 "Lili Marleen" が彼女の通称"Marlene" と同音なので、"Lili Marlene" として歌ったものだそうである。しかし、この歌を最初に歌いだしたのは彼女ではなかったのだ。
この歌は、1915(大正4)年に、ドイツの詩人ハンス・ライプ(Hans Leip)の詩集"Das Lied eines jungen Soldaten auf der Wacht"に収録されていた詩をもとに、1938年、作曲家ノルベルト・シュルツェ(Norbert Schultze)が曲をつけたものを、歌手ラーレ・アンデルセン(Lale Andersen)によって録音されたがその時には売れず、曲も忘れ去られていたものだそうで、余ったレコードの内2枚が前線慰問用のレコード中に忍び込まされていたものが、1941(昭和16)年になって、21時57分、ベオグラード放送から北アフリカ戦線のドイツ兵向けにこの曲が流されたという。この曲は、たちまち戦線の、ドイツ兵の心を捉え、 多くの兵が故郷を思い涙を流したといわれているが、 ドイツ兵のみならずイギリス兵の間にも流行したため、ナチスはこの歌を禁止した。マレーネ・ディートリッヒは、18歳で国立ベルリン音楽学校に入学してバイオリニストを目指すが、手首を痛めて音楽家を断念。その後、映画・舞台で活躍していたが、ベルリンの舞台に立っていた1930(昭和5)年パラマウントに招かれてアメリカ合衆国に渡り、ゲイリー・クーパーと共演した『モロッコ』でハリウッド・デビュー。スタンバーグ監督とのコンビで黄金時代を築く。ヒトラーはディートリッヒがお気に入りだったようで、ドイツに戻るように要請したが、彼女は、それを断って1939(昭和14 )年にはアメリカの市民権を取得したため、ドイツでは彼女の映画は上映禁止となる。1940年代からは西部劇やブロードウェイの舞台にも立って活躍したが、1943〔昭和18)年からはUSO(米軍サービス機関)の一員として活動、アメリカ軍兵士の慰問にヨーロッパ各地を巡り、反ナチスにも参加、彼女は、このときから「リリー・マルレーン」の歌を歌った。デカタンスに満ちたディトリヒの歌声と切ない歌詞が相俟って連合軍、枢軸軍の両方から愛唱される歌となった。戦後、彼女は、その功績によって、アメリカからは自由勲章(アメリカ市民として最高の栄誉)、フランスからはレジオンドヌール勲章を授与されたという。1950年代からは歌手としての活動が多くなり、アメリカ合衆国やヨーロッパを巡業。レビューでのレパートリーにこの歌を加えて歌った。1970(昭和45)年と1974(昭和49)年には日本でもコンサートを行った。1979(昭和54)年、コンサート中に足を骨折して活動を中止せざるをえなくなり、引退後はパリに隠棲。1992(平成 4)年の今日(5月2日)パリで死去。葬儀はパリのマドレーヌ寺院で行われ、その後、遺骸がベルリンに移されベルリンでも葬儀が行われ、その遺骸は彼女の望み通りベルリンの母の墓の横に葬られたという。死後、ベルリン中心のポツダム広場に隣接した広場が「マレーネ・ディートリッヒ広場」と命名されたそうだ。
ドイツの中流貴族の家庭に生まれれ、映画、舞台で活躍し、1924年、映画の助監督のルドルフ・ズィーバーと結婚。同年娘マリアを出産しており、ドイツに別れて住むことになるズィーバーとは離婚しなかったとう。そして、ドイツに居たときに特に不遇な目にあった様子もない彼女が、アメリカへ渡ってから、なぜドイツ国籍を捨て、アメリカの市民権までとって、戦場へアメリカ兵の慰問に出て行ったのかは単に、ナチス嫌い・・だけでは片付けられない謎の面があるように思われる。彼女も、アメリカの対ドイツプロパガンダに組み込まれた哀れな戦争被害者ではなかっただろうか?
戦後、男性の気持ちを歌った詩であるが、女性歌手によって歌われることが多い日本では、加藤登紀子もこの歌を歌っている。以下では、マレーネ・ディートリッヒの歌のほか、男性歌手・ヴィリー・フリッチ(Willy Fritsch )、それに、ラーレ・アンデルセン(Lale Andersen)のオリジナル曲や編曲のものなど多数の「リリー・マルレーン」の曲が聴ける。それぞれ味があっていいものだ。是非一度聞き比べてみるとよい。↓
リリー・マルレーンのホームページ The Official Lili Marleen Page   
http://ingeb.org/garb/lmarleen.html
(画像は、「リリー・マルレーン」を歌ったマレーネ・デートリッヒ。朝日クロニクル「週刊20世紀」戦争より)
参考:
マレーネ・ディートリッヒ-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%92
リリー・マルレーンのホームページ The Official Lili Marleen Page   
http://ingeb.org/garb/lmarleen.html
リリー・マルレーン(LILI MARLEEN) 加藤登紀子
http://www.fukuchan.ac/music/j-sengo2/lilimarleen.html
リリー・マルレーン - goo 映画(1981)
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD11317/
Lili Marlene歌詞 歌 メロディー
http://www.geocities.jp/asukal_trader/Asukal/lilimarlene.htm
プロパガンダ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%91%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80
「リリー・マルレーンを聴いたことがありますか」
http://homepage2.nifty.com/snafkins-lifework/lilimarleen.htm
リリー・マルレーンの伝説
http://www.infosakyu.ne.jp/~sekkan/lili.htm