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「蛮社の獄」で、渡辺崋山や高野長英らが逮捕された日

2007-05-14 | 歴史
5月14日 「蛮社の獄」で、渡辺崋山や高野長英らが逮捕された日。
1839(天保10)年5月14日(旧暦。グレゴリオ暦では6月24日) 「蛮社の獄」で、渡辺崋山や高野長英らが逮捕された日。
蛮社の獄とは、天保10年に起きた幕府による蘭学者弾圧事件のことである。
対象とされたのは、渡辺崋山とその同士たちである。従来は、崋山を中心に「尚歯会(しょうしかい)」と呼ばれる結社が存在したかのように説明されていたが、最近は結社の存在は否定されている(『佐藤昌介著洋学史研究序説』)。蛮社というのも、「蛮学社中」、つまり「オランダ学(洋学)を学ぶ人々」という普通名詞の略称に過ぎない。
崋山は、三河田原藩の藩士で通称登。極貧にうちに育ったため、家系を助ける積りで画を志し、画家として独自な地位を築いた。家老、海防掛になったことを機として、本格的な蘭学研究を開始、経世(世を治めること)的な性格の強い崋山の学風を慕ってその周囲には、多くの知識人、高野長英小関三英ら洋学者を中心に多くの町医者・藩士・幕臣等が集まるようになり、蘭学や内外の情勢を研究していたのであるが、これが、幕府の文教をつかさどる林家一門の恨みなどを買い、モリソン号事件と江戸湾防衛問題をきっかけに「蛮社の獄」の弾圧を受ける遠因となった。
幕末の対外政策は、鎖国を維持し、外国船の接近を妨げるにたる海防(沿岸防衛体制)を整え、しかも、外国との戦争は避けることが基本になっていた。幕府が直轄する防衛線は蝦夷・長崎・浦賀(江戸湾)であるが、1837(天保8)年、鹿児島湾、浦賀沖に現れたアメリカ商船「モリソン号(Morrison)」に対し浦賀奉行及び薩摩藩は異国船打払令に基づき砲撃を行った。しかしこのモリソン号には漂流しマカオで保護されていた日本人漁民音吉ら7人が、乗っており、モリソン号はこの日本人漂流民の送還、通商・布教のために来航していた事が1年後に分かり、異国船打払令に対して批判が強まった。またモリソン号は非武装であり、イギリス軍艦と勘違いされてのものであった。この当時長崎に来航するオランダ船以外は相手の意図も聞かずに問答無用でひたすら追い払うよう幕府が支持していた指令に基づいて行われたものであるが、その強行方針のきっかけとなったのは、前の年に常陸や薩摩でおきたイギリス捕鯨船の乗組員による略奪などの事件であったが、伏線としては、1700年代の末から漂民送還を口実に執拗に通称を求めるロシアやそれよりも一層強圧的な態度で対日交渉を開始したイギリスの行動があり、これらの行動に幕府は神経をとがらせていたからのようである。
モリソン号事件の翌年、モリソン号が漂流民を送還ししにきたことを知った幕府は、「漂流民送還うを口実とする通称要求に対して如何に対処すべきか」を政策論争の中で、長崎奉行のオランダを通じて漂民を受け入れるという提案を受け入れるという結論を出すが、もう1本の柱となる海防に一定の枠をはめていた。ところが、幕閣の討議の過程で最も強硬な態度をとっていた評定所の「漂民ともどもモリソン号を打ち払ってしまえ」という意見だけが、偶然、渡辺崋山を中心とする洋学者グループに漏れてしまった。そのことから、幕府が海外危機の深刻化を認識しないまま、実力をともなわない恫喝的な打ち払い礼によって局面を打開しようとしているものと考え、危機意識ををもち、崋山は『慎機論』を長英が「戊戌(ぼじゅつ)夢物語」を書いて、幕府の撃退方針を思いとどまらせようとした。このことが、幕府内の保守派に処士横議(民間人の幕府批判)として不快感をいだかせ、洋学者弾圧の伏線となったようである。
特に、大塩の乱で神経を尖らせていた幕府目付鳥居耀蔵が敵視し尚歯会に目をつけていた。
「慎機論」などによる幕政批判の罪で伝馬町入牢ののち在所蟄居を命じられていた崋山は2年後、「不忠不幸渡辺登」と大書して割腹自殺した。
蘭学医・高野長英は、長崎でシーボルトに蘭学を学びシーボルト事件後江戸に戻り開業医をしていた。後に崋山を知り蘭書を翻訳して彼の西洋事情研究を助けた。長く崋山、長英とこの時代を代表する人物として並び称されてきたようであるが、近年の研究では、蘭学における役割は、崋山の補助的な地位にとどまるとされているようである。「蛮社の獄」で逮捕されてから、放火脱獄して江戸に潜伏、兵書の翻訳などをしていた。後、伊予・宇和島藩に招かれ密かに同地におもむいたりしたが、江戸に戻り、薬品で焼いて顔を変えて医者をしていることが発覚し、捕史に囲まれて自殺するという凄惨な最後を遂げたという。
また、弾圧にあたった居蔵は大学頭を務めた幕府儒者の林衡(はやし・たいら。号・述斎(じゅっさい)の実子で、後に、二千石の旗本・鳥居一学の養子となり家督を継ぎ、天保8年目付けとなり、同12年には町奉行に抜擢され水野忠邦天保の改革の下、水野の三羽烏の1人として働いた。印旛沼干拓事業(新田開発)の中で、天保9年(1838年)、江戸湾(現在の東京湾)測量手法を巡って争った際に洋学者の江川英竜に敗れ、老中水野忠邦に叱責されたこともあって、このときの遺恨が従来の保守的な思考も加わり洋学者を嫌悪するようになったといわれている。それが、目付け時代には「蛮社の獄」の取調べを行い崋山や長英らを獄に送り、町奉行になってからは、高島秋帆 の所業を調べ上げ、下獄させるなど執念深い性格は、鳥居耀蔵の耀(よう)と甲斐守の甲斐(かい)をもじって「妖怪」とまで蔭口をたたかれた。後に罷免され、在職中の不正の廉(かど)で丸亀藩京極氏のもとに預けられ、維新になり解放された時、「俺の言ったように蘭学を禁圧しなかったから、徳川はたおされたのだ」と言ったといわれている。(週刊朝日百科{日本の歴史」参考)
(画像は、獄中の崋山。絵師崋山は出獄後、獄中の生活を早速書きとめている。田原町教育委員会蔵。週刊朝日百科{日本の歴史」より)
参考:
蛮社の獄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9B%AE%E7%A4%BE%E3%81%AE%E7%8D%84
蛮社の獄(学研学習事典データベース)
http://db.gakken.co.jp/jiten/ha/506100.htm
慎機論 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%8E%E6%A9%9F%E8%AB%96
戊戌夢物語(学研学習事典データベース)
http://db.gakken.co.jp/jiten/ha/523380.htm
鎖国 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%96%E5%9B%BD
結社 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E7%A4%BE
印旛沼
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E6%97%9B%E6%B2%BC
高島秋帆 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E7%A7%8B%E5%B8%86
佐藤昌介 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%98%8C%E4%BB%8B
佐藤昌介著洋学史研究序説
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/0/0023640.html