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プロ野球 天覧試合から66年 今 明かされるその舞台裏

2025-07-01 04:05:04 | スポーツ
プロ野球 天覧試合から66年 今 明かされるその舞台裏 NHK 2025年6月30日 19時30分

プロ野球の90年を超える歴史の中で唯一行われた1959年6月25日の天覧試合。今も“伝統の一戦”として続く巨人 対 阪神(当時は大阪)の試合は、昭和天皇が見守る中、6月3日に亡くなった長嶋茂雄さんの劇的なサヨナラホームランで幕を閉じ、日本中を熱狂させました。

プロ野球を国民的スポーツに押し上げるきっかけになったこの伝説の試合。出場した選手はどのような思いでグラウンドに立っていたのか。そして今も語り継がれるこの試合は球史にどのような影響を与えたのか。

今回、NHKではキャッチャーとして出場していた森祇晶さんに単独インタビューを行いました。巨人の正捕手としてV9に貢献し、引退後は監督として西武の黄金時代を築くなど、戦後のプロ野球の中心にいた森さん。その証言と、長嶋さんの生前のインタビューから、プロ野球の歴史の転換点ともなった天覧試合の舞台裏に迫りました。
(スポーツニュース部 記者 金沢隆大/スポーツ情報番組部 ディレクター 三木謙将)

森祇晶さん
今回、NHKの取材に応じてくれた森祇晶さん(88)。巨人の正捕手として長嶋さん、王貞治さんの「ON」とともにV9を達成した名選手です。

引退後は西武の監督として6回の日本一に導いた名将として球史に名を刻み、野球殿堂入りも果たしています。

66年前の天覧試合には「8番・キャッチャー」として先発出場した森さん。

インタビューの前にNHKが中継した映像を見てもらうと「懐かしいなぁ」と目を細め、当時の状況を語り出しました。

森祇晶さん
「ふだんと全く違った意識はあったんですよね、特別な日でした。初めて天皇陛下を見られるという人ばかりですから」

プロ野球初の天覧試合が行われたのは終戦から14年後の1959年、6月25日。

このとき巨人を率いていた水原茂さんや前の年に現役を引退し、コーチに就任した川上哲治さんなど、戦争を経験した人も多くいました。

昭和天皇の前で野球をする。

プロ野球で初めてとなる歴史的な試合を前に、森さんはこれまでに経験したことのない雰囲気を感じ取ったと言います。

森祇晶さん
「ふだんミーティングをあまりやらない水原さんがゲーム前にみんなに話をした。『よそ行きの野球をやる必要はない。けれども戦いだから勝たなければいけない』と。さらにバッテリーに関しても平素は何も言われなかったが、この日は『きょうは藤田(元司)が硬くなっているから、いつもより間を取ってピッチングさせろ』とおっしゃったことが非常に印象的でした。シベリア抑留も経験し、その苦しさを何度も話してくれた水原さんが特に思い入れが強かったのかなと思いますね」

午後6時50分。昭和天皇と皇后が後楽園球場に到着。

試合前、観戦席に向かってホームベースを挟むように両チームの監督や選手が一同に並びました。

巨人の球団史によると球場側も総工費200万円で貴賓室を改造し、廊下の塗装も塗り替えてこの日に臨んだということで、まさに「特別な試合」でした。

森祇晶さん
「あのような形で整列すること自体初めてで、異様な雰囲気だった。8月15日の終戦の日の天皇陛下のことばをラジオで聞いた人間としたら思いがあります」

森さんの1歳年上で同じく玉音放送を聞いた入団2年目の長嶋さんも生前のNHKの単独インタビューの中で特別な思いを明かしていました。

長嶋茂雄さん(2015年のインタビュー)
長嶋茂雄さん
「昭和天皇とね皇后様が初めて野球場で見るということで、なんとも言えない気持ちがね、言葉には出ないようなものがありましたよ」

それぞれが特別な感情を胸に抱き、森さんのことばを借りるなら「重苦しい」空気をまとい、天覧試合は午後7時に始まりました。

本拠地の後楽園球場のホームベースの後ろ、いつものポジションに腰を下ろした当時22歳の森さん。マスク越しに見たフィールドではいつもと違った光景が目に飛び込んできました。

そのときの記憶を身ぶり手ぶりを交えて教えてくれました。

森祇晶さん
「私がキャッチャーで守っているじゃない。野手の顔を見てみるとみんな前を向いているんだけど、こうやってチラチラとチラチラとね。上目遣いで貴賓室を見ていたんですよ」

巨人の先発が藤田元司さん、対する阪神は小山正明さんが先発し、エースどうしの投げ合いとなりました。

静かな立ち上がりとなった試合が動いたのは0対0の3回。阪神のピッチャー・小山さんにタイムリーを許し、まさかの形で先制点を奪われました。

長嶋さんは「4番・サード」で出場。実は前の試合まで9打席連続ノーヒット、ホームランも直前の1か月でわずか1本と当たりが止まっていました。

長嶋さんは自身の状態がよくなかったことをNHKのカメラの前で明かしていました。

長嶋茂雄さん
「6月の25日まではね、バッティングが1番悪かった。当たりも調子も悪かったんだよね。練習でもいい感じが出ない。なんとかして昭和天皇は初めて来るんだから打ってみたいという気持ちはなによりもあった。よし、やるからにはもうね、昭和天皇にね、一生懸命、自分の野球人というものはこういうものだと言おうという気持ちは持っていた」

不振の中でも“燃える男”と呼ばれた背番号「3」は闘志を前面に押し出していきました。

第1打席にレフト前にヒットを打っていた長嶋さんは1点追う5回に第2打席を迎えます。

“精密機械”と称された小山さんのインコースのシュートを捉えました。

昭和天皇も身を乗り出した打球はレフトスタンドに飛び込む同点ホームラン。前日までの不調がうそのような活躍を見せました。

苦しい中で実力を発揮し、大舞台になればなるほど勝負強さが輝く長嶋さん。

常に野球に真摯(しんし)に向き合い、どんなときにもへこたれず努力を重ねる姿が活躍を支えてきたと盟友の森さんは証言します。

森祇晶さん
「ミスターのすごいところはやっぱりね、結果が悪いことを引きずらずに前へ前へということですね。打てなかった日は宿舎に帰ってきてもうね、裸になってビュンビュン、バット振っていますよ。僕の隣の部屋がミスターなんですよ。昔の旅館ですから、壁が薄いからバットを振る音がビュンビュン伝わってくるんだよ。“またやりだしたな”、“よっぽど悔しかったんだろうな”と思ったりするんですけど。陰の努力というかな、それがやっぱりまた翌日に結び付いていく。偶然にそのホームランが出たとかじゃないと僕は思います」

現役時代ともにグラウンドに立ち続け、栄光をつかんできた森さんだからこそ語れる長嶋さんの野球人としての本質がありました。

2点を追う7回には高校卒業1年目ながら「6番・ファースト」で出場していた王貞治さんが同点ツーラン。後に幾度となく野球ファンを沸かせた「ON」のアベックホームランが初めて生まれた瞬間でした。

息詰まるシーソーゲームとなった試合で森さんがターニングポイントとなったと感じるプレーが同点の8回表にありました。

ここまで粘りの投球を続けてきた藤田さんが1アウト二塁三塁とピンチを招きます。

ここで藤田さんは振り向きざまに二塁にけん制。するりとベースに入ったショートの広岡達朗さんが素早くタッチして二塁ランナーをアウトにし、最大のピンチを好プレーでしのぎました。

森祇晶さん
「これは2人のあうんの呼吸。2アウトになったことが大きかったし、こういった隠れたファインプレーが本当にピンチを救ってくれた」

試合は4対4のままクライマックスとなる9回ウラを迎えました。

阪神は7回途中から村山実さんがマウンドに。森さんが「まずありえない」と驚いた、ふだん先発を任される村山さんのリリーフ起用でした。

阪神もまたこの試合にかける執念をにじませていました。

迎え撃つ巨人の先頭バッターは気迫を前面に押し出す長嶋さん。

カウントツーストライクツーボール。

時刻は午後9時12分、昭和天皇が退席するわずか3分前でした。

長嶋さんがバットを振り抜くと、白球は東京の夜空に放物線を描き、レフトスタンド上段に吸い込まれていきました。

サヨナラホームラン。

球史に残る1打が生まれ劇的な形で天覧試合は幕を下ろしました。

球場の視線を一身に集めながらダイヤモンドを1人、1周したときのことを長嶋さんは鮮明に覚えていました。

長嶋茂雄さん
「二塁から三塁、三塁ベースを回り終わったとき、走ってるときにちょうど昭和天皇と初めてあった、皇后さまとね。なんとも言えない気持ちになって思わず会釈をした。『ありがとうございました』と」

記念のバットやボールなどは人に譲ることなどが多い中で、長嶋さんは天覧試合で2本のホームランを打ったバットだけは生涯、大切にしていたといいます。

森祇晶さん
「死力を尽くしていいゲームをしたという感じがしますね。サヨナラホームランが出たときはほっとしたというか、『これでもう守らなくていい』って。守っていてやっぱり苦しいよ。ふつうのゲームとは違って、何回も言うけど特別なゲームでしたね。野球人として貴重な体験ができました」

天覧試合(1959年 6月25日 後楽園球場)

1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
阪神 0 0 1 0 0 3 0 0 0 4
巨人 0 0 0 0 2 0 2 0 1× 5
当時の野球界は学生野球や社会人野球が人気を博し、プロ野球の注目度はそれほど高くありませんでした。

現に東京六大学野球や都市対抗ではプロ野球に先んじて天覧試合が実施されていました。

そうした背景の中で行われたこの試合がきっかけとなり、プロ野球は一気に人気に火がつきました。

長嶋茂雄さん 王貞治さんの「ON」
出場した選手たちが見えない重圧の中、死力を尽くして戦ったからこそ、あの後楽園球場で今なお語り継がれる名シーンがいくつも生まれ、日本中を熱狂させました。

西武の監督で黄金時代を築いた森さん
あの試合から66年。

その後、プロ野球は国民的スポーツへと成長を遂げ、昭和、平成、令和と多くのスター選手を輩出、たくさんの人に親しまれています。

日本シリーズ 監督として対戦した長嶋さんと森さん(1994年)
その原点にはあの試合があったと森さんと長嶋さんは振り返ります。

森祇晶さん
「野球というものの見方がずいぶん変わったと思うんですよ。多くのファンを引き付けることになったんじゃないかなと、僕は思いますけどね。やっぱり野球に対する報道のしかたもおそらく変わってきたことだろうと思うし。確かに国民的な野球というものは、より非常にクローズアップされたということは言えると思う」

長嶋茂雄さん
「プロ野球、その前は『職業野球』と言われていた感もずいぶんありました。それが『職業野球』があれから『プロ野球』にどんどんなっていった。マイナーからメジャー。英語で言うと、マイナーからメジャーということじゃないでしょうか。このホームランを打ったということがね、『プロ野球』になったということが本当によかったと思いますね」

(2025年6月25日「ニュースウオッチ9」で放送)
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