より一層の知識と光を求めて・・・・

時に末日聖徒/モルモン教への私見含むメモ帳にて御座候 ほな毎度どんもにて 御きげんよろしゅうで御座候

聖徒としての理想形・完全型

2015-05-19 07:20:46 | 聖文から・・・・

聖徒の内面にあっての変化し進歩向上していった行き着く先の、主イエスが望まれるところの究極の姿を、そして、主イエスとの関係において、信仰深い聖徒として到達し得る理想の姿や完成された形を、端的に言い表しているのが、八福の教えの6番目の「 心の清い人々は皆、幸いである。彼らは神を見るからである。」(第3ニーファイ 12:8)、「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。」(マタイ5:8)なんでは、というのが、たまWEB、最近、得られた理解なんだが、はたして??

以前の記事では、

「⑥ ‘ 心の清い人々・・・・神を見るからである’
   神の証人となる。シオンの一員になる。自分らと同じく隣人を未完の神々のようにとらえ敬い尊べるようになるみたいな・・・・モルモン書について証しすることは、モルモン書をもたらした予言者ジョセフのことを示し、ジョセフは神と見えているということで、つながる・・・・「21 それゆえ、主はこのように言う。まことに、シオンを喜ばせなさい。心の清い者、これこそシオンである。それゆえ、シオンを喜ばせなさい。一方、悪人は皆嘆き悲しむであろう。
」 (教義と聖約97章)」

なぁんて書いてましたかぁ。(英語だと、この‘心の清い者’、‘心の清い人々’は、どちらも同じ‘the pure in heart’)

     “これだっ! 末日聖徒決定版「山上の垂訓」の解釈!! その3 2015-02-25 19:29:11 | 聖文から”

     八福
     http://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/s/%C8%AC%CA%A1

うぅぅんと、今回気づかされたようなのは、主が望まれる究極的理想の姿が、「心の清い人々・・・・神を見る」であろうということの前提として、0番目の水と火によるバプテスマを受ける、1:心の貧しい、2:悲しんでいる、3:柔和な、4:義に飢え渇いている、5:憐れみ深いの6つは、その聖徒にとり、ある程度段階を経て、既に体験され到達されているんだと見るわけです。それから、より重要な点は、これまで見落としてきたわけですが、この「神を見る」というのが、文字通り、実現され、強調されなくてはということなんですねぇぇ。

(ジョセフ・スミス霊感訳聖書では、マタイ5:2「そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。」の後に、‘私を信じる者は幸いである、再度言う、あなたがたの言葉を信じ、あなたがたが、 私に会ったと証し、私が実在すると証するとき、あなたがたのその言葉を信じる人々は、なおさら幸いである。まことに、あなたがたの言葉を信じて、心底謙遜になって私の名によってバプテスマを受ける人々は、幸いである。彼らは火と聖霊を授かり、罪の赦しを受けるからである’と続きます。)

「23 さて、このことを、モーセは荒れ野の中でイスラエルの子らに分かりやすく教え、その民が神の顔を見ることができるように、彼らを聖めようと熱心に努めた
 」
(教義と聖約84)

そしてさらには、モーセが、民が神の顔を見れるよう努めたとありますが、同じことが、八福の教えの中に、究極の?教えとして含まれているんだと。これら二つは同じことだよと見れるんではと感じ取れたことで、今回、たまWEBにとって衝撃なんですよねぇぇ。つまりは、神を見れないなら、心をかたくなにして、神の臨在に堪えることができなかった、予言者モーセが教え導こうとした古代イスラエルの民のようになってしまう可能性ありなんではと。

英語検索では、例えば、2003年版の日曜学校『旧約聖書』手引き(出エジプト24:1-11)での注釈・解説等、この二つ(そのモーセが努めたということと心の清いということ)を関連させてるのは10件くらいあったんでしたかぁぁ・・・・

     http://search.yahoo.co.jp/search?p=%22sanctify+his+people+that+they+might+behold+the+face%22++%22pure+in+heart%22&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=sb-kingbrw1&x=wrt

教会員の人たちで、霊的に目が開かれ、そういった経験をしてる人たちもいるんでしょうけど、たまWEBはまだまだですよねぇぇ。心が清められ、主の御顔を拝見し、まことにシオンの一員となれますように願い祈りですがなぁぁ。


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1 コメント

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清い (黄昏のマリア)
2015-05-21 14:50:12
たまさま、ご無沙汰してます。

単純なマリアはこんな風に考えてます。
清い、聖いとは、「あわれみ」のことを言うのだそうです。
「あなたの隣人をあなた自身として愛しなさい」
天国はこのような人々が集まる所ですね。
福音のあらゆる救いに関する儀式を受けたとしても、どんなに知識があっても、「あわれみ」がなければむなしい。
因みに、愛には「誠実」という意味があるそうです。

今の自分が置かれている言葉で聖句を理解しようとすると、不都合があるかも知れません。現在も言語間の概念の違いは存在しますよね。
新約聖書は、ギリシャ語訳ですね。ですが、イエスが話していたのはアラム語ですし、旧約聖書はへブル語です。
イエスが地上にいた時はまだ旧約しかないですし、へブル語概念で考えないとまずいのかな・・思います。

わたしは、へブル語の「聖い」が「あわれみ」という意味があることを知った時、そっかーと素直に嬉しくなりました。
罪とか悔い改めとかもへブル語の概念で捉えたら、なるほどねー、となりました。とくに、悔い改めは、それまでの考え方を「あらためる」のではなく、「やめる」ということだそうで。そう言われると、ピシッと心にハマりました。「くいあらため」=「考え方をやめる」の公式が意識にあるので、悔い改めを必要とするようなことをしてしまう前に、自己コントロールがちょっとうまくできるようになってきたです。やったね!て感じです。単純な性格でしょ?(笑)

余談ですが・・・
この教会は、指導者はよく女性は素晴らしいっていうでしょ。根拠がいまいちで、すごい持ち上げてる感いっぱいだったんです(笑)。
エバがアダムに助け手として与えられたのは、知ってますよね?
旧約のどこだったけな、神に「助けとなってください」と民が懇願するところがあるんです。このときの「助け」とエバの「助け手」は同じ言葉が使われていて、この言葉は上下関係も表わしているようで。ということは・・・。うーんんん。(たまさまの真似してみたの(笑))これから指導者の女性賛辞は素直に受け入れます!

関係ないですけど、わたし、徳永英明の「ことば」って曲、好きなんです♪
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