「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「蒸し暑さの中で」

2020年06月12日 | 季節の移ろい・出来事

              

昨日の大雨を引きずって、今日も大雨を予想したにわか気象予報士の思惑は見事に外れた。
蒸し暑い曇り空からやがて薄日が差し、ムンムン蒸し暑さだけは残してお日様さえ出てきた。そうなると何にもしなくてもじんわり汗が。
「なんとなく過ごしにくい季節だね~」と思わせるかたわらで、この蒸し暑さならではの清楚な花、アジサイが我が家の庭にも咲き始めた。

一応梅雨入り宣言は発令された。ただこの梅雨入り宣言だけは、発表に至る確固たる定義がないのだそうな。
つまりは、梅雨前線の停滞や、次から次へ発生する梅雨前線が近辺に居座ることが予想される、と気象庁が判断したときに「梅雨入りしたと思われる」という発表があり、「梅雨入りしたそうだから雨が降るよ」とか、「大雨災害に対する準備を始めようか」などとささやき始めるのである。

それは、桜の開花宣言にも似て、おおよそ南の沖縄あたりから九州南端、九州北部そして中国地方へと北上する。
にわか予報士の雨予想が外れて、予定通りのグラウンド・ゴルフに出てみると、昨日の大雨が表面を洗い流してくれたグラウンドは、コンディション最高と喜んだものの、ラジオ体操と軽い腰の運動をするだけでタオルが要るほどの汗。この暑さに負けてコロナ三蜜対策を忘れそうになるが、マスクをすると間違いなく熱中症対策が必要となる。ちょっとしたお遊び、今日行くところ、今日用事がある、教育と教養を満たすのも楽ではない。

それにしても、蒸し暑さの中で花開くアジサイではあるが、アジサイにはやはりシットリの梅雨の雨がお似合いである。
「雨にぬれるアジサイ」「アジサイの雨」の方が「蒸し暑さの中のアジサイ」より趣がある。風情を求めたくなる季節ではある。

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「よみがえる球春」

2020年06月11日 | ニュース・世相

            

早春3月、世に春の訪れを告げる「球春」センバツ高校野球大会。いわゆる春の甲子園大会。
昨年秋の地方大会で優秀な成績を残し、甲子園での雄姿を目指して研鑽を積んできた全国の高校球児たち。
その夢を打ち砕く新型コロナウイルスの発生、感染拡大。ふくらんだ夢も希望もあこがれも一気に消し去られた。実に気の毒に思っていた。

その夢や希望やあこがれを、100%とは言わないが少しでも叶えてあげる方向に、大きく舵が切られ前進をみた。
第92回センバツ大会出場が決まっていた32校を招待し、6日間で各校1試合ずつ計16試合を、甲子園球場で実施するという。
ベンチ入り選手は20人以内。原則無観客。保護者らの観戦は、コロナの感染状況の推移を見て検討する。そんな概要である。

別段ひいきの高校があるわけでもない。もちろん親戚筋をたどっても、高校球児に縁のある者はいない。
強いて云うなら、この春5年生になった孫君がソフトボールを頑張っている。9チームからなるご当地リーグの、選抜チームの内野手として練習に励んでいる。彼らが目指すのもやはり、甲子園の土を踏むことである。可能な限り夢を叶えさせたいと思う。野球の勝敗による結果ならともかく、それとは全く縁のないウイルス感染などで、甲子園の夢を絶たれるのは、それはそれは気の毒な話である。

そこのところを考慮し熟慮した結果、日本高校野球連盟と、主催者の毎日新聞社が協力して実現にこぎつけたのだ。
まだまだ予断を許さないコロナ感染と、時期が大幅にずれたことなどで、満足な形で大会が行われるわけでは決してない。
それでも、汗と泥と涙の結晶として掴んだ高校球児の夢を、少しでも叶えてくれることに、「よくやったね~」とほめてあげたい。

見守る側も、現状を忘れることなく、節度を持って粛々たる声援を送ることに徹したいものである。

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「予備って何のこと?」

2020年06月09日 | ニュース・世相

予備費・予備校・予備試験・ 

予備実験・予備自衛隊 etc

予備っていったい何者? 予備費ってなに?
このコロナ禍の中で、さも一大事の如く「予備費10兆円」を巡って、同じことを何度も質問し、同じことを総理も財務省も答弁する。質問する人たちに尋ねたい。予備費って何?

一つの組織体というのもがあれば、期末に当たってその年間決算報告をする。当然監事による監査報告も行われる。その決算を踏まえる一方で、新年度の収入額を想定し、新年度の支出予算案を組む。こんな単純明快なことは今さら言うまでもなく先刻ご承知の通りである。
今私たちが取り組んでいる小さな地域社会活動でも、この決算・予算案は慎重に練られる。

その予算案の中に、必ず予備費という費目は存在する。何故なら、通常の支出費目として挙げられるものには確固たる費目が付く。そんな通常の費目以外に、想定外の出費や緊急を要する出費の必要性が生じたときに、遅滞なく対応できる備えをするのが予備費という費目である。

その額は前年度の決算額を踏まえた上で、収入を含めた予算案の中で自ずと決められる。
問題は、その想定外や緊急の出費をどこまで予見しておくか。これが難しい問題である。
予備費の額が必要以上に多いと思うなら、予備費を半分にして、後の半分に何らかの新た費目を付けるよう、責任ある提案をしたら解決する問題ではないの?

もっと他に、国民目線に立ったコロナ禍対策に、国会議員が一致協力出来ないの?コロナ禍の第2波・第3波が来ないと確約出来るの?コロナ対策だけに目を奪われていると、熱中症対策の遅れや、これからシーズンを迎える自然災害対策が後手に回らないよう、固定費目を付けない予備費は必要なんじゃないの?
自分でもよく分からない分、国会議員の先生方にお尋ねしてみたい。
蒸し暑さとともに、なんとなく寝苦しい夜になりそう。

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「三年目」

2020年06月07日 | つれづれ噺

              

「三年目」と言えば何を思い起こすか。コミック歌謡で「3年目の浮気」という歌もあった。「ここで会うたが3年目」と父の仇に撃ちかかる芝居もある。
凡人の小生などは、三年目と言われて一番に頭に浮かぶのは、古典落語に出てくる人情噺であろうか。圓生落語で聞いたことがある。

落語の「三年目」は、愛し愛された若い夫婦の嫁さんが若くして病死。残された亭主は「後添えは要らない」というのに周囲の世話焼きが、新しいお嫁さんを連れてくる。亡くなった先妻は「再婚したら化けて出る」と言い残しているので、亭主は先妻の幽霊が今日は出てくるか、明日は出るかと、怯えながらも待っている。丸2年たって3回忌を迎えた晩にやっと幽霊として現れた。「随分遅かったじゃないか」「だって、坊主頭じゃみっともなくて出らりゃしない。髪の毛が伸びるまで待ったら3年目の今夜になっちまったんだよ」という夫婦愛のお話し。仏になったら、男も女もお坊さんによって髪の毛を剃られたことに引っかけてある。

そんな話はともかく、小生にとっての3年目は、蓄膿症手術という、それはそれは痛い目にあってなんとか無事退院したあの日から、今日が丸3年目である。
医術の進歩で、蓄膿症という鼻の奥の手術も、鼻の穴からカメラとメスの2本のチューブを突っ込んでやる。但し、入室から術後の退出までかれこれ4時間かかったのは覚えている。

6月の朝日は5時に顔を出す。日の入りは夕方7時を過ぎる。朝が早くて一日が長いな~と感心しながら毎朝日の出に柏手打ったのを思い出す。その後、確かに蓄膿症状は治った。完全治癒と言っていい。ただ、丸3年過ぎた今も、鼻詰まり感があって、時としてしゃべりにくいことがある。「あーたにとって、しゃべりにくいくらいがちょうどいいよ」などという友はいないと思うが、出来たらこの鼻詰まり感から開放されたい。

まあ鼻で息が出来ないほどの重症ではないが、執刀医の腕前をちょっと疑いたくなったりする。まだお若くて、これから経験を積んで名医として出世する、という段階であったのかもしれない。その意味ではこの鼻も世のため人のためになったのか、と善意に解釈して、3年目を通り越して4年目、5年目の鼻詰まり感完治を待つことにしよう。

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「一番生り!」

2020年06月06日 | 晴耕雨読

                       

コロナコロナで大騒ぎしていた4月半ば。「世の中どっちに転ぼうとも、土と水と太陽があれば植物は育つ」と信じて植えた夏野菜。
その先陣を切ってキューリの一番生りが実った。根っこの影で横たわっていたのに気付くのが遅れて、商品にはならないほどの大きさに成長していた。
もっとも、商品などにするわけではないので、太かろうと曲がっていようと、この手で作った逸品である。味だって間違いなく新鮮なキューリの味。しかも我が家の一番生り。まずかろうはずがない。

スーパーに並ぶキューリもトマトもピーマンも、み~んな同じような型にはめたようなサイズが揃っている。ということは、少し曲がったり、器量が悪かったりすると商品価値はなくなるということ。
それはいったい誰が決めるのか。曲がっていようと、短かかろうと、あばたがあってへこんでいようと、取れ立てのキューリに何の変わりがあるものか。新鮮さこそが何より野菜の命である。なのに、規格外品と言って、とんでもない安値に叩かれるか、出荷できずに腐らせてしまうか。

食料自給率の乏しい我が国がそんなこと言える立場か?と問うてみたくなる。キューリがスイカほど甘かったり、サツマイモがジャガイモの味だったりするのは問題だ。キューリはキューリの味さえすれば形やサイズはどっちでもいいではないか。それは買う側の意識に任せて、せめて出荷くらいすればいい。

我が家の一番生りが、曲がっていたり大きすぎるから言うわけでは決してない。消費者は王様!これも分からぬではない。しかし一方で、中国産を怖がったり嫌ったりする。ならば国産品なら少々のいびつやアバタ、曲がりも大小もガマンしなさい。と言いたい気持ちになる。それは、生産者の並々ならぬ苦労を知っているから。
お金さえ出せば何でも手に入る、しかも形も揃った味のいいものが。と贅沢を構えていると、中国やアメリカなど食料輸出大国の言いなりで、肩を並べるなどとても出来る話ではない。

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「取り敢えず、復活!」

2020年06月05日 | スポーツ・観戦

   ゲーム前のラジオ体操           真剣にフォールポスト目指して、G・G

世の中の流れに逆らうことなく、新型コロナウイルス感染拡大防止の大義名分のもと、涙を呑んで「休止期間を設けましょう」と。
楽しみに集まってくる人たちに無情の宣言をしたのが4月5日。あれからまるっと2ヶ月。
ついに復活した、小さな団地の小さなグラウンドゴルフ(G・G)。笑顔と談笑が団地公園に戻って来た。

ラジオ体操に至っては、「G・Gはやらなくてもラジオ体操には参加したい」との申し入れで、G・G登録メンバー以外の人も参加している。
本来のG・Gクラブ立ち上げの目的はここにあるわけで、してやったりと密かに微笑む。
こぢんまりした団地にほどよい軒数が寄り添っている。ちょっとした声かけによって大きな広がり見せるはず。と思ってきたのに「この団地には何にもない」との愚痴は聞くが、じゃぁ何かをやろうとは誰も言わないでここまできた。

本格的スタートからちょうど1年たったとき、コロナで休止に追い込まれた。しかし考えて見れば、少人数ではあっても元々やってみたいという人の集まりなわけで、しかもコロナ故の致し方なしの休止は、却って結束を深める役割を果たしてくれたような気持ちにさせられる。
人間の心理とは面白いものである。やっちゃダメ!と言われると無性にやりたくなる。ところが、今回のような命に関わる危険性があって、中断せざるを得なくなった理由が重大な場合は、峠を越えたら再開したい、と言う心理、期待感はさらに大きくなるようである。

うまくは言えないが、皆さんの気持ちが伝わってくるたびに、「少し無理してでも始めようか」と思ったこともある。
もしそれをやっていたら、2ヶ月間封印して待った挙げ句の今ほどの喜びや楽しさは得られなかったのかも。
たったこれだけのことでさえ、判断を下す者の裁量とはややこしい。その分、ちゃんとハマったときの心地よさもまた格別というものか。

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「ふる里はいま」

2020年06月03日 | つれづれ噺

                   
                     ウオーキングで少し足を伸ばせば出会える早苗群

またまた新たなカタカナ言葉が駆け回る「東京アラート」。非常事態宣言が解除されてなお、というか、解除したからこそ、根こそぎ退治に至らないまま収りを見せないコロナ感染者。
そこで出てきたのが東京アラートという新たな言葉。明確な語彙説明がなされたのかどうなのか。「分かりにくい」「小池都知事のキャッチフレーズ好きの産物」とか。益々分かりにくい。

それに、東京都で感染者が続くことは、日本全国に散らばる可能性が大である。ならば、東京〇〇という言い方は尊大ではないかい?と釘を刺したくなる。国を挙げて一丸の足並み揃えた対策を講じなければ、効果のほどは知れている。北九州市アラート、北海道アラートなの??

                 
        遠くの山を水面に映して揺れる早苗   
6月に入ったふる里の風景は実に見るところが多い。別に観光地が復活したとか、動物園が、フラワーランドが開園したとか、そんな話ではなく、この季節の自然の風景は、そこに立って空気を吸い込むだけで元気をもらう・・・そんな思いがする。

日本百選に出てくるほどではないにしても、何代か前の祖先が汗水流したであろう、何枚も連なる棚田に水が張られ、植えられたばかりの早苗が揺れる。その水面には背景の山を大きく浮かばせている。こんな土地にまでコロナウイルス来ないでおくれ。
岩国アラートなんて言葉要らないからね。それにしても、早く消え失せないものかねー。そろそろ消えてもいいコロナ!!

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「水無月ついたち」

2020年06月01日 | 家族・孫話

        隣の荒れ地に咲いた真っ白い小粒の花。名も知らぬ花だけど、何故か存在感があって。

コロナだ自粛だ閉塞感だ、とあれこれ言っているうちに早くも6月を迎えた。水無月ついたち。文字とは裏腹にしっかり雨の降る水有月になるのだろう。
しかも蒸し暑さがやってきて、コロナ対策のマスク着用を考えると、熱中症の対策もおろそかにはできない。
コロナと熱中症の板挟みからどうやって身を守ろうか。苦心と試練の梅雨時を迎える今、少しの覚悟をもって迎え撃たねばならないようだ。

そんな気の重い話の中で一筋の光明というか、小さな慰め話は、姫孫の誕生祝いのおねだりである。
私たちにとって最後の孫となるであろう、倅夫婦の二人の娘たち。一人はまさに今日、6月1日が誕生日で満3歳になる奈那さん。
スマホの画面で笑顔の交換をしながらおしゃべりをする。「お誕生日のお祝い何が欲しいの?」「ナナはねー、イチゴが欲しいの」と大真面目。
「そっか~、いっぱい買ってあげるね」「ウン!」嬉しそうにキャッキャ騒いでる。ずっとこのまんまでいてくれりゃいいが、そうもいくまい。

お姉ちゃんの希さんは10日後、6月11日に満7歳の誕生日を迎える。こちらはもうちゃんと「本屋さんに連れてってね、欲しい本があるの」と。
じいちゃんが図書カードを貯め込んでいることを先刻ご承知。
この4月に小学校に入学したが、ホンの数日でコロナ臨時休校に。先週からやっと学校再開。それでも「お友達がいっぱいできて、学校が楽しい」と、何よりジジババが安心することをポロっという。これじゃ誕生祝を弾まねばなるまい。

コロナによる県またぎ移動の抑制で、2か月近く里帰りできないでいる。学校が臨時休校の間は動きが取れず、少し下火になって移動可能となったら今度は、土日しか戻ってこれない。世の中うまいこといかないことだらけだねー。

 

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