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「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「記憶と記録に」

2012年10月12日 | 思い出話

              
プロ野球でもサッカーでも、およそスポーツ選手には記録という厄介な荷物がついて回る。我々応援団であったりサポーターと呼ばれる、いわゆるスポーツを楽しませてもらう立場では、記録よりも記憶に残る方を大切にする傾向がある。
「記録」とは、競技などの成績・結果、特にその最高のもの、また物事の状態・結果などを数値で表したもの。とある。そして解説者とか評論家と呼ばれる人たちからは「記録に残るのも悪くはないが記憶に残る選手になれ」と言うのをよく耳にする。

イチロー選手みたいに、「記録」も世界的なものが数々。「記憶」も、彼を越す存在が出てこない限り、そうたやすく消えて行くことはないであろう。

私たちの普通の生活の中にも、大なり小なり色んな「記録」というものがあり、自分自身の生活そのものが書き残されて後世に伝えられるものも少なくない。
結婚歴、子育て歴、学歴、免許取得歴など、確かな形で残される。

一方「記憶」と言うのは、実に曖昧なことが多い。が、人間が生きて行く上での心の支え、生き甲斐になっているものが多いことも間違いない。
往々にして、時間がたてばたつほど、角が取れて、ま~るい穏やかないい記憶に変わっていくことが多いのも確かだ。かたや忘れたい記憶の4つや5つはある。それ以上かも。

その日その時で思い出すメモリアルもある。
それこそ、自分にしか分らない、気持ちの奥で大切に大切にしたい記念日もある。
そんな記憶、思い出があるから明日が楽しく迎えられる、つまり記念日はエネルギーに変わる。

ただ、今となっては記録は、単なる忘却を防ぐための防備録的要素が強い。だから今思ったことを忘れないようにこうして書き残しているのだろうか。
記録はほどほどに、記憶を出来るだけ大切に心豊かに生きて行きたいと思う。

そんな意味からも、孫兄ちゃんの修学旅行、大きな記憶になったことだろう。

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「秋といえば・・・」

2012年09月10日 | 思い出話

       
            2012.9.9 母校運動会

まだ真夏の太陽が照りつける時期に、一通の案内状が来る。母校の高校運動会。
丁重な挨拶に続けて「ご来臨の栄を賜りたい・・・」などと書かれている。開会式、閉会式の内容、全種目のプログラムも添えられている。目立つように黄色い用紙の「駐車券」と大書した1枚を、フロントウインドウ付近に置くようにとも書かれている。

身分不相応な案内状に恐縮しながらも、できるだけ都合を付けて毎年顔を出すよう心がけている。母校の運動会はどういうわけか体育祭とは呼ばない。昔から運動会という。
130数年前の創立時に使われていた呼び方を今でも伝統的に使っているのだろうか。それはそれでいい。この日一日は体育云々と言うより、生徒のアイデアを生かし、飛んだり跳ねたりする遊びを楽しんでいる和やかさがある。観客席も来賓席も笑いが渦巻く。

白・赤は付属中学校の色分け。高校は青・紫・緑・黄の4色団に別れる。それぞれの団に代表がいて、開会式の入場や、午後一番の全体行進では各色の大きな旗を持つ旗手をつとめる。それはカッコいい役回りであり憧れであった。

思えば53年前の秋。緑だったか紫だったか忘れたが、間違いなく色団の代表になった。というかならされた。オッ!憧れの旗手をつとめるのだこの俺が・・・。
ところがどっこい、身体は小さい徒競争は得点に貢献しないビリッケツ。
そこへもってきてスポーツ万能の大男がカッコよく現れて、多くが彼に旗手をやらそうや~と、反旗を翻すではないか。旗の話だけに反旗を振る奴もおるわなー。

仕方なし、旗手のすぐ後を一人で行進、皆を従えることで色団代表の面目を保ったほろ苦い体験が頭をよぎる。足の遅さと身体の貧弱さは、当時の旗手としては失格の要素であったのだろう。今はどうか、やっぱり体格のいい、インターハイにでも出るような実力の持ち主が堂々と団旗を翻しているようだ。

秋の風物詩を代表する運動会、どうもあまりいい思い出にぶつからない。
「秋といえば・・・」 ちょっと切ない青春が透けて見える。

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「思い出の富士山」

2012年02月23日 | 思い出話

      
      1959(昭和34)年3月撮影 思い出の富士山(箱根十国峠付近)

2月23日、今日は語呂合わせによる「富士山の日」なのだそうな。
ユネスコ世界遺産の中でも文化遺産に登録しようという運動が行われている。
美しい日本のシンボルでもあり、信仰の山でもある富士山。

ふと思い出した。生まれて初めて本物の富士山を仰ぎ見たときの強烈な印象を。
高校2年から3年に向かう春休みに行った修学旅行で、初めて眺めたその雄姿に圧倒された。そして、どんなに精巧な絵ハガキも、この実物には勝てないことを実感した。

熱海から登山バスで箱根十国峠を越え鎌倉に出るコースで、十国峠頂上あたりからジックリ眺め、頭の中いっぱいにその秀麗な姿を詰め込みたかった富士山だった。
どんなカメラを提げて行ったのか、それすら記憶にないが、77×55mmの小さな小さな写真が、修学旅行思い出のアルバムに残っていた。
色こそセピアに変わりかけているが、初めて撮った富士山としては我ながら上々の出来栄え。なにしろ、思い出はいっぱいいっぱい詰まっている大切な1枚である。

もうひとつの2月23日、それは亡き父の誕生日でもある。
1899(明治32)年2月23日生まれ。生きていれば113歳という計算になる。
ついつい忘れがちな父親の誕生日だが、富士山の日と覚えれば意外にいつまでも忘れないのかな。それにしても、西暦を忘れて和歴だけで言えば、明治32年2月23日。つまり2と3で全てがまかなえるみやすい組み合わせではある。

富士山の日に合わせてたまたま親父を思い出すとは。普段如何に親父の思い出が薄らいでいるのかよくわかる。母親はまだまだ印象が強いのに。許せオヤジどの。

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「伴走」

2012年01月13日 | 思い出話

        

お正月はこれを見なければ始まらないという多くのファンがいる箱根駅伝。
正式には、東京箱根間往復大学駅伝競走というこの大会。他のスポーツと同じように、この大会を通り越すことで、実業団で名を馳せたり、個人のマラソン選手などが輩出されたりする。

1月22日には、あの平清盛ゆかりの宮島を横目に見ながら、安芸路をひた走る天皇杯争奪全日本男子駅伝が予定されている。47都道府県の名誉をかけたタスキをつなぐチームワークのレース。寒風吹きすさぶ中をひた走る選手に精一杯の声援を贈りたくなる。

あれから56年。
我が通う中学校の名誉を賭けて、市内一周駅伝に参加、タスキをつなぐ一員になるはずであった。ところが思惑とは外れるためにあるようだ、私にとっては。

普段の練習は、タイムはもちろんであるが、スタミナと馬力が重視される。そして本戦が近づくと各区間ごと二人で2回試走する。早い方が選手になり、遅い方は伴走者になる。
何を勘違いしたか自分は選手になれたと思い込む結果だったように思う。
最終的には、選手の真横を「ワッショイ!ワッショイ!!・・・」と掛け声をかけながら選手を鼓舞、ひたすら自転車をこぐ伴奏者であった。

いわゆる補欠。選手にことあるときは直ちに代役を務められる位置にある・・・などと妙な納得をして、本番を待つ。そう簡単には故障者など出はしない。
結局タスキをこの汗で濡らすことなく、声をからしてワッショイワッシィに終わった青春の駅伝レース。

但し、練習の長さは変わらないかそれ以上に走ったと思う。タイムだってそれほど違うわけではない。紙一重でも選手と伴奏者に分けられる駅伝競争。スポーツの世界はいずくも同じか。ただそうした練習に耐えてきたことは間違いない。今でもちょっとだけ複雑な思いで眺める駅伝競走ではある。

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「足跡を追って・・・」

2011年10月12日 | 思い出話

          

NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」
出だしは、如何にも漫画チックで、太閤秀吉とはこれほどの悪人か・・・?と思わせた。
ところが徐々に歴史のまことしやかな物語に触れるようになった今、昨年の「龍馬伝」同様、興味を抱いて見ている。

好みは様々であろうが、yattaro-としては、やはり坂本龍馬に勝る歴史物語は見当たらない。それほど思い入れは強く、どんなエピソードも耳に入れたくなる。

大活躍の舞台であり、終焉の舞台ともなった京都。あちこちに残された龍馬の足跡を追っかけてみたい衝動に駆られたのは1年前。
まるで千年の古都で千年の恋人に会えるような、足が地に着かない思いで、龍馬の匂いを集めるように、あちこちを散策した。

兎に角京の街を歩けば、全てが記憶にある歴史物語に出会う楽しみがある。親鸞聖人ゆかりの地しかり。幕末を揺るがせた鴨の河原や高瀬川。
三条小橋の池田屋、中でも伏見の寺田屋とくれば、龍馬ファンならずとも時間をかけて立ち止まってみたくなる、表に出てこない奥行きのある魅力を感じさせる。

そんな思いから1年。今夜は十六夜の見事なまん丸お月さまが輝いている。
昨年もこのように月は照っていたのだろうが、格別気にも留めなかったような。
これから本格的な冬支度に入る晩秋の日本。地球の裏側では夏に向かおうとしているお国もある。ただこの素敵な月は、地上の全てを照らし出しているのだろう。

こんなことを考えるのはやはり秋という季節のせいなのか。まあそういうことにしておこう。

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「やっぱり9月15日は」

2011年09月15日 | 思い出話

     
         敬老の日は9月15日が覚えやすくていいね。

敬老の日と言えば9月15日。長い間なれ親しんできた日である。
亡くなって2年9カ月になる母を、確実に思い出させる日でもある。
生前は、正月やお盆以外に年2回は必ず、姉弟や孫たちが集まって、ささやかだったり派手に騒いだりして、母を中心に輪ができたものだ。
一つは4月1日の誕生祝い。お花見には少し早いが、桜なしの花見を何度もやってきた。今一つが9月15日、敬老の日である。

年老いてからは、本人は静かに笑って見ているだけという宴会が多かったが 「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」という趣旨を忘れはしなかった。
今から9年前の祝日法改正で、ハッピーマンデー採用の結果9月の第3月曜日が敬老の日となって、有難味が薄れた感がある。
そのときの法改正に大反対したお年寄りパワーに屈する形で、「9月15日を老人の日」という、あまり名誉ではない呼び方に落ち着いてしまった。
そしてその後の1週間を老人週間として現在にいたっている。

敬老の日が来ても、特にお祝いをするでもなくなった。白寿を迎えた叔母が元気でいてくれるのが唯一のお祝いだが、これとて従兄弟が主役を相務める。
などと考えているうちに自分が祝ってもらう立場になりつつあることをコロッと忘れるところだった。いやいやまだ敬老祝いは早すぎる。
せめて誕生祝いを派手にやって欲しいものだ。などと、段々わがままを考え始めること自体が、敬老祝いの主役に近づきつつあるということかな・・・。

な~~んの、まだまだ!!
自覚が足りないと思われようと思われまいと、これからもうひと花・・・。そんなわけないか。

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「あの頃も暑かった」

2011年08月19日 | 思い出話

      

本箱の奥から引っ張り出した古語辞典で調べものをした。焦げ茶色に変色したカバー。手垢のしみこんだページ。なんと高校時代に使っていたものだ。
昭和28年4月第一版発行とある年代物。タテ14.5、ヨコ10.5、厚さ約2センチ。3万6千語収録。定価480円とある。当時としては結構高い買い物だったのだろう。

「古典の言葉を漏れなく載せた、簡明な手ごろの辞典が計画されたのは、戦争の終った直後のことだった・・・以下略」と監修者金田一京助さんが序文で述べておられる。
時代は大きく変わったが、古語の世界は全く変わらず、この一冊でたいていの言葉を解釈できる。古語辞典の寿命は長い。

開いてみて驚いたのは、紙の薄さである。 髪の毛の話ではない。
暑さ2センチで1136ページ。ということは、単純計算でも35~40ミクロンという超薄紙を抄造していたことになる。しかも不透明性も抜群。
しかも半世紀以上経た今も、紙そのものは大きく変色もない。

こんな技術を思う時、ふと若いころを思い出す。
酸性抄造から中性抄造への転換期、辞典用紙という特別仕様の紙に、わずかなオレンジ色を着ける新製品開発という命題に取り組んだ。
来る日も来る日も、染料をとっかえひっかえ、足したり引いたり、片面の印字が裏側に抜けない工夫も同時進行。燃えに燃えていたあのころが懐かしい。

辞典用紙はそれまでに開発された技術が優先されたと記憶しているが、文庫本の目に優しいクリーム色は、あの当時開発した紙の色が今でもそのまま生きている。文庫本発行元によって、微妙な色合いの違いは今でもこの目で分る。
だからというわけでもないが、今なお文庫本にはなんとなく愛おしさを憶える。
ビーカースケールに情熱を燃やしたあの頃も、今年の夏のように暑かった。

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「1975年」

2011年06月13日 | 思い出話

       

1975年、昭和50年10月15日。
忘れもしない、広島カープ悲願の初優勝を成し遂げた年である。
「エッ? カープって優勝したことあるの・・・?」などとおっしゃいますなよ。

エース・外木場義郎、20勝。エース・池谷公二郎、18勝。そして今夜の主役、三人目のエース・佐伯和司、15勝。
3人合わせただけで53勝。優勝して当然といえば当然の投手成績である。
首位打者・山本浩二。鉄人・衣笠祥雄。リーグを代表するスラッガー二人。
やはり、勝つには勝つだけの役者が揃っていた。

それに比べて・・・おっとっと、今のカープの話などするつもりはない。
話したいのは、カープ初優勝当時の3人目のエース佐伯和司投手。
今年59歳になったという。その彼が、数々の華々しい活躍の面影を大切にしながらも、今、岩国市の片田舎にある硬式少年野球チームの監督に就任したという。

プロ・アマの積年の確執がようやく溶けて、身の振り方が自由になった元プロ野球選手。色んなところで色んな形の指導者になっている。
佐伯和司氏もその一人。指導理念は「勝敗より人間教育重視」。
そして指導の基本は、プロの世界で監督達が教えた「やってみせて、言って聞かせて、させてみて、褒める。これが一番」と。

確かにどこかで聞いたセリフだが、若い人や子どもを指導する基本は、どこまで行っても変わりはないと言うことなのだろう。
現役時代は、ビッグマウスというあだ名の通り、厳しい言動もあった。それらを反省しながらの今回の少年野球指導である。言葉だけでなく、人間教育を実践して欲しいものだ。勝つことも大切だが、負けることも教えるべきである。負けの中から次に負けないために学ぶことは決して少なくないと思っている。

その昔も必死に応援したが、今回もやはり応援したくなる。
フレーフレー!佐伯!! フレーフレー!教え子!!

  ( 写真 : 文とは全く関係ない、少年ソフトボール大会in岩国 )

 

 

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「歌でつなごう」

2011年05月04日 | 思い出話

        

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♪♪ しらかば 青ぞ~ら 南風 こぶし咲くあの丘 北国の ・・・ ・・・♪
今日も熱唱する歌手・千昌夫の映像が流れる。

原型をとどめないほど、震災・大津波の被害を受けた岩手県陸前高田市の出身。
「歌でつなごう」を合い言葉に、多くの仲間と一緒に東日本大震災で被災された多くの人々に、勇気と、元気を出してもらいたいと涙ながらに歌っていた。

「これじゃいけない、自分たちが落ち込んで歌っていたら、聞く人に元気など与えられない・・・」と思い直して、今では勤めて明るく楽しそうに歌うことを心がけているという。
その代表的な歌があの「北国の春」である。
1977年4月5日発売というから相当古い歌である。

にもかかわらず、興が乗るとつい思いっきり声張り上げて歌いたくなる一曲である。
遠い遠い昔の出来事。生涯忘れ得ない思い出が秘められている歌でもある。

カミサンの伯父さん夫婦がハワイに住んでいた。
元気なうちに遊びに行こうと思い立ったのが26年前。初めての海外旅行だった。
滞在期間中に、伯父さんの友達が社長職を退き息子に譲る「リタイヤ・パテ」なるものがあった。誘われるまま行ってみると、ホノルルインターナショナルカントリークラブという超一流の会場で催される勇退記念パーティであった。

日本から来たスペシャルゲストということで、一番前の特等席に座らされた。ステージでは素敵なハワイアンバンドに乗って優雅なフラダンスが幾組も披露される。
そのうち、日本で言う余興の時間になった。何は置いてもスペシャルゲストを迎えよう・・・と大きな拍手に押され、ステージに上げられた。首にはレイを掛けられる。

「何かをやってくれ」と沖縄出身の司会者がいう。日本語しか出来ない人間がステージで何をしよう??そうだ旅の恥はかき捨て、歌ってやれと開き直った。
三曲くらいタイトルを言った中で最も反応があったのが「北国の春」であった。思いっきり歌ったね~。途中からウクレレとベースが伴奏を付けてくれた。
歌はまずくともヤンヤの喝采を浴びた。千昌夫の気分を瞬間味わった。

あの頃から、北国の春という歌は世界を駆けめぐった歌だった。
「北国の春」に救われた思い出を抱いている。
今こそ、日本を・世界を歌でつないで、みんなに元気になってもらいたいものだ。

( 写真:臆面もなく日系一世・二世の前で演歌を披露する、若き日のyattaro-)

 

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「遠い記憶が」

2011年04月14日 | 思い出話

     

大東亜戦争が始まって9ヶ月を過ぎた昭和17年8月27日。
山口県を襲った周防灘台風によって、私達が住んでいた集落の瀬戸内海に面した堤防が決壊した。

吉川家歴代の藩主によって干拓された田んぼや畑は、一面の泥海と化し、農地近くに家を持っておられた23人の尊い命は奪われ、家屋や田畑は無惨に流失した。

不幸中の幸いで、海岸から離れていた我が家は家ごと飲み込まれることはなかった。但し、水に浸かった赤土の壁は70センチの高さで剥がれ落ちたまま長く放置された。6歳になった頃ようやく修理されるまで、塀ごまいと呼ばれる竹の骨組みが露出し、水害の恐怖がそのまま目に見える形で残されていた。

水害当時は生後7ヶ月だった私には恐怖の記憶など残ってはいないが、今思えば乳飲み子を抱えてどのように非難したのだろうと改めて思う。
生き延びさせてくれた両親に感謝を忘れてはいない。

戦争によって、日々物資の不足、食べ物の不足などで、水害の修理をする余裕もないまま敗戦を迎えたと聞いた記憶がある。
戦争と水害の二重苦。並大抵ではなかっただろう。

今回の東日本大震災という未曾有の災害は、原子力発電所の津波被害も重なって一層深刻になった。
69年前の戦争と水害という二重苦よりも遙かに深刻で
悲惨な状態だと思う。
しかし、日本人は立ち直ってきた。敗戦後の混乱や貧乏のどん底からも復興してきた。

『がんばろう日本!』を合い言葉に、今、国内はもとより、世界中が支援の手を差し伸べている。
もう一度立ち上がろう。手を携えて復興しよう。日本人の底力を見せつけよう。

遠い遠い昔の記憶がふと蘇り、今の日本と重なった。

 ( 写真 : 浜明神の横に建つ、風水害記念碑 )

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