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「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「ひな壇」

2011年03月03日 | 思い出話

          

寒い寒い、震え上がるような雛祭り。
春を呼ぶ雨どころか、雪を連れてくる寒さの弥生三日。

階段下収納を占拠している、娘の置きみやげの雛飾り。出そうか出すまいか・・・。
迷った挙げ句今年は出さずにおいた。ということはお雛祭りにもならなかったということ。
もし飾ってやったら、大きい孫兄ちゃん達はもう慣れているだろうが、おチビ君は触りたくて引っ張りたくて大変だったに違いなかろう。が、喜ぶ顔を見るのは来年回しにした。

お雛祭りのたびに、お内裏様がどちらで、お雛様がどっちか、迷ったり悩んだりする。結局は関東と関西の物の考え方で、あっちであったりこっちであったりするようだ。

その昔の若かりし一時期、精魂傾けた婚礼司会を思い出した。いっぱしの玄人気取りで、新郎新婦の席を「ひな壇」と呼んでいた。正式には「高砂の席」「メインテーブル」など。
山口県・広島県では確実にお内裏様、すなわち新郎さんが、お客の側から見て左側。お雛様つまり新婦さんが右側と決まっていた。要するに、新郎の左に新婦という図式である。

その前ののテーブル配置も、真ん中が「松」で両家の主賓クラスの席。
新郎側が「竹」で、新郎の親しい友人。新婦側が「梅」で新婦の友人。これで松竹梅と揃う目出度い席順が埋まる。
この竹と梅の席が元気な披露宴は、司会は気楽に進められる。三枚目がいてくれるから。

逆にその二つが静かな場合、親族の賑やかなテーブルに目星をつけておく。さらにテーブルがダメなら個人のやんちゃを見つけておく。この目配りが司会の腕の見せ所でもある。
長くなりそうだ、今日はこの辺で・・・。この手の話しだけで2ヶ月はネタが続きそう。

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「38回目の・・・」

2010年08月14日 | 思い出話
1899年(明治32年)生まれの父。1973年(昭和48年)74歳の生涯であった。
身体は決して大きくなかったが生来の負けず嫌い。腕力は他に引けをとらなかったと言う。
若き日の栄光が今も我が家の床の間に、静かに飾られている。父の匂いのする宝物である。

明治の終わりから大正、昭和の初め頃。大衆が喜ぶ芸能などというのが、特にこんな田舎ではお目にかかることは少なかった。
そこへ登場するのが、神社の縁日や何かにつけての神事で、奉納相撲が行われた。

そういった意味では、元々相撲というのは神様に奉納する一種の芸能であったと聞く。神社を守る村人のお祭りであり、の力自慢を土俵に上げて、お互いがひいきを応援することで盛り上がる。
神社によっては、賞品や景品が派手で、中には賞金も弾まれる。

民衆の数少ない楽しみのなかで、力士はともするとスター扱いを受けたこともあるとか・・・。小兵ながら大技を繰り出す「ヨシイサミ」というしこ名は結構モテたとか。

由宇町の由緒ある大将軍山のいただきにある霧峰神社。昔から大変相撲が盛んなお祭りで、近郊のセミプロ関取が、名誉と半ば賞金目当てに集まる。その大会で持って帰った「奉寄進霧峰神社相撲大関」(1925年・大正14年)という御幣のお化けのような梵天(写真)が床の間に鎮座まします。170cmはある。
父そのとき26歳。脂の乗り切った頃か。もう一つの小ぶりな梵天は、18歳の折、市内の近くの神社景品のようだ。地方相撲には横綱という地位はなく、大関が最高位であったことを、父の名誉のためにあえて一言。

それから、帝国海軍、下士官で世界を巡る遠洋航海。各地で戦勝国日本の大歓迎を受けたのが自慢話の一つだった。
たまねぎのことをオニヨン、トマトをトメートと言っていたのを子供心に覚えている。

色んな思い出の中にある父の姿。今日38回目の命日とお盆を迎えて、燦然と輝く父のいいところだけを、心穏やかに思い出してまとめてみた。合掌。

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「夏はやっぱり盆踊り」

2010年08月02日 | 思い出話
あつうてあつうてたまりませんな~・・・がご挨拶。いよいよ夏本番の8月!
広島・長崎原爆の日に続いて、終戦記念日を迎える8月!
愚かな戦争の悲劇を思い起こし、復興に燃えたエネルギッシュな日々を振り返る8月!

色んな思いの交錯する8月で真っ先に頭に浮かぶのが「慰霊」の二文字である。
二十歳前後の若かりし頃、各地域では青年団の盆踊りの夕べが盛んであった。
「戦没者慰霊盆踊り大会」という冠のついた、真夏8月の恒例行事であった。

私の生まれ育った地区の青年団活動は結構活発であった。そんな伝統を絶やしてはならないと、必死になった時代をふと思い出した。
全員が揃いの浴衣をあつらえ盆踊りそのものも、その道の講師を招いて色々工夫する努力もした。単に「手踊り」だけでなく、日本手ぬぐいを駆使する「手ぬぐい踊り」「うちわ踊り」男女ひと組になる「ペア踊り」などなど、色んなバリーションで大きな反響を呼んだ。

いつしかあっちこっちから招待の声が掛かり始める。クルマなど全くない時代。女性を後ろに乗せて自転車で移動。一晩に3会場廻ったこともある。
もちろん全員独身。今日は誰が乗ってくれるのだろう・・・ちょっと楽しみに。
そんな経験をするうちに、今の錦帯橋花火大会の前身「近県盆踊り芸能大会」というとてつもない大舞台を踏むチャンスに恵まれた。頂いた優勝旗に「第十一回近県盆踊芸能大会」と記されている。半世紀近い昔の話である。その当時の天然色写真は貴重品である。
             

一方白黒の一枚は、天然色写真の2年くらい前。地元の盆踊り記念写真。
こんな写真を見ていると、暑い夏はやはり慰霊の盆踊りをつい思い出す。
忌まわしい戦没者慰霊などという言葉が死語となるような、平和な世の中を目指さなければ・・・。
それにしても最近は、この一年間に亡くなられた方々の慰霊盆踊りさえ滅多に見かけなくなったな~。

  (写真はもう少し鮮明に残されているが、敢えて少しぼやけさせていただいた)
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「夏、甲子園」

2010年07月30日 | 思い出話
夏と言えばご当地チームの応援で熱くなる高校野球甲子園大会。
本来ならここではプロ野球の話をしたいところだが・・ やめた。
プロ野球の話などしたくもないからだ。

3月末の開幕以来7連敗。これでペナントレースから脱落。
34勝50敗借金16で前半戦終了。さて後半は?? 少しは根性見せるのか・・・??
後半スタート4連敗借金20。どうやって応援せーというの??
・・・などと愚痴を並べるようでは本当のファンとは言わないのだろう。それにしても少しは愛嬌があってもよさそうなものを、愛想もこそもなくただやられっぱなしに負け続ける。

それでも、いつかは・・・きっといつかは・・・と応援し続けるのが本当の「ひいき」「ファン」といえるのだろう。

オット・・・プロ野球カープの話などしているヒマはないのだ。今夜の話題は高校野球だった。

小生の高校時代、我が校には野球部がまだなかった。卒業して7年目頃に創部した。
そんなある時、学園理事長と膝を交えて話すチャンスを得た。
世間知らず、向こう意気だけが取り柄の血気に逸る若手同窓会役員の小生。

「理事長、なんとか高校野球でも強くして学校の名を世間に知らしめてください」「それが私学の生きる道・・・」みたいなことを、口角泡を飛ばしてぶつけた。

ひたすら学校を愛し、学校は勉学するところ、有名になるのが狙いではない、そのうち教育方針の充実によって、成績向上で人の羨む学校にすることが自分の使命だ。と述べられたと思う。現在の母校が必ずしもそうではないにしても、学校の本質とは、あのとき先代理事長の言われたのが正論である。と、高校野球の季節を迎えるたび赤面の思いがよみがえる。血気に逸った若気を反省する季節でもある。

      ( 某県大会の優勝にわく一コマ、ネット拝借 )


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「スタートライン」

2010年04月08日 | 思い出話
         
近くに住む甥が大学受験を迎えた。
彼なりに精一杯努力する姿を間近に見てきただけに、応援する方も力が入る。
合格したらお祝いは何にしようなどと考えていた。

ところが残念、桜は咲かなかった。それでも彼は初志貫徹、志望大学を目指して浪人することを決めた。
こんな場合、叔父としてどのような慰めを、またどのような激励の言葉を贈るのだろうか。聞く耳を持ってくれるのだろうか、気を揉んでいた。

そんな折り、私の勤めていた岩国工場が機関誌に掲載する随筆を募集した。
これ幸い、つたないながらも一筆書いて、機関誌の活字を通して激励文を贈ることを思いついた。
「人生模様に色付けする絵筆を握るのはまだまだ先の話。焦るなよ…」といったようなことを書いたと思う。

あれから33年。彼は初志を貫き今を築き上げ、高校生と中学生の親となった。
彼なりの人生に確かな彩りを添える絵筆を握っている最中である。

彼の受験をきっかけに、はからずも随筆に挑戦することを決めた私は、その時以来定年を迎えて8年になる今も、趣味のひとつとしてペンを握り続けている。
くじけそうな気持ちを自ら立て直した彼。書くことで新たな生き方を見つけた私。
あのときが二人にとって、もう一つの出発点になったようだ。
         
満開を誇った桜も、少しずつ青い芽を吹き始めた。
今年の花を散らし、早くも来年のつぼみをつける準備に入ったのだろうか。

新学期を迎えた孫二人。4年生と2年生、それぞれクラス替えがあり、淋しかったり嬉しかったり。
兄ちゃんは、20数年前私のセガレが教わった先生が担任という偶然があった。
その頃はPTAバリバリの現役であった。今度はジジとして相まみえる不思議を感じている。
弟カー君は、新任の女先生で、まだ名前がよく分からないと言う。
そんなこんなで、二人も新たなスタートラインに立った。

   ( 写真 : 満開の花影で早くも青い芽を吹き始めた桜 新学期の兄弟 )
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「何てったって ・ ・年」

2009年10月16日 | 思い出話
今年もやってきた10月16日。
格別なにがどう…ということもないような、でも何となく気持ちが改まるようなこの日ではある。

昨年までは、病気入院中だとはいえ、母を交えた3人家族で迎えたこの日。
今年は完全に二人っきりになった。なんか違う。なにが違う?よく分からないが、何かどこかちょっと違う。

母がいなくなってお互い、頼るも頼られるも、守るも守られるも相手はたった一人しかいなくなった…と感じているからなのだろうか。

史上初の英語辞典を編纂したサミュエル・ジョンソン氏によると、「ハネムーン」の定義は、“優しさと喜び以外には何もない結婚最初の1ヶ月”ということらしい。あれから38年の歩み。

長かったか…?と聞かれれば、長かったと答えるのだろう。短かったか…?と聞かれれば、あっという間だったような気がする、と答えるであろう。
そのように、極めて曖昧な気持ちでありながら、どうにも表現しにくい感謝の気持ちが湧き上がってくるのも確かなのである。

但し、それを言葉や態度で表現しなさい…と言われると、ウーン…と引いてしまう。「わかっとるじゃやろ…」と。
でもね、これから先の方がこれまでより短いこともよーく分かっている。
手遅れにならないうちに、少し方向転換してみようか…。 すでに手遅れなのかも…。

一体なにをどうしたらいいのか…途方に暮れる。そうか、道に迷ったら元の所まで後戻りだ。
そして、ただひたすら健康に留意し、大きな心配をかけないように、日々呑気に暮らすことか…と開き直ろう。 これからもひとつよろしゅう…たのんますよ。
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「秋空に向かって」

2009年09月16日 | 思い出話
  ♪♪ 空に向かって上げた手に 
            若さがいっぱい飛んでいた
                青春広場で 肩組み合って……♪♪

遠い遠い去りにし青春をふと思い出させるように、秋空に向かって奔放に伸びるススキの穂が目に入った。
ススキの穂といえば、「ユウレイの 正体見たり 枯れ尾花」で代表されるように、煌々と冴える秋の月が雲間に隠れ一瞬の闇夜となる。そこへ一陣の風が吹く。ススキの穂がユラユラ揺れる。遠目に見れば間違いなくドキッとする…。「キャーッ…あれはナニ??」とすがりつく柔らかな手をそ~っと押しやり、「ススキじゃろ…」っと渇いた喉を悟られないようにささやく…。

こんな経験を一度はしてみたかったな~…。とうとうそんな場面にも恵まれず現在に至り、今では風が吹こうが揺れようが、ユウレイなどと思いもしなくなった。

ススキは一応花なのだ。それも秋の七草の代表格でもある。
遠い昔には茅葺き屋根の材料とされたため、村落には必ず茅場といわれるススキやヨシなどの群落を維持した空間があったものだが、今ではすっかり陰を潜めた。

海や川の土手の傾斜に束になって生えていたのを思い出す。子供の頃葉っぱに触っただけで指の先が切れて血が噴き出すこともしばしば。成長して、学校帰りに二組・三組のカップルが土手の茅の群生を頼りに散歩コースに使っていたとかいなかったとか…。

何故かススキの話になると、自分にはなかった艶っぽい遠い昔が思い出される。秋という季節に最盛期を迎えるもの悲しさを秘めた花だからなのか。やっぱり秋は罪作りのような……。

        ( 写真: まるで両手を広げたように秋の空に向かって伸びるススキ。)
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「半世紀前の暑い夏」

2009年07月31日 | 思い出話
高校野球山口県大会。地元岩国商業高校は惜しくも決勝戦で、甲子園の夢を絶たれた。応援したのだが…。
汗と泥にまみれ、鬼の形相で白球を追う彼らを見ていると、かたちこそまるで異なるが、ちょうど半世紀・50年前の熱い夏を過ごした自分の姿と重なる。そして、何かしら釈然としない思いが、今も鼻の奥の方に残っている気がする。

高校3年の夏休み。大げさに言えば、人生最後の長期休暇…などと思って遊び呆けていたんだったかな…。
7月終わり、担任の先生から呼び出しを受けた。クラスで3人の男子が顔を揃えた。「M君は○○証券・K君は○○重工・Y君は県内の○○銀行へ就職試験の推薦が決まった。今年初めての大企業推薦だから、後に続く者の手本になるよう準備をしなさい…」と告げられた。天にも登る心地!!

「エッ、オレが銀行マン??」一気に夢は広がり、夢想空想に明け暮れた。唯一兄が、「銀行マンはただのお酒は絶対に飲むな、たとえ一滴たりとも自分のお金で飲め……」と諭された。「まだ決まったわけでもないのに…」と思いながら、お金を扱う仕事の側面をかいま覗いた感じ。

大勢いる中で運良く一次試験合格、これは意外といえば意外な出来事であった。二次試験面接。こちらは、一次試験より得意な分野。兄から譲り受けた、よく目立つ“GoingMyWay”と書かれたバックルのベルトで臨んだ。案の定、「それは君の気持ちか…」などベルトに関する話。とうとうと答えた。

二次試験合格、次が厄介な身元調査。貧乏にあえぐ家庭、近所の評判もバツグンではない。最後に我が家にやってきた。尾頭付きのお刺身・おふくろ自慢の岩国寿司・レンコン料理などなど、たらふく召し上がって頂いた。「ヨーシッ、感触OK」と、ついつい思いたくなるのが人情というもの。

ところが、岩国支店採用はたった1人だけ。残ったのは2人、相手は某生命保険岩国支店長のセガレ。そこで勝敗は決まった。賠償能力・資産価値の相違は明らか。半ば納得の敗戦承認。ところがその時はすでに秋半ば。大企業・優良企業の就職試験はほとんど終わっていた。「君は銀行に決まりと思っていたからねー」などと就職担当の先生から慰められたが、後の祭り。

残っている中小企業の推薦を受け直し。なんとか胸を張って卒業はしたものの、ちょっとねー。3年あまりがんばってはみたが、同じ汗を流すのなら「寄らば大樹の陰」方向転換を自ら選んだ。 

色んな思いが交錯する7月の終わり。遠い昔の出来事ながら、暑い夏になると、ついきのうのことのように思い出す。熱い熱い夏、青春の1ページ。 こんなこと・あんなことがあって今がある。

書きたいことは山ほどある。全て詮無きこと。

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「おぼろ月夜」

2009年03月18日 | 思い出話
   ♪♪ 菜の花ばたけに いり日うすれ 
           みわたす山のは かすみふかし 
        春風そよふく 空を見れば 
            ゆうづきかかりて においあわし ♪♪

小学3年生のとき、いつものように友達と日の暮れを目指して小学校の校庭で遊んでいた。
先生が呼びに来られて、沖永君とふたり講堂に連れて行かれ保護会全体集会の前に立たされたた。
演台の上に大きな箱が置いてある。直径20㎝もある輪っかが二つ並び、映画のフィルムのようなものが巻き付いている。大勢の大人が一様にこちらを見ている。

なんじゃろーとよく見ても、初めて見る機械でよくわからない。そのうち「これからこの二人に歌を歌わせます」といきなり。逃げ出す間もなく、ピアノ伴奏で「おぼろ月夜」が流れ始めた。歌うしかない。大きな声で二度も歌った。「では…皆さんにもう一度今の歌声を聴いて頂きましょう…」そしたら、今ふたりで歌った歌声がその箱から講堂に響く。

これが、その時初めて小学校に配置された「録音機」だったのである。歌った本人が自分の声を聞いて驚いた。当時はまだ小節も利いていなかったし、節回しも今一だったようだ。今だったらなー…、おぼろ月夜でなくてリクエストにお応え出来たのに…。但し声質は今より数段よかったようだ。

あれから半世紀あまり。電気器具でこれほどの進化を遂げたのも珍しいといわれるテープレコーダー。小学生には一人で持ち上げられないほど、大きく重かった。今や、手のひらはおろか、ペンタイプまで小型化・高性能化している。人間の英知の進歩はそれこそ目をみはるものがある。

そこへ行くと、我が人生の進歩は如何ばかりか…。逆に、その当時のきれいな歌声?と共に、失っていったものは数知れない。残ったものもある。「感情にまかせて、人の温かさまで見失う愚かしさ・自分本意この上ない我が儘……」 それと幸い命が残っている。大いなる反省の上に立って、おぼろ月夜のように、自分の感情を少しでもかすめさせるよう気を付けたい。 菜の花が咲く頃になると、遠い昔を思い出す……。

         ( 写真: 小川のせせらぎによく似合う菜の花 )
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「百獣の王」

2009年01月30日 | 思い出話
子供の頃に聞かされた話で、今でも脳裏に焼き付いていて、多くの行動基準の基礎となっている言葉がいくつかある。 明治32年生まれ、帝国海軍下士官として遠洋航海と称する、世界の国々を自分の目で確かめてきた父親が、あれこれ自らの体験や独断と偏見をも構わず、言ってきかせくれたのを時々思い出す。

その中の一つにトラとライオンの話がある。
トラの、黄色または黄褐色の全身に黒い横縞のある艶姿、大きな丸い顔、大きな牙…誰が見ても、百獣の王にふさわしい風格と気品を備えている。 であるのに、王様にはなれない。百獣の王はライオンということになっているがそれは何故か。

ライオンは、お腹が減っていない時は、目の前を格好の餌食となる動物が横切っても見向きもしない。しかし、ひとたび空腹になって狩りをするときは、用意周到に自分より図体の大きな動物を襲う。よほどの狩りの不調で生きるか死ぬかの状態でないと、小さな動物は襲わない。と言う。

一方、トラは、空腹だろうが満腹だろうが、目に入る獲物があれば、大小構わず襲いかかる。狩りの方法も、あのかっこいい風格とはかけ離れて、品がない。だからトラは百獣の王にはなれない。 そんな話を幾度も聞かされた。本当かどうかは定かではないが、このように、食に卑しさを見せることは慎め。「武士は食わねど高楊枝」で泰然と構えなさい…と言いたかったのだろう。

一方で、勝負の世界で情けは無用。ここ一番勝たなければならない局面に立ったら、何が何でも勝ちに行け、その時は、たとえルールに反することがあったとしても、勝ったら評価される。負けたらそこでおしまい。だから勝て…と。

さすが、世界を震撼させた帝国海軍の一員らしい発想ではある。そんな遺志を受け継がなかったのは親不孝だったのかも知れない。そうは言いながらも、何かの重大局面に出くわしたときの判断基準に、この時の父親の言葉を思い出す。
品格という言葉の原点を教えようとしていたのではないか……と。
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