笠原水道・龍の道ウォーキング@水戸マニアの会外伝

上水道としては日本国内で18番目に古いと言われる笠原水道。
明治時代までは使われていたらしい。
水源池には神社や碑もあり、何度か訪れてはいるが途中はどのような経路なのか、まるで分らなかった。
水戸マニアの会が主催する「笠原水道・龍の道ウォーキング」が1月22日(日)に開催されることを知り申し込んだところ定員30名、ギリギリで参加出来することが出来た。

午前9時半、笠原水源も守り神「水戸神社」の階段下から出発。
「龍頭栓」下市地区で使用されていたものを移築して設置。

中央は井戸と水のプロ西原さん。左は会長の 山口晃平さん。
NHKの取材が有りましたが、稀勢の里の優勝で、翌日の県域放送で紹介されました。

彰考館総裁を務めた藤田幽谷撰文の「浴徳泉記」の碑。
文政9年(1826)5月建立。
地質学のプロ西原さんと茨大の天野先生のすばらしい解説。

逆川沿い崖線に敷設された岩樋を辿りながら。

大正時代の地図。建設時と変わらない。

現在の地図。駅南開発などで崖を崩し湿地を埋め立てたのでかなり変わった。

出土した岩樋の前で西原昇治さんの説明。
岩樋は通水路と思っていたが、崖から湧き出た地下水を集めながら流す構造。
従って、完全にふさがれていない。
切り出した水成岩の大きさは約30キロ、人が運べる重さ。30㎝×60㎝位、厚さは10㎝位か。
切り出した穴が、常磐線の線路際に残されているが、そこから船で運び出したのであろう。
穴の深さは数十mに達するらしい。
今では、その穴に天然記念物の「光り藻」が繁殖している。
別な場所に設置された模造品は石質や形状がまるで異なるものとか。
早急に撤去して本物を展示すべきだろう。

笠原水道の素晴らしいところは僅かな高低差なのに、「水戸層」と呼ばれる地層に沿って地下水が流れ、湧き出す。其の湧水を集めて供給している点だ。


地層が顕われている場所で、茨大の天野先生と西原さんの説明。
水戸の台地は12万年前に出来た。2万年前頃に現在の地形に。
6千年前の縄文海進の際の水位は今より6m位高かった。
(この年代については記憶で、不確実ゆえに後日訂正します)
豊富な湧水を確認できる場所は何か所も在った。

ここは民家の裏、きれいな水を利用し山葵とクレソンを栽培。
藤柄町を通って今回の一応の終点・備前堀の「魂銷橋」に。
ここから下市地区5千人に水が供給された。
この後「武隈市民センター」に移動し水源の水を使用した「焼鳥バッパ」特製の豚汁を賞味。
天気にも恵まれ、素晴らしい講師の話を実証しながらの「龍の道ウォーキング」
素晴らしい一日に感謝です。
●笠原水道
2代藩主徳川光圀は藩主就任直後の寛文2年(1663)町奉行望月恒隆に下市の水不足に対処するための水道設置を命じた。
調査に当たった平賀保秀は笠原を水源地に選び、工事は永田勘衛門が担当した。笠原から逆川に沿い藤柄町まで岩樋を用いた暗渠を作り、備前堀を銅樋で渡して市街に入り、細谷まで全長約10kmの水道が翌年完成した。
*工期約1年は驚異的な速さらしい。工区を分割して一斉に進行したのであろうと云う西原さんの見解。

上水道としては日本国内で18番目に古いと言われる笠原水道。
明治時代までは使われていたらしい。
水源池には神社や碑もあり、何度か訪れてはいるが途中はどのような経路なのか、まるで分らなかった。
水戸マニアの会が主催する「笠原水道・龍の道ウォーキング」が1月22日(日)に開催されることを知り申し込んだところ定員30名、ギリギリで参加出来することが出来た。

午前9時半、笠原水源も守り神「水戸神社」の階段下から出発。
「龍頭栓」下市地区で使用されていたものを移築して設置。

中央は井戸と水のプロ西原さん。左は会長の 山口晃平さん。
NHKの取材が有りましたが、稀勢の里の優勝で、翌日の県域放送で紹介されました。

彰考館総裁を務めた藤田幽谷撰文の「浴徳泉記」の碑。
文政9年(1826)5月建立。
地質学のプロ西原さんと茨大の天野先生のすばらしい解説。

逆川沿い崖線に敷設された岩樋を辿りながら。

大正時代の地図。建設時と変わらない。

現在の地図。駅南開発などで崖を崩し湿地を埋め立てたのでかなり変わった。

出土した岩樋の前で西原昇治さんの説明。
岩樋は通水路と思っていたが、崖から湧き出た地下水を集めながら流す構造。
従って、完全にふさがれていない。
切り出した水成岩の大きさは約30キロ、人が運べる重さ。30㎝×60㎝位、厚さは10㎝位か。
切り出した穴が、常磐線の線路際に残されているが、そこから船で運び出したのであろう。
穴の深さは数十mに達するらしい。
今では、その穴に天然記念物の「光り藻」が繁殖している。
別な場所に設置された模造品は石質や形状がまるで異なるものとか。
早急に撤去して本物を展示すべきだろう。

笠原水道の素晴らしいところは僅かな高低差なのに、「水戸層」と呼ばれる地層に沿って地下水が流れ、湧き出す。其の湧水を集めて供給している点だ。


地層が顕われている場所で、茨大の天野先生と西原さんの説明。
水戸の台地は12万年前に出来た。2万年前頃に現在の地形に。
6千年前の縄文海進の際の水位は今より6m位高かった。
(この年代については記憶で、不確実ゆえに後日訂正します)
豊富な湧水を確認できる場所は何か所も在った。

ここは民家の裏、きれいな水を利用し山葵とクレソンを栽培。
藤柄町を通って今回の一応の終点・備前堀の「魂銷橋」に。
ここから下市地区5千人に水が供給された。
この後「武隈市民センター」に移動し水源の水を使用した「焼鳥バッパ」特製の豚汁を賞味。
天気にも恵まれ、素晴らしい講師の話を実証しながらの「龍の道ウォーキング」
素晴らしい一日に感謝です。
●笠原水道
2代藩主徳川光圀は藩主就任直後の寛文2年(1663)町奉行望月恒隆に下市の水不足に対処するための水道設置を命じた。
調査に当たった平賀保秀は笠原を水源地に選び、工事は永田勘衛門が担当した。笠原から逆川に沿い藤柄町まで岩樋を用いた暗渠を作り、備前堀を銅樋で渡して市街に入り、細谷まで全長約10kmの水道が翌年完成した。
*工期約1年は驚異的な速さらしい。工区を分割して一斉に進行したのであろうと云う西原さんの見解。