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水戸藩士・朝比奈弥太郎の旧居跡発掘調査

2020年04月17日 01時11分19秒 | 水戸
水戸藩士・朝比奈弥太郎の旧居跡発掘調査






4月1日に『水戸藩士・朝比奈弥太郎の旧居@水戸市柵町』という記事を書いた。
「朝比奈弥太郎」なる水戸藩士について全く知らなかった。
友人から幕末の“天狗・書生の戦い”で重要な人物であることを教授いただいた。

稲葉 寿郎 さんより。
朝比奈弥太郎の家は今川氏につかえた遠江掛川城主朝比奈氏の子孫で、今川滅亡後武田を経て家康に仕え、初代紀州藩主の頼宣の家老となりました。
水戸に来たのはその分家で代々弥太郎を襲名。
幕末に於いては諸生派の中心であったため市川三左衛門と行動をともにし、そのため千葉八日市場で亡くなっています。
その分家であった父が処罰をうけたために不遇の幼少期を送ったのが、明治の三大言論人の一人朝比奈知泉です。
川崎がここを占めたのは明治以降、はじめ川崎倉庫という名だったのですが、ご存知かと思いますが戦後は常磐倉庫。
後年はもっぱら冷蔵倉庫だったようです。

沼田吉治さんからは。
朝比奈弥太郎の屋敷跡ですか!
諸生党の大幹部で市川三左衛門、佐藤図書などと共に弘道館戦争に参加し、敗れて千葉県八日市場市で戦死。
祇園寺に墓がありと記憶しています。

野村不動産のマンション新築計画の事前調査の期限が4月30日まで。
新たな動きがあったかと、再度訪問した。
隣地の駐車場から現場を覗き、周辺部をぶらぶら散歩。





発掘された木の杭や土台。




陶器・瓦などの発掘品は洗ったうえで番号を付けて保存。
朝比奈弥太郎旧居の発掘品は少ないように見えた。



「朝比奈弥太郎」邸の敷地は水郡線の軌道に依って斜めに分断された。
中央より右側の木立の辺りに本丸。


中央の水郡線の跨線橋の左側の辺り、二の丸「坂下御門」。




ほぼ同じ角度からの明治時代初期の本丸隅櫓。



文政5年(1826年)の古地図
二の丸御殿の柵町坂下門に近く「千五百石 朝比奈弥太郎」
数軒隣に「中御殿」、徳川光圀が生誕した三木之次の屋敷跡だ。




中央に見えるマンションが「中屋敷」跡地。
道路は古地図で千波湖隣の壕だった。




中御殿の跡地の一部に立つマンション前。
「光圀生誕地碑」



マンション敷地の一郭、二の丸御殿下に建つ「水戸黄門神社(義公祠堂)」
「義公」こと徳川光圀(水戸黄門)は寛永5年(1628年)に家臣三木仁兵衛之次の屋敷で生まれ、4歳まで三木家の子としてここで養育された。

崖上(二の丸土塁)のブルーシートは二の丸隅櫓につながる築地塀の再建工事が進んでおり今年の秋には竣工予定。

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