多賀城の瓦 @東北歴史博物館
平安朝の貴族や文人の奥州(みちのおく・陸奥)に対する憧れは現代人とは比較にならない程に強かったらしい。
「宮城野」「信夫」などの地名が歌人たちに歌い継がれて「歌枕」として独立したものになっていった。と云う様な事を司馬遼太郎の『街道をゆく』を読んでわかった。
芭蕉の『奥のほそみち』もそれらを辿る旅でもあった。
文学的なことより古瓦の名品である「山田寺の瓦」、に劣らぬ魅力をもつ「多賀城出土の瓦」は洗練されてはいないが、力強さを感じ、「多賀城」の地に対し漠然とした思いを抱いていた。
仙台市博物館で開催された「室生寺展」(7月4日から8月24日)を観た翌日、松島に行き帰途に塩釜経由で多賀城跡を訪れることが出来た。
多賀城は、神亀(じんき)元年(724年)、仙台平野を一望できる松島丘陵の先端に築かれ、規模は約900メートル四方におよび、ほぼ中央には重要な儀式を行う政庁があった。
陸奥国を治める国府として、また陸奥・出羽両国を統轄し、さらに、東北地方北部の「蝦夷(えみし)の地」を国内に取り込む役割も担った多賀城は、奈良時代には鎮守府も併せ置かれるなど、東北地方の政治・軍事の中心だった。
とは言え、奈良や京都の様に歴史的な場所が沢山有る訳ではない。
仙台の郊外と云う感じの地方都市の風景。
東北本線の「国府多賀城」駅は遺跡の端になるが、隣接して「東北歴史博物館」がある。
宮城県立の博物館だが、多賀城ばかりでなく、東北の歴史資料が展示されている。
昨今、どこも現物ばかりでなく複製資料も多い。
現品の重要性を考えれば、仕方ないとは思うが、品物に重さを感じることが出来ない。
お目当ての多賀城遺跡出土の瓦。
「宮城県多賀城跡調査研究所」の度重なる発掘調査などで、何期にも渡る建築や瓦の年代なども分かってきた。
これは、創生期に近いのでは。
距離的にも近い、陸奥国分寺・陸奥国分尼寺との関連性もあるようだ。
陸奥国分寺の瓦(仙台市博物館)かなり似てます。
●水戸に戻って調べて分かったが、発掘調査による研究報告『多賀城様式瓦の成立とその意義』(須田勉)には「台渡里遺跡長者山地区との関連」と題し、台渡里遺跡長者山地区の造営に携わった工人たちが多賀城に移ったのであろう。という推論が示されている。
水戸と多賀城が密接な関係にあったと云う事は、嬉しい発見だった。
多賀城南門付近にある高さ2mの石碑は日本三古碑の一であると云われる「多賀城碑」歌枕で有名な「壷碑」とも呼ばれている。
碑面 には、多賀城の位置、神亀元年(724)に多賀城が大野東人によって創建されたこと、762(天平宝字6)年に修復されたことなどが彫り込まれている。
●時間の関係で現物を見ることは叶わなかったが、複製が展示されている。
碑の拓本。
碑面の一部には「去常陸國界四百十二里」と刻されており、常陸の國との繋がりも強く感じられる。
多賀城廃寺跡
東北歴史博物館の後ろの丘に徒歩10分足らずの所に、多賀城と同じ時期に建てられ、塔・金堂・講堂・経蔵・鐘楼・僧坊などからなる寺院跡。
主要な建物配置が大宰府の付属寺院の観世音寺と同じで、これを手本にして建てられたと考えられている。
昨年、大宰府を訪ねた時を思い起こした。
*『奥のほそみち』には、多賀城:元禄二年五月八日)
かの画図(ゑづ)に任(まか)せてたどり行(ゆけ)ば、おくの細道の山際(やまぎは)に十符(とふ)の菅(すげ)有(あり)。今も年々十符(とふ)の菅菰(すがごも)を調(ととのへ)て国守(こくしゆ)に献(けん)ずと云(いへ)り。
壺碑(つぼのいしぶみ)市川村多賀城に有(あり)。
むかしよりよみ置(おけ)る歌枕(うたまくら)、多(おほ)く語伝(かたりつた)ふといへども、山崩(くづれ)川流(ながら)て道改(あらた)まり、石は埋(うづもれ)て土にかくれ、木は老(おひ)て若木(わかき)にかはれば、時移り代(よ)変じて、其跡(そのあと)たしかならぬ事のみを、爰(ここ)に至りて疑(うたがひ)なき千歳(ちとせ)の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚(あんぎや)の一徳(いつとく)存命(ぞんめい)の悦び、羇旅(きりよ)の労を忘れて泪(なみだ)も落つるばかり也(なり)。
古人の旅の心に比べ、我々の安易なる心を反省せざるを得ない。