ヤマトタケルの夢 

―三代目市川猿之助丈の創る世界との邂逅―
★歌舞伎・スーパー歌舞伎・その他の舞台★

昭和60年7月大歌舞伎の筋書より

2010-06-04 21:32:59 | 歌舞伎
筋書は、一応、年代順に並べて一箇所においてある(はず…)のだけど、
ふっとデスクの上の“とりあえず、なんでも置き場”に目をやると
昭和60年(1985年)7月公演の筋書が。
(初代猿翁、三代目段四郎、二十三回忌追善。猿之助さん、45歳の夏)
手に取り眺めていたら、寄稿されている方々の言葉が暖かくて、胸が詰まった。
全文は転載出来ないので、ちょっとだけアップ。

◆八尋俊邦(三井物産株式会社社長)
>猿之助君よ、人はケレンと言おうと、曲芸と言おうと屈することなく、
>持前のチャレンジ精神を駆使して新しいものへ挑みつづけ、この度の追善興行を跳躍台として
>君の溌剌とした芸風に一段と磨きを加え、今後とも吾々に楽しい芝居を見せて貰い度、
>心から健闘を願って已まない。

~70年代、80年代、90年代半ばまで、海外公演を数多くこなした猿之助さん。
八尋氏も猿翁さんからのお客様で、海外公演を協賛して下さった企業の会長でもあられました。

◆小林陽太郎(富士ゼロックス取締役社長)
>猿之助さんの歌舞伎にかける誠実なまでの情熱、卓抜な企画力と表現力、
>そしてエンターティナー精神には、いつもながら敬服させられます。
>つねに自分に大きなテーマを課し、考えに考え、それを体あたりで実現していく。
>伝統の世界にありながら、たえず革新を志し、日本だけでなく国際的な舞台のうえで
>一心不乱に努力する姿勢には、本当に頭が下がります。

~当時、猿之助さんは富士ゼロックスのCMにご出演でした。

◆日野原重明(聖路加看護大学学長)
>死の一ヶ月前に猿翁は、「今回の興行は、私の最後の舞台だし、孫の団子に猿之助を襲名させて
>自分は猿翁となりたい。それには何とか千秋楽までにいっときでもよいからその口上の舞台に上りたい。」
>と私に執拗に頼み込まれた。そこで私は、舞台で死ぬのが本望だという大役者の宿望に応えて
>危険も冒そうと決意した。そこで、私は猿翁を大道具の搬入口から担架で舞台に運び
>口上中は、舞台の幕裏に救命器を用意して待機した。
>猿翁は襲名披露後、病室に帰りベッドに横たわると、巾子夫人の手をとってこういわれた。
>「長い間世話をかけた。許してほしい。私の後は、もう芝居のことは何一つ口出しせぬように。
>時代も変わるし、芝居も変わる。三代目には、思いのままにやらせることだ。」と。
>その、十日後に、七十五歳の猿翁の心臓は停止した。

~日野原先生は、猿翁さんの主治医であり、猿翁さん没後も、夫人の巾子さんの家庭医でした。
すでに、三代目猿之助襲名興行には出られず、23歳の猿之助さんが、猿翁さんが踊るはずだった黒塚を
代役したのは有名なお話ですが、最後の三日間だけ、猿翁さんは口上に出演され、
お父さんが出るなら自分も・・・と、やはり、療養中であった、三代目段四郎さんもご出演となり、
舞台も客席も、涙・涙の口上だったそうです。

◆宇野信夫(劇作家)
>猿翁はその風貌に似あわず非常に感傷的な人であった。団子と雀右衛門が東横ホールで
>私の「春恨譜」という劇を上演した時見物にきて、私に手紙を渡していった。見ると
>「ひとりぼっちの団子、よろしくよろしくお願いします。」それは実にせん細な、ハリガネのような文字であった。

~すでに、猿之助さんのお父様、三代目段四郎さんも病に伏し、
猿翁さんも自分の死を予見していた後のお手紙…
「金の矢が頭に通った」夢を見られて、猿之助さんに名前譲ると伝えた頃。
猿之助さんの、筆跡も、猿翁さん似なのでしょうか?
エネルギッシュな舞台のイメージとはうらはらに、すっとした繊細な文字を書かれます。

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