明治時代の”八重”さん 一坂太郎氏講演録
紘一郎雑記張
八重は戊辰戦争後、母とともに京都に出て薩摩藩に
捕らわれていた兄”山本覚馬”と再会しましたが、
これは死んだと思っていた兄との劇的な再会でした。
その時、兄、覚馬は新政府をつくる為の優れた功績が認められ
京都府の顧問となり活躍をしていました。
ある時、覚馬の上司である長州出身の京都府知事「槙村正直」は
知り合いのアメリカ帰りの青年である、新島 襄に
「妻にするのは日本人が良いか、アメリカ人が良いか」と聞くと
新島は
「日本人が良いですが東を向けと言ったらずぅ~と東を向いている
様な女性は嫌いです」と答えたそうです。
そこで槙村正直知事は、山本覚馬の妹”八重”がふさわしいと
考え、新島に八重との縁談を勧めたのでした。
八重は会津で”川崎尚之助”と一度結婚をしていたので再婚です。
新島は、現在の群馬県「安中藩」の出身でアメリカで洗礼をうけた
キリスト教の信者で30歳でした
八重は、その時32歳で八重も洗礼を受け明治9年(1876年)
1月に結婚式を挙げました。
結婚式当日、仲人の「槙村正直知事」は欠席でした。
明治9年日本は新しく変りつつありましたが、
古都京都では、まだまだ神社仏閣の影響力が強く
京都府知事がキリスト教の結婚式に出ることはとんでもないという
風潮があり欠席したのです。
新島は妻を”八重さん”と呼び、八重は新島を「襄」と
呼び捨てにしていました。
続く