紘一郎雑記帳

多くの講師の講演から面白い情報をお届け癒します。

明治時代の”八重”さん 第5回 紘一郎雑記張

2013-11-20 03:33:28 | Weblog

明治時代の”八重”さん 一坂太郎氏講演録
紘一郎雑記張

一坂太郎氏講演会・第5回 

八重は戊辰戦争後、母とともに京都に出て薩摩藩に
捕らわれていた兄”山本覚馬”と再会しましたが、
これは死んだと思っていた兄との劇的な再会でした。

その時、兄、覚馬は新政府をつくる為の優れた功績が認められ
京都府の顧問となり活躍をしていました。

ある時、覚馬の上司である長州出身の京都府知事「槙村正直」は
知り合いのアメリカ帰りの青年である、新島 襄に
「妻にするのは日本人が良いか、アメリカ人が良いか」と聞くと
新島は
「日本人が良いですが東を向けと言ったらずぅ~と東を向いている
様な女性は嫌いです」と答えたそうです。

そこで槙村正直知事は、山本覚馬の妹”八重”がふさわしいと
考え、新島に八重との縁談を勧めたのでした。

八重は会津で”川崎尚之助”と一度結婚をしていたので再婚です。

新島は、現在の群馬県「安中藩」の出身でアメリカで洗礼をうけた
キリスト教の信者で30歳でした

八重は、その時32歳で八重も洗礼を受け明治9年(1876年)
1月に結婚式を挙げました。

結婚式当日、仲人の「槙村正直知事」は欠席でした。

明治9年日本は新しく変りつつありましたが、
古都京都では、まだまだ神社仏閣の影響力が強く
京都府知事がキリスト教の結婚式に出ることはとんでもないという
風潮があり欠席したのです。

新島は妻を”八重さん”と呼び、八重は新島を「襄」と
呼び捨てにしていました。

続く

 


八重の桜・第4回 安田紘一郎雑記帳

2013-11-19 03:14:19 | Weblog

八重の桜・第4回 ・本当の八重さん
安田紘一郎雑記帳
一坂太郎氏講演録

大河ドラマで描かれている八重は後に新島襄の妻となるが、
元々は会津藩の砲術師範だった山本権八の3女として生まれました

武士の娘なので子供の頃から小笠原流の作法を学び手芸や
機織り、薙刀のども教わったが銃や大砲の扱いも兄より習っていた。

13歳で4斗俵を4個も担いで上げ下げしたというエピソードも
残っていて、成人してからは体重は80kgを超えていたらしく
テレビの主演綾瀬はるかさんとはかけ離れた体系でした。

小生の割り込み
「因みこの幕末にもう一人大柄な女性がいました。
坂本龍馬の姉の乙女さんで、この人は4斗俵を4個担いで、
もう一つ口に咥えて歩いたそうですが、八重さんと乙女姉さん、
二人とも力強くて面白い女性ですね! 
体系的に役が似合うのは和田アキ子さんでしょうか(笑)」

八重も会津城に篭城しました。
他の女性が薙刀を持つ中八重は男装して元籠7連発銃を
肩に担いで城に立て籠もったのです。

 鳥羽伏見の戦いで亡くなった弟の仇を取りたい一念も
八重にあったのでしょう。

この戦いで飯盛山で自決したのが白虎隊と言われる少年兵でした。

八重はその後、明治42年に出版された雑誌「婦人世界」で
生々しい戦いの状況を語っています。

戦いは会津の敗北に終わり会津藩は9月22日「恭順」の
旗を掲げて開城しようとしましたが、官軍はそれを認めず
「降伏」の旗を立てたのです。
会津のプライドはガタガタと崩れました。

そして戦火は飛び火して翌年、函館の「五稜郭」が陥落し
1年半にわたる戊辰戦争は終結し、新政府による
明治の新しい国づくりが本格的に始まりました。

続く


八重の桜真実第3回 会津の悲劇  紘一郎雑記張

2013-11-18 03:24:39 | Weblog

八重の桜真実第3回 会津の悲劇  
紘一郎雑記張

将軍慶喜は江戸を去り故郷の水戸に帰り、江戸城も開放された為
官軍は振り上げた拳の落とし場所が無く、慶喜追討の変わりに
会津に狙いを定め仙台伊達家に会津追討の命を出しました。

伊達家では
「会津は謝っているのになぜ討つのか、会津が賊軍とならば、
その前の賊軍の長州は今は許されているではないか」
と反論したが、官軍は「天皇の命」であると、答えるのでした

しかし、
京都から遠い仙台では天皇の存在がピンとこないで、
今は幕府を凌ぐ勢力になっていることも理解が出来ず、
長州と薩摩の会津にたいする私怨だけと判断して
官軍の参謀長・長州の”世良修蔵”を殺害したのです

そして25藩からなる奥州越列藩同盟が結成され
官軍との戦いとなりました



しかし、所詮この同盟は大半が小藩で軍事力はそれほど無く
断りきれずに参加した藩もあり、薩長中心の新政府軍の攻撃に
次々と降伏、会津も二本松の城が落され、一気に会津の城下まで
攻め込まれて、あっけなく城は囲まれ会津藩は1月の篭城戦を
繰り広げたのち敗れるのです。

八重もこの戦いの中にいました。 続く


第2部 八重の桜の真実 会津と長州 紘一郎雑記張

2013-11-17 03:35:26 | Weblog

2部 八重の桜の真実 会津と長州 
一坂太郎氏講演録より
紘一郎雑記張

「長州藩排斥」の功績で会津容保公は”孝明天皇”の
絶大な信頼を得ました。

一方、失地回復を期す長州藩は元治元年禁門の変を起こすが
会津や薩摩の軍勢に撃退され、さらに孝明天皇は長州に
朝敵の烙印を押し2度にわたる長州征伐が行われたのです。

歴史的にはこの戦いは幕府と長州の戦いとしているが、
実際は孝明天皇と毛利敬親公の戦争でありました。

2度目の戦いは、なんと長州が優勢な戦いを進めていたが、
その最中に14代将軍家茂が病死したので、それを口実に
孝明天皇は休戦の命を出されたのです。

幕府は15代将軍慶喜となった年の暮れに、今度は孝明天皇が
崩御されたのです。

将軍慶喜は16歳で即位された明治天皇をささえますが、
薩長の倒幕の動きなどから”幕藩体制”の限界を悟り朝廷に
”大政奉還”したのです

その後、明治天皇の名において王政復古の号令が発せられ
”慶喜”は”会津容保”らを連れて大坂に下りました。

薩長軍は”慶喜”も新政権の要職に就ける事を検討中に、
皮肉にも幕府軍が大坂から京都に進撃したのです。

鳥羽伏見の戦いの始まりです。
戦いの初めは薩長軍5000人で幕府15000人で幕府優勢の
状況でしたが、薩長軍が明治天皇の錦の御旗を立てたので、
様子をみていた他藩は官軍となった薩長軍に味方をし始めました。

”将軍慶喜”や”会津容保”は江戸に逃げ帰り、ここから”会津”も
朝敵となり悲劇へと進んで行きました

そして慶応4年=明治元年(1868)に江戸城は
無血開城されたのです。

続く

 

 


”八重の桜”の真実 一坂太郎氏講演より 第1部 紘一郎雑記張

2013-11-16 03:50:40 | Weblog

”八重の桜”の真実 一坂太郎氏講演より 第1部
紘一郎雑記張

大河ドラマ「八重の桜」が佳境に入ってきた。
そこで明治維新の研究家第1人者の”一坂太郎先生”に
講演でお話を戴きました!

6回連続投稿致します

  

まず"八重の桜"の前に明治維新について話しましょう。

維新の立役者は、事の良し悪しは別にして
"孝明天皇"だと私は思います

江戸時代には天皇と将軍の仕事の区分が法的になされ
天皇が政治に関与することはなかったのです。

しかし幕末に即位された孝明天皇は外圧に対し危機感を強くもたれ
幕府から相談のあった日米通商条約締結に許可しなかっのです。


本来,
幕府は天皇からの許可は必要ないのですが、後々の失敗の
責任を恐れ、又、天皇も巻き込んだ挙国一致での開国を内外に示す
ことを重んじて天皇にお伺いをたてたのです。

もし幕府が大政を委任されていると自信をもつて、天皇に伺いを
たてずに開国していれば明治維新は大きく変った形になったことでしょう。

徳川幕府も260余年のほころびが出ていた証拠ですね
しかし,幕府は天皇の許可無く条約を結んだのです。

京都には、それを良しといない”反幕府勢力”が続々と終結し
騒然となったので、幕府は会津藩"松平容保公"を
"京都守護職"に任命し京都の治安に当たらせたのです。

そして会津、松平容保公は反幕府中心的勢力であった
"長州藩"を徹底的に排斥したのですが、
ここから、後々の長州・会津150年にわたる遺恨の始まりでした

続く・・


横田めぐみさん拉致から36年  紘一郎雑記帖

2013-11-15 02:01:24 | Weblog

横田めぐみさん拉致から36年
紘一郎雑記長

1977年11月15日横田めぐみさんが
北朝鮮に拉致されてから36年です。

父・滋さんは昨日11月14日で81歳の誕生日を迎えました。
先日もお逢いしましたが、本当にご高齢です

拉致問題の一刻も早い解決が待たれています。
もう時間がありません。

北朝鮮は知っているのです
日本は絶対に取り返しに来ない!
憲法9条があるから絶対に来ない

皆さん如何ですか? 
横田さんはじめ拉致被害者を
奪還する為、憲法9条を
変えようではありませんか

9条を変えたら、明くる日に
”めぐみさん”は両親の元に還ってくる
私には、そう思えてなりません


 


慰安婦像で「謝罪」アメリカの市長 紘一郎雑記張

2013-11-14 03:08:26 | Weblog
米グレンデール市長、東大阪市に慰安婦像で
「謝罪文」 
韓国メディア激怒、現地で「吊るし上げ」状態に
紘一郎雑記張  
 
米グレンデール市で、「慰安婦像」をめぐる問題が再び燃え上った。
設置慎重派として知られる市長が、姉妹都市である東大阪市に
「謝罪文」を送付したと地元紙や韓国メディアで報じられ、
猛攻撃を受けている。

   「日本のインタビューで慰安婦像を設置したくなかったなどと述べた
米グレンデール市長が、今度は日本に謝罪文まで送ったことが明らかになりました」 
  「韓国系住民たちは強く反発しています」
 
   男女のキャスターが、硬い表情でニュースを読み上げる。
韓国の大手テレビ局MBCは11月6日、グレンデールのデイブ・ウィーバー市長の「謝罪」問題を厳しい論調で伝えた。

   この事実は、2日に地元紙グレンデール・ニュース・プレスが最初に報じたものだ。
これが在米韓国人向け新聞などで「『慰安婦像建立』を謝るなんて……」などとさらに煽り立てられ、韓国メディアでも今週に入り相次いで
大きく取り扱われている。

   問題の書簡の中でウィーバー市長は、

   「本件は日本と韓国の間の国際的な事項であり、グレンデール市がどちらかに偏った形で関与するべきではない」
   という立場から、慰安婦像の設置に自身は反対しているという以前からの立場を繰り返すとともに、東大阪市側からの上記の抗議に対し釈明、
そして、「今回のような問題が、東大阪市および日本とグレンデール市の間に深い溝を作ってしまった事を残念に思っています。
なんとかしてこの状況を変えたいのですが、私にはその権限が与えられておりません」と述べている。
 
   原文では「regret(残念、遺憾)」といった表現で、ただちに謝罪といえるかは微妙だが、韓国メディアでは「謝罪」と決めつけられてしまっている。

   東大阪市によれば、この書簡は10月1日付のものだという。
これまで米国、韓国ではほとんど取り上げられていなかったが、
11月に入り地元で話題となり、にわかに問題化したものらしい。

  「こちらが抗議した内容について直接的に返答したものとは取れなかった」

 ウィーバー市長は初から慰安婦像設置に慎重な立場を取っており、
市議時代に行われた設置の採決でも、ただ1人反対票を投じていた。
市長就任後も、7月の除幕式には出席していない。
9月には日本の保守系メディア「チャンネル桜」の取材に応じ、
「当市に住んでいる日本人はほとんどいないが、
韓国人は1万2千人以上住んでいる。
誰が力を持つか、想像すれば分かりますよね」

「私は日本人が好きだが、我々は、今となっては『日本で最も憎まれる都市』になってしまったと受け止めており、非常に遺憾に思っている」などと発言、特に韓国紙から猛烈なバッシングを受けていた。

その矢先の「謝罪」問題は地元でも波紋を広げた。
 
しかも議会の反対派議員は韓国人と一緒に市長を「吊るし上げ」にした。
ウィーバー市長は自らへの非難を、ただ黙って聞いていたという。

この項終わり

インドネシアの「日本人救世主伝説」 紘一郎雑記張

2013-11-13 03:49:18 | Weblog

インドネシアに息づく日本人救世主伝説
「空から黄色い人が降ってきて、白い人を追い出してくれた」

紘一郎雑記張

インドネシアに古くから伝わる
「ジョヨボヨ王の予言」という伝承であるそうです。
「我らの王国は白い人々(欧州人)に支配される
彼らは離れたところから攻撃をする魔法の杖(鉄砲)を持っている。
白い人々からの支配が長く続くが、空から黄色い人(日本人)が
やってきて白い人々を追い払ってくれる。
この黄色い人も我らの王国を支配するがトウモロコシの寿命と
同じくらいの期間しか居ない」。

この伝承は12世紀の東ジャワのジョヨボヨ王の書いた「パラタユダ」と
いう民族の叙事詩にある一節だそうですが、インドネシアの人々は
350年間も支配したオランダから日本軍が解放してくれたことを
感謝しているということです。

太平洋戦争終結後、日本軍の将兵がインドネシアに残って、
インドネシアの独立戦争に参加した。
2000人の日本人将兵が、インドネシア兵に交ざってオランダからの
独立を戦い抜いたようです。

祖国は敗戦で戦争が終わっても、インドネシア独立の為に戦ったのです。

天皇陛下が終戦の際に
「日本と共に東アジアの解放に協力してくれた盟邦に対して済まなく思う」
との玉音放送を聞いた将兵たちが自ら進んでとった行動のようです。
インドネシア人は、一緒に戦ってくれた日本人を心から尊敬し信頼しているというそうです。

モハメッド・ナチール・インドネシア元首相は
「大東亜戦争は私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです。日本軍は有言実行でした。その第一は植民地政治の粉砕です。
祖国防衛義勇軍を組織したことです。インドネシア語の普及です。
第四はイスラムの団結をはかったことです。
スカルノやハッタをはじめとした行政官の猛訓練です。
稲作及び工業技術の向上です」

1977年マニラ国際会議でインドネシア内外政治担当大統領特別補佐官、
アリ・ムルトブ准将は「日本はアジアの光である。
大東亜戦争は欧米人にアジア人の勇敢さを示したもので、
チンギス・ハーンとともにアジア人の誇りである。
ここで、インドネシアの日本民族の価値について申し上げる。
今、忽然として日本民族がこの地球上から消えたら、アジアとアフリカは
非常に困る思う。」と語ったそうです。

インドネシアとかは日本の陸海空挺部隊がパラシュート降下で
大活躍したところだから、現地人からも空から降って来た兵隊さんと
大人気で神様扱いされたとか聞いたことがあります。

軍歌の「空の神兵」と曲はまさにそれをイメージしたものだと思います。
大東亜戦争の時に祖国のために戦ってくれた英霊たちのお陰で、
今こういう尊敬を集めていると言うことは間違いないでしょう。

※一部の国の間違った情報や
  悪意に満ちた報道にに慌てず、戸惑わず、
  我々日本人は堂々と正道を
  歩こうではありませんか!


そんなバカな事!NHK受信料訴訟  紘一郎雑記張

2013-11-12 03:46:57 | Weblog

NHKが個人を相手に受信契約締結と受信料支払いを求めた訴訟の
控訴審判決で、東京高裁の難波孝一裁判長は30日、
「NHKが契約を申し込めば、受信者が承諾の意思表示をしない場合でも、長くても2週間が経過すれば契約が成立する」との判断を示した。
NHKによると、初めての司法判断だそうです。

今年6月の一審横浜地裁相模原支部判決は「契約締結を命じる判決が
確定した段階で契約が成立し、受信料の支払い義務が発生する」と
判断したが、高裁はさらに踏み込み、契約は既に締結されているとしました

 一般人「テレビ持っています」NHK「受信契約しろ」2週間後、
NHK「契約は成立した。受信料払え!」
そんな馬鹿な!!NHKは受信料返せ!!

 

これだったら、受信契約ではなくて放送税にしたほうがいいと
おもいますが、そういう法律にして税なりにして、
「契約」無くせば無駄な裁判などしなくていいのではないですか。

それだけ法的効力があるなら、NHKと契約しないとテレビ買えないくらい
徹底すればいいとおもいます。
受信料が、放送内容と見合ってないことが一番の問題ではないですか、
そこを改善する事からやり直すべきだと思います。

NHK契約していないから受信料払わないという理屈が
成り立たないのなら、スクランブルを掛けて受信料はらっていない人は
見せないことにした方がいいと思うが如何ですか

上から目線の代表・・・昔、連合・今NHK

 


大東亜戦争の本当の敗者”欧米諸国” 紘一郎雑記張

2013-11-11 03:57:19 | Weblog

 
大東亜戦争の本当の敗者”欧米諸国” 
紘一郎雑記張

朴鉄柱氏「韓日文化研究所」より

 そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。
平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだ。

それまで日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。
最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑む事は屈辱を意味した。

事態ここに至る。
座して死を待つよりは、戦って死すべし、というのが、
開戦時の心境であった。
それは日本の武士道の発露であった。

日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨て身の一撃を与えた。
それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。

日露戦争と大東亜戦争ーこの二つの捨て身の戦争が
歴史を転換し、
アジア諸国民の独立をもたらした。

この意義はいくら強調しても強調しすぎることはない。」
「大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスを
はじめとする植民地を持った欧米諸国であった。

彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。
戦争に勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、
というのはクラウゼヴィッツの戦争論である。

日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。
日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、聖なる戦争であった。

ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、
こんなものはすぐに回復できたではないか。

二百数十万人の戦死者は確かに帰ってこないが、
しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、
国民尊崇対象となるのである

あぁ日本人よ!
この事実を、今一度認証しようではないか!