紘一郎雑記帳

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八重の桜一坂太郎氏講演録最終回 安田紘一郎雑記帳

2013-11-21 00:20:47 | Weblog

八重の桜の真実・一坂太郎氏講演録最終回 
安田紘一郎雑記帳

新島襄は後に同志社英学校を開校するが、八重は学生達から
生意気な悪妻と見られていて、新島に心服する生徒の一人の
徳富蘇峰は、八重の事を
「日本人とも西洋人とも判らないヌエのような人」と評して、
八重が生徒の目の前でも、新島に馴れ馴れしく接することが
癪にさわったと述べている

アメリカ帰りでレディファーストの習慣を持つ新島が八重を先に車に
乗せたりするのが、まだ侍の気風を残す当時の学生達が嫌ったのでしょう

病気勝ちだった新島襄は明治23年(1890年)出張先で亡くなりまし
7歳という若さでした。

夫が倒れたと聞いて駆けつけた八重に、新島襄は
「今日ほどあなたが来るのを待ち遠しく思った事はない」と言い
永眠時には
「狼狽する無かれ、グッドバイ、又逢わん」と言って息を引き取りました

八重と襄の結婚生活は14年間でした。

  

その後の八重は同志社とは距離を置きつつ、赤十字で働いたり
茶道を励んだりして、会津の女学校の生徒が京都に来たとき歓迎
したりして、会津の気持ちを忘れず、昭和7年86歳で亡くなった
葬儀には4000人が参列し墓は”新島襄”の隣に葬られました。

そんな八重を何より感激させたのは戊辰戦争から61年後の
大正3年(1914年)、元会津藩主”松平容保公”の孫にあたる
松平勢津子さんが秩父宮家に嫁がれ、会津の子孫が皇族と
結婚したことで”朝敵”の烙印が消えた事であったでしょう。
 

とはいえ、会津人の心のしこりは、依然すっきりと晴れたわけではないと
おもいます。幕末の政権交代の残酷さを考えさせられます。
「一坂太郎氏」講演録終わり