紘一郎雑記帳

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龍馬死す!第6回 赤間博章氏講演会

2010-07-28 04:59:20 | Weblog
【第6部・龍馬死す!】

龍馬はなぜ・京都に赤尾氏講演録 紘一郎雑記張

 講師ー赤尾 博章氏
  「NPO法人京都龍馬会・理事長」

  続き・・赤間氏

1867年11月15日
その時の「近江屋」の状況を少し想像してみますと
「みね吉」が「軍鶏」を買いにでた後、そして「藤吉」がいて
奥の部屋の右側に「龍馬」がいて、左側に「中岡慎太郎」がいて
右側に「床の間」があり、そこに「刀」を置いていました

「中岡慎太郎」は左側にいましたが、その前に「屏風」があり
「刀」はその後に置いていました。

「龍馬・慎太郎」の二人とも「刀」を持っていませんでした

「十津川藩士」と名乗る武士達が尋ねてきました
「藤吉」は「十津川藩士」という事で安心して
「龍馬」に伝えました。

何人かの「十津川藩士」の知り合いがいたのです。
そして「二階」に案内する「藤吉」は階段で斬られます。

その男たちは、そのまま「奥の部屋」にいきなり入り
「龍馬」を正面から、頭に斬りつけています

「龍馬」は「剣の達人」といわれていましたが
さすがに「名乗らず」いきなり襲われたので
抵抗出来なかったのでしょう

「龍馬」は後に置いてある「刀」を取りに振り向きましたが
その「背後」から「袈裟懸け」に切りつけられました

それども「刀」を手にして「龍馬」は鞘を振り回し
抵抗しました、その刀の「鞘」に傷跡と血痕が残っていて
「明治の初め」までありました。写真があります。

別の武士達が「中岡慎太郎」を襲いますが「中岡慎太郎」は
気を失ったのですが、あまりの痛さに「気が戻った」と
証言しています。 中岡は「2日」生き延びたからです

中岡が気が付いたとき「龍馬」はまだ生きていたのです
「大丈夫か」と「龍馬」にきいたら、
「頭をやられたのでもうだめだ」と
「龍馬」は言いながら「息絶えた」のです。

中岡はこの「2日間」で多くの証言を残しました
刺客は「見回り組み」の「佐々木只三郎」ら6~7人と
事実もはっきり判ったのです。

佐々木只三郎は、ひと月後の「鳥羽伏見の戦い」で「負傷」し
「紀伊三井寺」に逃れ「36歳」で亡くなりました。

「龍馬暗殺」の見回り組み中の一人「今井信郎」だけが、
生き残り、最後に「函館戦争」で逮捕され「龍馬」殺害も
認め「明治」になって裁判で有罪となりましたが
「恩赦」があり「禁固刑」で終わっています。
「供述調書」も残っています。

1867年に、総勢300人の壮士をつれて、京都に来た!と
噂された「龍馬」は、幕府方からみれば、世の中を乱す
「不平・不満」な「不穏分子」の巨頭だったのでしょう。

「龍馬」と「慎太郎」そして「藤吉」の遺骸は、17日の夜、
同志の手により、密かに「東山霊山」に埋葬されました
神式で葬式が行われました

その日、お龍は「下関」「伊藤邸」にいました
「龍馬」が死んだ事を「お龍」が知ったのは
「12月2日」でした。龍馬の死後、15日後でした

長崎の海援隊「浦田運太郎」から、それを聞き
驚いた「伊藤勘太夫」が、長州藩士「三吉慎蔵」らに
知らせた、との手紙が残っております。
「奥様へは何とも、その模様は申し上げず、さし控えており申し候」

「お龍さん」の「龍馬の死」をどう伝えるか。
長州藩が考えている様子がわかります。

12月3日に「お龍さん」に伝えますが「お龍だん」は
「龍馬が死んだ夢」をみて知っていたそうです。

ご清聴、有難う御座いました。

次回より「龍馬」に関連して、龍馬死後の
「妻・お龍さん」について3回に分けて投稿いたします。


安田紘一郎雑記帳

「龍馬」が京都河原町の「近江屋」で殺害されたのが
1867年(慶応3年)11月15日であり、翌月には「王政復古」の
大号令があり、翌年の1869年には「明治」と改元され
まさに「新時代」が始まったのであるが「龍馬」は
その「どちらも」知ることなく旅立ったのである。

「11月15日」又、愛妻「お龍さん」も下関の新居で
「龍馬」の帰りを待っていたのです。

「龍馬」をよくみて「現代風」にいえば

●本籍地は高知県高知市 ●現住所は山口県下関市
●そして「京都出張中」に死亡

となるのでしょうか。