季語って?
例えば、ビール。
これは夏の季語です。とすらッと書きましたが、今では一年中ビールを飲んでますし
ビールを飲んでもア~夏だなあという思いをすることもあんまりないとは思いますが
でも夏の季語ですよね
友来たる暖炉赤々まずビール
なんていう句を作る人はあまりいないと思いますが作ればおかしな感じがするのでしょうか?
暖炉とビールで季重なりということを感じる人もいらっしゃるのでは
さあその時の考え方なんですが
歳時記至上主義というか歳時記原理主義というか
歳時記に照らして正しい正しくないというのがどうなんでしょうか
ということです
またそこから発して歳時記を見直そうという考え方も出てくるのでしょう
例えばビールは季語から外そうという考え方です
また動物も季語になっているものが多くありますが、その季節わけも微妙な感じがあります
鯨が冬って?ウサギも冬、蛇は夏、猪と鹿は秋、
色々理由があるのでしょうが
霧は秋で霞は春 まあこれは言葉の問題かも
季語はしっかり覚えておきましょうねで問題解決にしたくないような気分がします
歳時記至上主義ではなくって、自分の感覚をそだてないなあとおもっているところです
また季語の問題と言えば
剪定に助けられたる余生かな
という句について、ある人は「作者が植木の剪定技術を取得したことで余生に励みができた」ととったという。
確かにそのようにとれますね
作者は「高齢になって手術を受けそのことがあたかも剪定を受けた樹木のように思いこれからの余生を思う」という意味だったと。
一つの俳句の解釈が作者と読者で大きく違ったのだが、
これに対してその句会の先生は「季語を比喩で使ったのですか?」と悲しそうにおっしゃった。
とここまでは半ば経験談これから先は全くのフィクションです。
おそらくその先は「季語は今であることが大前提なんです。今そこにないものを季語として使うのはおかしいでしょう。ましてやこの場合季語を冒頭において大上段にかざしてる。それが比喩だったとなるとすべてが崩れ去ってしまうと思いませんか。」とつづけられるのではないかな
季語を比喩で使うことの是非?たぶん否定論者はこんな論調かな?
あまりいらっしゃらないかもしれないが肯定する方は「季語が生きてれば、季語の力が働いていればそれもいい」
となるのでは?
もっとも例に挙げた句は季語の力は働いているとは言えない
まず春らしさはみじんもない。若々しさがない。剪定という季語にはパッチンパッチンという音が聞こえてくるものだ。
枝ぶりを強制されてこれからすこやかに伸びて行こうとする若さがほとぼしる。
そんな句でないと
俳句は詩なんだから
詩にはある種の驚きがいるだろうに
驚きがなくって共感するだけではつまらない。
驚きのある句を目指したいまずは自分が驚かなきゃと思いますが
さて話が横にそれたが季重なり
季重なりについて考えをまとめてみようと思った。まずその前に気になったのが「季重なり」この言葉広辞苑では「きがさなり」と引けば出てくるのだが、パソコンのIMEでは「きかさなり」と打ち込まないとこの漢字表現『季重なり』は出てこない。スマホではどちらでも漢字表現できる。妙なこって。
閑話休題
季重なりを初心者向けのほとんどの句会やカルチャー教室では不可とされるようです。まあ、その姿勢も分かるのですが、……
いやどう考えてもこれは季重なりを承知で句にしたい、一句まとめたいというときにどうしたらいいのか?たぶんほとんどの方がそんな時はその句自体どうにもならないと考えて没にするのでしょうね。あるいは推敲を重ねてどちらかの季語を外すことを検討するのでしょう。
昔の人特に江戸時代の人は平気で季重なりの句を作ってらっしゃいますよね
うらやましくもありますが
飯田龍太さんの句で調べたことがあります
鵯の声くれなゐを誘ひ出す
薄氷ひよどり花のごとく啼く
この二句です最初の句では季語は鵯、後の句では薄氷です。そして後の句で平仮名にしてらっしゃいます。
この手があったのです。つまり仮名にして地の中に溶け込ませるという。
これに気付いたのは数か月前。知っていたのにこの句ではできなかったのです。まだ自分のものになってないのですね。あるいはそもそも季語の理解ができてないということでしょうかね。
例えば、ビール。
これは夏の季語です。とすらッと書きましたが、今では一年中ビールを飲んでますし
ビールを飲んでもア~夏だなあという思いをすることもあんまりないとは思いますが
でも夏の季語ですよね
友来たる暖炉赤々まずビール
なんていう句を作る人はあまりいないと思いますが作ればおかしな感じがするのでしょうか?
暖炉とビールで季重なりということを感じる人もいらっしゃるのでは
さあその時の考え方なんですが
歳時記至上主義というか歳時記原理主義というか
歳時記に照らして正しい正しくないというのがどうなんでしょうか
ということです
またそこから発して歳時記を見直そうという考え方も出てくるのでしょう
例えばビールは季語から外そうという考え方です
また動物も季語になっているものが多くありますが、その季節わけも微妙な感じがあります
鯨が冬って?ウサギも冬、蛇は夏、猪と鹿は秋、
色々理由があるのでしょうが
霧は秋で霞は春 まあこれは言葉の問題かも
季語はしっかり覚えておきましょうねで問題解決にしたくないような気分がします
歳時記至上主義ではなくって、自分の感覚をそだてないなあとおもっているところです
また季語の問題と言えば
剪定に助けられたる余生かな
という句について、ある人は「作者が植木の剪定技術を取得したことで余生に励みができた」ととったという。
確かにそのようにとれますね
作者は「高齢になって手術を受けそのことがあたかも剪定を受けた樹木のように思いこれからの余生を思う」という意味だったと。
一つの俳句の解釈が作者と読者で大きく違ったのだが、
これに対してその句会の先生は「季語を比喩で使ったのですか?」と悲しそうにおっしゃった。
とここまでは半ば経験談これから先は全くのフィクションです。
おそらくその先は「季語は今であることが大前提なんです。今そこにないものを季語として使うのはおかしいでしょう。ましてやこの場合季語を冒頭において大上段にかざしてる。それが比喩だったとなるとすべてが崩れ去ってしまうと思いませんか。」とつづけられるのではないかな
季語を比喩で使うことの是非?たぶん否定論者はこんな論調かな?
あまりいらっしゃらないかもしれないが肯定する方は「季語が生きてれば、季語の力が働いていればそれもいい」
となるのでは?
もっとも例に挙げた句は季語の力は働いているとは言えない
まず春らしさはみじんもない。若々しさがない。剪定という季語にはパッチンパッチンという音が聞こえてくるものだ。
枝ぶりを強制されてこれからすこやかに伸びて行こうとする若さがほとぼしる。
そんな句でないと
俳句は詩なんだから
詩にはある種の驚きがいるだろうに
驚きがなくって共感するだけではつまらない。
驚きのある句を目指したいまずは自分が驚かなきゃと思いますが
さて話が横にそれたが季重なり
季重なりについて考えをまとめてみようと思った。まずその前に気になったのが「季重なり」この言葉広辞苑では「きがさなり」と引けば出てくるのだが、パソコンのIMEでは「きかさなり」と打ち込まないとこの漢字表現『季重なり』は出てこない。スマホではどちらでも漢字表現できる。妙なこって。
閑話休題
季重なりを初心者向けのほとんどの句会やカルチャー教室では不可とされるようです。まあ、その姿勢も分かるのですが、……
いやどう考えてもこれは季重なりを承知で句にしたい、一句まとめたいというときにどうしたらいいのか?たぶんほとんどの方がそんな時はその句自体どうにもならないと考えて没にするのでしょうね。あるいは推敲を重ねてどちらかの季語を外すことを検討するのでしょう。
昔の人特に江戸時代の人は平気で季重なりの句を作ってらっしゃいますよね
うらやましくもありますが
飯田龍太さんの句で調べたことがあります
鵯の声くれなゐを誘ひ出す
薄氷ひよどり花のごとく啼く
この二句です最初の句では季語は鵯、後の句では薄氷です。そして後の句で平仮名にしてらっしゃいます。
この手があったのです。つまり仮名にして地の中に溶け込ませるという。
これに気付いたのは数か月前。知っていたのにこの句ではできなかったのです。まだ自分のものになってないのですね。あるいはそもそも季語の理解ができてないということでしょうかね。