どうやら、お経が仏像を作ったと言って良いようだ。
お経に阿弥陀のことが書かれていれば、その阿弥陀を具現化するために仏像の建立がはかられる。
しからばそのお経は?
と言うと、釈迦仏教の解釈を試みた人が作ったと言っていいようだ。
困ったことにそれを読んだ人は釈迦の言葉と思いこんでしまったようだ
こうして数々のお経が作られ
数々の仏像が建立されてきた
あたかも、釈迦の教えの具現化のごとく仏像が
どうやら、お経が仏像を作ったと言って良いようだ。
お経に阿弥陀のことが書かれていれば、その阿弥陀を具現化するために仏像の建立がはかられる。
しからばそのお経は?
と言うと、釈迦仏教の解釈を試みた人が作ったと言っていいようだ。
困ったことにそれを読んだ人は釈迦の言葉と思いこんでしまったようだ
こうして数々のお経が作られ
数々の仏像が建立されてきた
あたかも、釈迦の教えの具現化のごとく仏像が
おそらくそうなんだ。
仏教の開祖たる釈迦牟尼(以下釈迦と表記)は仏像なんて見た事も想像したこともなかったはずだ。そもそも釈迦は何かを礼拝するなんてことはこれっぽっちも考えていなかったはずだ。だから、釈迦が今の様子を知れば、礼拝の対象として造られた仏像の存在理由が理解できないのじゃないだろうか。
釈迦が入滅後何百年も経って、後世の人たちが作った仏教において必要になったので出来たのが仏像なのだ。こう考えれば、納得できる。
以前私は、釈迦は偶像崇拝を否定していたのに何故後に仏像なんていう偶像ができたのか?とよくわからなかった。
釈迦が説いたのは「四諦」であり、「八正道」の実践修行である。
今我々が仏像に向かって合掌したりお経をあげたりすることは、全く釈迦の考えた仏教ではない。
観音菩薩を拝む
を書き始めてみて、色々疑問が湧いて調べたが、中々答えが見つからない
どころか、ますます分けがわからなくなってきている。
観音菩薩を拝む
で、菩薩て何だろうに思いがたどり着いた。
広辞苑頼みで、引いてみる。
まずそもそも論
「悟りを求めて修行する人。」とあり、
原始釈迦仏教では、悟りを開く前の修行中の釈迦を表すらしい。
それに対して、一世紀頃にまとめられた「ジャータカ」によると、「釈迦の前世の修行の姿を菩薩といい、前世では慈悲行(菩薩行)を行ったので、今世で、仏陀となった。菩薩とはこの前世の釈迦のことを表し、仏陀となったのは釈迦だけである。
ところが、その後作られたと思われる「般若経」によると、菩薩とは摩訶薩(マハーサットヴァ) 大きな志を持つ人、一般修行者のことになるらしい。
また、3世紀頃表された 華厳経によると菩薩の中には観音菩薩、普賢菩薩、文殊菩薩等々の大菩薩、つまり仏陀になりうるにもかかわらず衆生を勇気づけるため菩薩で有り続けている
と言うことになる
つまりもともと釈迦の修行中の姿を表していたのが、前世での修行中のこととなった。この段階では釈迦一人のはずが、一般名称となつて、誰でも修行中であれば菩薩と名乗れる。つまりこの段階で誰でも修行すれば仏陀になれる道が開いた。
さらに、あれよあれよという間もなく数多の菩薩が誕生した。
あなたの好きな仏像は? などという雑誌の特集があれば、結構上位にランクされるのじゃあないだろうかと思われるのが、「観音菩薩」ではなかろうか?
だがその前に、そもそも、その仏像って何だろう?
広辞苑によると「仏教の礼拝の対象として造られた仏の彫像-画像。仏陀以外の菩薩-明王-諸天にもいう。」とある。なるほど辞書だ。まあ、一言で言えばこうなるのだろう。
つまりはまず、礼拝の対象として造られたというのだから、作られた当時には礼拝の対象でなければならない。
ここで、一つ疑問が起こった。
その礼拝ということだが普通に思い浮かぶのは手を合わせる行為だが、世界共通かと、人類共通かと思ったが、どうも違うようだ。
キリスト教で、「アーメン」と言ったあとは指と指を組んでいるのじゃないか。では、日本独特なのか?とも思ったが、神社仏閣では柏手をうつではないか?どうやら仏教と同時にインドから伝わったようだ。