暑さ、寒さを感じながら時が過ぎてゆくものだったが、暑さ寒さの変化をあまり感じないままでも時は移り過ぎてゆくものだと、再認識させられる二十一世紀なのだろう。
そろそろ秋風が吹いてきたから、そんな気がして時の行くへに驚かされるのではなく
ぼんやりとしてる間に、ふと気付くとカレンダーはいつの間にかめくられているものなのだ
気が付けば臨終の床についている自分に気づくことにならないように、しっかり目をあけて……
暑さ、寒さを感じながら時が過ぎてゆくものだったが、暑さ寒さの変化をあまり感じないままでも時は移り過ぎてゆくものだと、再認識させられる二十一世紀なのだろう。
そろそろ秋風が吹いてきたから、そんな気がして時の行くへに驚かされるのではなく
ぼんやりとしてる間に、ふと気付くとカレンダーはいつの間にかめくられているものなのだ
気が付けば臨終の床についている自分に気づくことにならないように、しっかり目をあけて……
遺品のアルバムの整理はおおかた片付いた。
あと少し、今度は自分のことだ
本を整理しなければ、
私が手元に置いておきたい本を残しておくと後の人に迷惑をかける
けれど、まだいいかと大江さん和巳さんは手元に、俳句関係も、仏教も、
フランス革命史は処分した、世界歴史も日本史も漱石もいらぬか⁇
なんせ置くところがないのだから
本棚をひとつ処分することを考えている
50年前に大工さんに頼んで作りつけて作ってもらったふたつの本棚
これまで四度の引っ越しでは手放さずにすんだが
ここで、そのうちの一台の廃棄を考えてる本棚自体がでかい900*1800*400ぐらいだったか
中の本も結構な
ため息が出る
また明日
祈りと願いこのテーマで書こうと思っているのに
あらぬ方向に走ってしまってうまくまとまらないうちに月末が見えてきた。
もう今年もあと二ヶ月。
天候に振り回されて、陽気の加減で時の過ぎるのを見誤ってしまっている
暑さから逃れられずにいても時は過ぎてゆくことを心にはっきりと認めておかないと
これからのこの地球この日本では夏がだらだら過ぎ、気がつくと冬が来ていて年も変わってゆくことになる
また話がそれた
祈りと願いだ
広辞苑では
祈り「祈ること。祈祷。祈願。祈念。」
願い「①ねがうこと。願望。②特に、神仏に望みごとを祈ること。」
とあるが、何だかよく分からない。
辞書でこの程度だから、凡庸に生きている我々にとって区別はほとんどつかない。
つかないが、なんか違うような気がする。
最近、思い始めているのがどうも我々は神や仏に願い事をしてはいかんのではないかな、そんな考えだ。
祈りを捧げるのが本来で願ったりしてはならんのではないかと
何となく伝わるだろうか?
願いには対価を求めるところがあるように思う
祈りにはおそらく対価を求めるような感覚は少ないのではないか
したがって、神や仏には対価を要求してはいけないように思う、
本来神は恐れるものであって、
何か助けてもらえる存在ではなかったはずだ、
それが外国(とつくに)の神が来てから、特に薬師仏や阿弥陀仏が現れてから
それらの仏には願ってもよいようになり、ひいては元からいた神にも願いを始めたような気がする
元へ戻ろう
本来神や仏には願ってはいけないのだ、神や仏には祈りを捧げるものなんだ
そしてその祈りとは他者へ、自分以外の他者のことへの祈りが本来だったのであろう
自分への祈りなんて本来あるべくもない言葉のようにも思う。
「誰それの病気が治りますように」と…
お釈迦さんは仏教という宗教を起こしたのではなく、人が苦しむのはなぜかを考え、苦しまないようにするにはどんな生き方をすれば良いのかを説いた。その教えを後代に伝えていく間にいろんな人が、色んな解釈を付け加えていった。その付け加えられたものがもとのお釈迦さんの言葉をおおっていろいろな色合いがついてこんにちの仏教という宗教になった。だから今ある仏教という宗教には統一するようなものは何ひとつない。同じ仏教でも真反対のことを言っていたりする。
いっときのことをどこへやら
今晩は、3合はのんだろうか
生きていく限り課題がある
課題はあるが、
課題だけで終わってはつまらない
夢がなければ、目標がなければつまらない
もう一度、夢を、目標を、はっきりさせようではないか
いろんな夢があったではないか
朝にその夢を思い出して
祈る
夜にその祈りを振り返ってまた祈る
今日、図書館で借りた中野信子さんの本を読んで、そんな考えに行き着いた
昨日散歩中に雨に降られてずぶ濡れに
そのせいでもないと思うが今朝から頭が重い
今夜は2階でのお仕事をサボって早くから床についた
考えてみればこのところサボってばかり
俳句もろくな句しかできぬ
何とかしてと思うが、喝が入らない
ここんところ夕方に座禅を組んでいるのだが
芳しくない
前は座禅を組んでいると、ああそうだとか、こんな考えもあるとか
雑念かも知れぬがひらめきがあった
それがここんところ今週になってから、何にも思い浮かぶことがない
まあこんなこともあるわいと思っているが、無念だ
日本人はよく無宗教だと言われる。
12月25日をクリスマスケーキやクリスマスプレゼントで祝い
正月には神社で初詣をし
葬式は僧侶を呼んで戒名をつける
こんな多重人格はないとよく言われてきた
それを指摘されてもワハハと笑うだけで、特段反論もしない
こんな日本人をみて呆れられるという
私もそうだが、これはひょっとしたら日本教とでも呼べばいいのかもしれない
別段多重人格なのではない
長年この列島に暮らしてきた人々は、先人と同化しようとしてきたのではなかろうか
断っておくが、ここでいう同化とは同化政策の意味ではない。
例えば渡来人の大半は、土着人たちと同じように山に、川に、岩に、大木にそれぞれ神を見るようになったのではないのか。だから土着の者も渡来人が持ってきた外国(とつくに)の神=仏にもさほど嫌悪感をもたなかったのではないだろうか。
土着の古来の神道は、山に川に岩に大木にそれぞれ神を見る多神教だと言われているが
それは多様性の現れではなかろうか
あなたは今この岩に神を見てこの岩を神聖視する、
私は今この仏像を見てこの仏像に祈りを捧げる
ともにお互いの道ではないかと、だからキリシタンが禁教とされた時代に
隠れキリシタンが生き延びることができたのではないだろうか、
ひょっとして見て見ぬ振りがあったのではないだろうか
今でもそうであるように
ひょっとしたら我ら日本人は最も多様性を享受している民族なのではあるまいか
夜中に何度も目が覚め、挙句の果てに朝寝坊
全く、ていたらくの有様で
それもこれも思い当たるのは
昨日のことか
怠け者を絵に描いたような有様
まともにこなせたのはあさのルーティンだけ、あとはダラダラ
さあ、今日は、
今日こそはというのに朝の寝坊はつらい
こんな時は一つずつこなすこと
当たり前の話だが焦ってもできないことはできない
ひとつづつ、予定を立てて…
そう予定だ、昨日もこれだ、予定を立てずに行き当たりばったりだった。
だいたい朝のルーティンもそうだ
「腹筋、腕立て伏せ、スクワット、ラジオ体操、ウオーキング、歯磨き、片付け、掃除機、雑巾掛け、風呂掃除、玄関掃除、iPad」これだけを10時半までにこなすことにしてるのだが、これだけのことがこなせない
一つか二つ飛ばすことになるが、今朝なんぞまだn半分もこなせてない
腕立て伏せ、スクワット、ウオーキング、ラジオ体操と難関が残っている
まずは予定の組み直しからですね
久方ぶりに昼間家で、ひとりで昼ごはん
パートナーは大学時代のお食事会へ
さあ一人でゆっくりしてと思っていたが
食事の後はお決まりのお昼寝に、目が覚めてから朝のウオーキングでたらなかった三千五百歩やら、何やらで結局大した戦果なく
それどころか、晩御飯の後は二階の整理と思ってたのに
風呂に入ったらその気力もなく、昼間のダラダラが尾を引き
さっさと布団を敷いて横になる始末
まあ今日はこのぐらいにしといたろ
明日からは承知せえへんで
と、吉本新喜劇ばりの悪態
今日の教訓
書くこと、できるだけ丁寧に書くこと、それが思考を助けてくれる。
それが明日へとつなげてくれる
実家から持ち帰ったアルバムの山
これまでに十数冊は分解した、分解して故人の写真は私が私の責任、もとい私の権限で破棄した。
まだご存命の方が写ってる写真は破棄できないので、その方へ還そうかとファイリングしだした。
まだ倍以上残ってる今夜三冊のアルバムを処理するのに小一時間、毎日同じぐらい時間をかけて一週間で終わるかな?