怠るな!

残しておきたいことと残しておいてはいけないこと

飛鳥大仏 日本最古の丈六仏

2024年07月09日 16時50分27秒 | 仏像、仏教、仏法について
現存する我が国最古の仏像を通して見えてくることを考えてみたい。
まずは、その頃の時代を見るべく年表です。

 522年 司馬達等(しばたつと)帰化、仏像崇拝
    司馬達等:古代の渡来人。継体天皇時代に来日、大和国高市郡高市村に住み、その家に仏像を安置して礼拝したという。仏師鞍作止利(くらつくりのとり)はその孫
 538年 仏教伝来、仏像及び経論を献じる(一説552年)
    経論:仏陀の説法を集成した経と経を註釈した論
 550年代 百済より医・易・暦など伝来
 574年 厩戸皇子=聖徳太子誕生
 577年 百済より経論・律師・禅師・仏工・寺工渡来
 585年 物部守屋等、仏寺・仏像を焼き捨てる
 587年 蘇我氏物部氏(守屋)を滅ぼす 
    蘇我馬子法興寺を発願する
 588年 法興寺着工(~96年)この法興寺が後の飛鳥寺
 605年 飛鳥大仏造立開始
 609年 飛鳥大仏完成(聖徳太子35歳)

 ここで注目したいのは百済より仏教が伝来する前に司馬達等により民間レベルで仏像が日本に入ってきていること。そしてその帰化した司馬氏の孫が鞍作止利氏である事です。異国の怪しげな宗教である仏教がそこそこ認められていたということではないのでしょうか?もし禍禍しき存在、疫病神であれば周りからはじき出されていたでしょうに、それとも渡来人の集団は原住民たる古来の日本人を圧倒していたのでしょうか。どちらにしても、百済の聖王から献じられた仏像を欽明天皇が受け取り、また継体天皇の頃から司馬達等氏のように民間レベルでは仏教及び仏像は渡来していたようなので、この時に初めて我が国に仏教が伝わってきたというより百済とのつながりの深さと見ることができるように思えます。その後百済から先端の技術等がさらに伝授されます。
 仏教以外の技術と同様に仏教もこれを受け入れるかどうかおそらく相当な葛藤があったことでしょう。図式として崇仏=蘇我氏、廃仏=物部氏の対立が示されるが、どうもそんなに単純なものでなかったのではないのでしょう。天皇を巡る対立は古来より繰り返されてきたことであり、仏教もその対立軸のうちの一つの要素に過ぎなかったのではないのではないでしょうか?
 わが国では古来より神というものは人知を超えた恐ろしい存在であり、人々に恩恵を与える一方でその怒りは人々に厄災をもたらすと信じられてきました。当然新しく入ってきた仏教もどんな恩恵が得られるのか、あるいはどんな厄災があるのかおそらく興味津々ではなかったのでしょうか。仏教が入ることで疫病が流行ったり、日照りが続いたり、大雨になったりそんなことが続けば当然「祟りじゃ」とばかり寺や仏像を焼き捨てるするようなことが起こったのでしょう。ところがそうやって仏教にひどい仕打ちをすればさらに前にもまして厄災が訪れたりする……。現世利益があると信じられて日本に入ってきたようですね
 そして587年 蘇我氏が政敵の物部氏に打ち勝ったのです。推古天皇の時代になり蘇我馬子が飛鳥大仏を造立しました。 蘇我馬子が権力を一手にし、その象徴となる仏像を帰化した渡来人司馬達等の孫である止利仏師に命じて大仏を作らせたのです。馬子の絶頂期でしょうね。法隆寺と同じ釈迦三尊像(花崗岩の台座上面の痕跡から分かったそうです)で、のちに作られる法隆寺のものよりはるかに大きいい丈六仏(釈迦は一丈六尺の身長だったと大乗仏教では伝えられて居り、釈迦の等身大仏を丈六仏と言います)であり、さらに金箔が施された金銅仏(頬の辺りにわずかに残る鍍金でわかるそうです)だったのです。見上げるほどの大きさでまばゆいばかりの金色の釈迦三尊像。当時これを見た人々の驚きはどんなだったでしょうか。法興寺は四天王寺や法隆寺よりも大きく塔を中心に三金堂がそれを囲む一塔三金堂式の大伽藍だったようです。
 
 622年 聖徳太子逝去
 626年 蘇我馬子死
 642年 蘇我入鹿執政
 643年 蘇我入鹿、山背大兄王及びその一族を滅ぼす
 645年 蘇我氏滅ぶ 大化の改新始まる

 聖徳太子に続き蘇我馬子も亡くなって、馬子の孫の入鹿が聖徳太子の子山背大兄王一族を滅ぼした。翌年にはその蘇我氏も滅ばされることになる。蘇我氏が滅亡したのち、飛鳥寺は1196年雷火のため炎上した。さらに残念なことに建長七年(1255年)何度目かの落雷のため、飛鳥大仏は大きな損傷を受け、当時の記録では頭部と手のみが残ったとあり、後世に補修されて現存大仏の額と目の辺り右手の中央三指のみが当初の姿だそうです。


(写真は飛鳥園)
釈迦如来坐像=通称飛鳥大仏
飛鳥時代推古天皇十七年(609年)
止利仏師作 銅造、鍍金
像高275.2㎝(丈六仏)


 私が初めてこの仏像を見たのは、高校2年生の夏でした。
クラブ活動の一環で飛鳥の寺々を回った時です
一見して何とグロテスクなと思ったことを覚えています
寺の方は盛んに大きさのこととこのお堂によく入ったでしょうと説明されていました。
現存する最古の仏像との説明もあったかもしれないがよく覚えていない。

土門拳氏が古寺巡礼にこう書いてらっしゃいます。
「初めて見た『日本最初の丈六銅仏』は、正視に堪えられないほど醜怪に見えた。つまり何度も火災に遭って焼けただれ、それにまた拙劣な補修を加えている醜怪な点だけが眼にはいったのである。それは初めて広島原爆病院で被爆者のケロイドの肌を見たときと同じに、寒気のする薄気味悪さだった。『これは撮るのを止そう』と、私は助手連中をうながすと早々に逃げ出した。」

大きく見開いた杏仁形(ほぼ紡錘形)の両眼。

写真は土門拳氏

さらに右手の残された指をよく見ると長く伸ばした爪に止利仏師の技術が見えてきます。

写真は土門拳氏

土門氏の文章はこう続きます。
「しかし第一集で法隆寺金堂本尊釈迦坐像の解説記事を書いているとき、調べれば調べるほど、『日本最初の丈六銅仏』がどうしても閑却できない存在であることがわかってきた。『しまった』と思ったが後の祭りである。そこでこの集(古寺巡礼第二集)の撮影にあたって、真っ先に飛鳥寺へ行った。不思議なことに、二度目に見た丈六銅仏は、さして醜怪には見えなかった。わたしの眼が、醜怪だらけの中から、僅少ながら造顕当初のままに残る部分を、意識しない意識で、選り分けて見ていたのであろう。造顕当初のままに残る僅少な部分を、醜怪な全体から選り分ける作業は、砂浜でさくら貝の小さな貝殻をさがすような楽しさがあった。それから、わたしは、何度も何度も飛鳥寺へ通うことになった。その度に、丈六銅仏は、わたしにとって味の濃い魅力にあふれた仏像となっていった。」
 飛鳥寺(現安居院)へ行って飛鳥大仏と向き合って「砂浜でさくら貝をさがすような楽しみ」を味わってみましょうか。

 私が高校時代に始めた仏像巡り、数年後に岡部伊都子さんの本に出合いました。「みほとけとの対話」です。それまで自分の感情のおもむくままに仏像と対峙していたのですが、岡部さんの言葉で新たな視点を教えていただいたように思います。

 最後に岡部さんがこの飛鳥大仏について書かれた「ひと目ぼれ」の一文とその写真です。

写真は五味義臣氏

 「めったに、写真では心動かされないつもりの私なのに、はじめて、この飛鳥大仏の写真をみたときは、あっと思った。いわゆるひと目ぼれである。知的な、近代的なたしなみをもった、ほろにがい細面。これは、思索しないではいられない青年の強い意思を秘めているようにも思われる。
 美しい杏仁形の目を見ていると、後世の仏像の堕落がよくわかるほど、みずみずしい生命がある。さとりきった顔ではない。仏臭さはない。『こういうりりしい青年がいたら』などと、夢をえがいてしまう。日本最古の大仏、千三百年以前の面影に恋慕しなくてはならぬというのは現代の女としての不幸かもしれない。
 すごくいたんで、つぎはぎだらけだが、その荒れもまたいい。それに、私は、なんのくふうも示さないで、ぬっとつき出している施無畏印の右手が大好きだ。美しくはないが、あたたかさの感じられる分厚い手の魅力。こんな手になら安心してすがってゆける。」

 岡部さんの文章を読み終わってこの五味さんの写真をみると本当に飛鳥大仏が青年の面立ちに見えてきそうです。

 そう確かに日本に仏教が足を踏み入れだしたころ、日本の神々と交流を始めだしたころ、いわば渡来仏教は青年期だったのかもしれません。

 これまで見てきたように我が国への仏教伝来は、渡来人を通じて民間レベルで始まり、数十年後に百済より正式に国王から国王へ仏像を献上するかたちで始まったようです。また我が国での広まり方は聖徳太子に見られるように支配者層が信仰するといったいわば在家仏教だったようです。また法興寺の発願や飛鳥大仏の建立のように数年にわたる国家プロジェクトが始まったのです。


参考資料:末木文美士氏の「日本仏教史」新潮文庫、村田靖子氏の「もっと知りたい奈良の仏像」里文出版、「広辞苑」岩波書店、「日本史年表」吉川弘文館、岡部伊都子氏の「みほとけとの対話」淡交社

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