千葉県管理教育シリーズ、中学、高校編である。
中学にはいると、小学校時代「ジェンダーフリー」だった体罰は、明らかに女に対しては少なくなったように思う。だが、当時世間は校内暴力全盛時代。暴力を防ぐ=暴力を通じて管理する、という公式だったのか、男子生徒に対しては、相変わらず殴る、蹴るの体罰が続いていた。自分自身が暴力をふるわれなくとも、他人がふるわれている様を目の前で見させられると、同じような心理的圧力がかかってくる。しかも、あの小学校時代を過ごしてきた記憶も生々しいわけだ。
中学にはいって制服が導入されると、生徒手帳に細かく書かれた校則により、髪型、制服のスカート丈などが細かく規制されるようになった。そして、体操服には名前が大きく書かれたゼッケンがあった。服装を通じての「管理」は、より細かいところまで行き届く状況になったわけだ。そして、前回エントリのコメント欄で出てきた、監視に基づいてお互いを密告する、恐武ュ治的なクラス文化もまだ続いていた。
とくに私の中学一年の時の担任は、密告文化を制度化していたといえる。彼はある時、「クーャ東煤vなるものの発行を始めた。自分をシンボル化したマークが書いてあるその「クーャ東煤vを全員同じだけの数、生徒に配布した。そして、忘れ物をするとか、誰かに悪さをしたとかなると、そのクーャ東狽ェ没収されるのだ。クーャ東狽ェ没収される人々がいる一方、「よいことをした」とされる生徒には、クーャ東狽ェ渡される。そして、クーャ東狽ェたまった生徒は、「評定衆」とよばれるグループに入ることになり、座席も暖かい窓際の日なたをとれたり、何かと優先的に扱われる。反面、クーャ東狽ェなくなってしまい、借金状態になった生徒は、「少年院」と呼ばれるグループに入ることになり、座席は廊下側の寒いところにまとめて座らされ、土曜には居残りで説教され、反省文を書かされるのだ。
今なら人権問題として大問題になりそうなことである。当然ながら、この「評定衆・少年院」システムは密告文化を醸成する。ようやく洗脳状態だった小学校時代を終わり、中学になって反抗心が芽生えてきていた私は、この制度はおかしいと担任に抗議した。それ以来、担任との間は険悪になった。反抗するためには、ヘンなことで揚げ足をとられないよう、なんとしてでも「少年院」にはいらないように、「評定衆」ステータスを保った上で反抗しよう、などと、わけのわからない余計なプレッシャーを自分にかけるようになったように思う。
中学2~3年の担任もまたすごかった。すぐにかっとなる性格だった彼は、マラソン大会だかの後で生徒の父母らがお汁粉を作ってくれるという時に、お汁粉が嫌いで食べられなかった生徒に対して激怒。お汁粉を配布していた父母らの目の前で、何人かの生徒を鼻血が出るほど往復びんたをし、殴りまくった。はっきりいって、そっと「食べられません」といって残してくれたほうが、作った側としてもよほど有り難いことだろう。また、突然「3ヶ月ほど前のキャンプで夜中にトイレに行ったものがいる!時間外に飲み食いしていたからに違いない」などといって烈火のごとく怒りだし、本来あるはずだった音楽の授業をぶっつぶして、一時間ずっと怒鳴り散らしていたこともあった。3か月前のことで、しかも人間、夜中にトイレに行きたくなるときだってあるだろう。そんなことでこんなに怒るか、、と唖然だった。時折抗議することもあった私と、この教師の間もひどく険悪なものだった。
そして高校である。県立の女子校だったが、県立の中でも、どう考えても管理厳しめのところに行ってしまったようだ。校訓のひとつは「清純」、校歌は「操」がどうとか、「御国のために」どうたらとかいうコワい内容で、「千葉の母を育てる」とか何とか校長が威張っていた(私はこの良妻賢母教育の大失敗例だといえよう)。なぜだかわからないが、制服の袖部分を折ると怒られ、スヌーピーなどのキャラクターが描いてあるかばん禁止。ワンャCントのついている靴下禁止(は中学のほうだったかな?)もちろんバイト禁止、免許取得禁止、、と、これも禁止のオンパレード。なんとなく学生たちは皆、似た雰囲気をもつようにになっていったように思う。いる間はそれなりに楽しかった気がするが、出てみて異様さがわかった、という感じの高校だった。
だが、ひとつ印象的だったのは、わざわざ女子校を選んできた理由として、「校内暴力」を挙げていた同級生がけっこういたことだ。当時の千葉県では(おそらく全国的に?)校内暴力状態が相当ひどかった地域も多く、毎日窓が割られたりで、授業などほとんどなかったと言っていた。彼女たちは「女子校だったら、ああいうことはないだろう」と思って来た、と言っていたのを覚えている。
前回書いた戦前女子教育の名残的なマスゲームへの異様な熱意のほかに、この高校は「ぞうきんがけ」への異様な熱意をもっていたように思う。体育館で体育の授業がある度に、あの足腰がひどく疲れる、鍛錬系ぞうきんがけを行わさせられる。それを考えるだけで、体育館での体育は憂鬱だった。保健室は、ぬかぞうきんを使って必死に磨かされた。あ、そういえば小学校時代も、あの学校は木の床そうじにワックスがけを、やたらしょっちゅうやらされていたのを思い出した。
いちおうこれで、体験ストーリー的には一段落かな。でもまた何か思い出してしまうかも・・、恐るべし千葉管理教育。6回もこんな長いものを書くことになるとは思わなかったぞ。
ちなみに、東葛地域においては、小学校より中学校の管理教育のほうが激しかったという印象をネットの記述からは受ける。八千代市は、私の経験では、何といっても小学校が最悪だった。。。
中学にはいると、小学校時代「ジェンダーフリー」だった体罰は、明らかに女に対しては少なくなったように思う。だが、当時世間は校内暴力全盛時代。暴力を防ぐ=暴力を通じて管理する、という公式だったのか、男子生徒に対しては、相変わらず殴る、蹴るの体罰が続いていた。自分自身が暴力をふるわれなくとも、他人がふるわれている様を目の前で見させられると、同じような心理的圧力がかかってくる。しかも、あの小学校時代を過ごしてきた記憶も生々しいわけだ。
中学にはいって制服が導入されると、生徒手帳に細かく書かれた校則により、髪型、制服のスカート丈などが細かく規制されるようになった。そして、体操服には名前が大きく書かれたゼッケンがあった。服装を通じての「管理」は、より細かいところまで行き届く状況になったわけだ。そして、前回エントリのコメント欄で出てきた、監視に基づいてお互いを密告する、恐武ュ治的なクラス文化もまだ続いていた。
とくに私の中学一年の時の担任は、密告文化を制度化していたといえる。彼はある時、「クーャ東煤vなるものの発行を始めた。自分をシンボル化したマークが書いてあるその「クーャ東煤vを全員同じだけの数、生徒に配布した。そして、忘れ物をするとか、誰かに悪さをしたとかなると、そのクーャ東狽ェ没収されるのだ。クーャ東狽ェ没収される人々がいる一方、「よいことをした」とされる生徒には、クーャ東狽ェ渡される。そして、クーャ東狽ェたまった生徒は、「評定衆」とよばれるグループに入ることになり、座席も暖かい窓際の日なたをとれたり、何かと優先的に扱われる。反面、クーャ東狽ェなくなってしまい、借金状態になった生徒は、「少年院」と呼ばれるグループに入ることになり、座席は廊下側の寒いところにまとめて座らされ、土曜には居残りで説教され、反省文を書かされるのだ。
今なら人権問題として大問題になりそうなことである。当然ながら、この「評定衆・少年院」システムは密告文化を醸成する。ようやく洗脳状態だった小学校時代を終わり、中学になって反抗心が芽生えてきていた私は、この制度はおかしいと担任に抗議した。それ以来、担任との間は険悪になった。反抗するためには、ヘンなことで揚げ足をとられないよう、なんとしてでも「少年院」にはいらないように、「評定衆」ステータスを保った上で反抗しよう、などと、わけのわからない余計なプレッシャーを自分にかけるようになったように思う。
中学2~3年の担任もまたすごかった。すぐにかっとなる性格だった彼は、マラソン大会だかの後で生徒の父母らがお汁粉を作ってくれるという時に、お汁粉が嫌いで食べられなかった生徒に対して激怒。お汁粉を配布していた父母らの目の前で、何人かの生徒を鼻血が出るほど往復びんたをし、殴りまくった。はっきりいって、そっと「食べられません」といって残してくれたほうが、作った側としてもよほど有り難いことだろう。また、突然「3ヶ月ほど前のキャンプで夜中にトイレに行ったものがいる!時間外に飲み食いしていたからに違いない」などといって烈火のごとく怒りだし、本来あるはずだった音楽の授業をぶっつぶして、一時間ずっと怒鳴り散らしていたこともあった。3か月前のことで、しかも人間、夜中にトイレに行きたくなるときだってあるだろう。そんなことでこんなに怒るか、、と唖然だった。時折抗議することもあった私と、この教師の間もひどく険悪なものだった。
そして高校である。県立の女子校だったが、県立の中でも、どう考えても管理厳しめのところに行ってしまったようだ。校訓のひとつは「清純」、校歌は「操」がどうとか、「御国のために」どうたらとかいうコワい内容で、「千葉の母を育てる」とか何とか校長が威張っていた(私はこの良妻賢母教育の大失敗例だといえよう)。なぜだかわからないが、制服の袖部分を折ると怒られ、スヌーピーなどのキャラクターが描いてあるかばん禁止。ワンャCントのついている靴下禁止(は中学のほうだったかな?)もちろんバイト禁止、免許取得禁止、、と、これも禁止のオンパレード。なんとなく学生たちは皆、似た雰囲気をもつようにになっていったように思う。いる間はそれなりに楽しかった気がするが、出てみて異様さがわかった、という感じの高校だった。
だが、ひとつ印象的だったのは、わざわざ女子校を選んできた理由として、「校内暴力」を挙げていた同級生がけっこういたことだ。当時の千葉県では(おそらく全国的に?)校内暴力状態が相当ひどかった地域も多く、毎日窓が割られたりで、授業などほとんどなかったと言っていた。彼女たちは「女子校だったら、ああいうことはないだろう」と思って来た、と言っていたのを覚えている。
前回書いた戦前女子教育の名残的なマスゲームへの異様な熱意のほかに、この高校は「ぞうきんがけ」への異様な熱意をもっていたように思う。体育館で体育の授業がある度に、あの足腰がひどく疲れる、鍛錬系ぞうきんがけを行わさせられる。それを考えるだけで、体育館での体育は憂鬱だった。保健室は、ぬかぞうきんを使って必死に磨かされた。あ、そういえば小学校時代も、あの学校は木の床そうじにワックスがけを、やたらしょっちゅうやらされていたのを思い出した。
いちおうこれで、体験ストーリー的には一段落かな。でもまた何か思い出してしまうかも・・、恐るべし千葉管理教育。6回もこんな長いものを書くことになるとは思わなかったぞ。
ちなみに、東葛地域においては、小学校より中学校の管理教育のほうが激しかったという印象をネットの記述からは受ける。八千代市は、私の経験では、何といっても小学校が最悪だった。。。
しかし、こんなことされていたら、きっと反抗心が芽生えて、この教師たちがやったことと反対の生き方をしている人が増えているのではないだろうか?? 反管理教育に燃えていたりして!
気になって、仕事が手につきません!
私は反管理教育に燃える側になってしまったけど、あの頃同じ目にあっ
ていた、他の人たちはどうなっているんだろうね。annntonioさんの八
千代報告を期待しています。annntonioさんのいらっしゃった地域は、
わりと古い街のエリアだったと思うのだけど、私がいたのは新興開発の
団地エリア。いまだにあの地域に残っている同級生も、たぶんかなり少
ないのではなかろうか。。
私の学校はある意味、教師側による暴力的管理が行き届いていたのか、
それとも中学になって管理が若干、小学校に比べて緩くなったからかわ
かりませんが、近隣の市の学校よりは校内暴力はひどくなかったような
気がします。だけど、暴力的環境っていう面では同じなんですよね
え。。校内暴力や学級崩壊と、それ以前の管理教育との関係については
私も知りたい!!
うわぁ~なんてタイムリーなんだろうと思って管理教育シリーズの記事を一気に読みました。
千葉県の東葛地域の公立中に子どもが通っていまして、このたび初めて校長・教頭と校内と通学時の服装についてお話しする機会を得たばかりなのです。
なぜ一日中体操服なのか、TPOに合わせた服装をさせることも教育の一環ではないのか、またなぜ通学時に重ね着させるのか、どこの大人が作業服の上に背広を着て通勤しているというのだ・・・と率直な意見を述べたところ、校長・教頭はこれまでの教師経験でそのような意見を保護者からいただいたのは初めてですとのことでした。地域ぐるみで校内着=体操服を推奨しているのですね。
重ね着についてはそのような指導は一切していませんとのことでしたが、登校して着替える場所がなければ下に着ていくしかないですよね(女子更衣室はありますが男子更衣室はありません)。しかも制服の下にショートパンツをはくことを教頭は「ジャージがおかしいのは分かりますが、ショートパンツもおかしいですか?」と。ええ、おかしいと思います、ショートパンツも制服もそれぞれ単独に着用するものだと思いますって答えましたがご理解いただけたかどうか…
私自身は70≠W0年代に都内で初等・中等教育を受けました。だからともみさんと同世代ですね。子どもがちょうど入学する時期に家庭の事情でこの地域に引っ越してきたのですが、ほんっと子どもにはかわいそうなことをしました。下の子はまだ小さいのですが、もうこの地域の義務教育を受けさせたくないので引越かお受験を考えてます。長々とお邪魔しました。それでは。
ら、教育環境は相当違ったんでしょうね。しかし、さすが東葛地方。いま
だに体操服強制なんですか。教師も千葉育ちだとしたら、おそらくあまり
に当たり前のことになってしまっているのかも。たしかに、私も昔は必ず
ブルマは洋服の下に着て登校していたような記憶が・・
帰りの会でいわれちゃうって、、あまりにありうる展開!ほとんどそれ
と変わらない世界でしたもんね、八千代市の公教育。「愛国心」を強調
するということは、あの八千代の世界に戻っていくことにつながるだろ
うと私も思います。
4階で自転車にのるお兄さんたち、なかなかすごいですね。たしかにカ
ウンターカルチャー系の動き、あの頃でてきてましたね。そして、お
ニャン子世代でもある。。。ちょうど高校の頃、おニャン子がはやって
いました。「女子高生」が商品的に価値をもった最初の頃ともいえるの
か。
サディスト、支配者になりたい性質の持ち主が教師になるケースが多いのでしょうか?
テムはどうなってたんだろう?と思います。そして、教育委員会や管理職
からのプレッシャーも厳しかったのかなあと。。
『御國のために』云々と言う歌詞は福岡あたりの高校の校歌にも多いと聞いています。しかし、管理教育や右翼的な教育は田舎に特有のものだと思っていたのですが、東京のベッドタウンの千葉などにもあるのですね~
東京の通勤・通学圏といえば、私のような四国の僻地出身者にとっては押しも押されぬ都会というイメージなのですが。。。