後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今日の武蔵野公園のユキヤナギの写真をお楽しみ下さい

2015年03月22日 | 写真
今日は春の陽気です。近所ではパンジー、サクラソウ、菜の花、コブシ、モクレン、レンギョウ、ユキヤナギ、ショカツサイ、ツバキなどが一斉に咲き出しました。家内が走り回って、いろいろな花の写真を撮って来ました。
桜はまだですがつぼみが膨らんでいました。
武蔵野公園で撮ったユキヤナギの写真を5枚お送りいたします。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。









「宗教的訓練という言葉」

2015年03月22日 | 日記・エッセイ・コラム
あれは随分と昔の1962年の頃でした。アメリカの大学に留学していた頃に、履歴書に自分の受けた宗教的訓練を書くと就職がしやすくなるという話を聞いたのです。宗教的訓練とは何歳から何歳まで教会に行ったとか、日曜学校に何年間行ったとかいう事を書けば良いそうです。それがあれば就職のとき採用されるというのです。では仏教徒はどうすれば良いのでしょうか?アメリカ人の同級生が、お寺詣りを何年間したとか座禅を続けて何歳から何歳までしたとか適当に書けば良いと教えてくれたのです。そして絶対に無宗教と書いてはいけないと真顔で忠告してくれたのです。
それ以来、「宗教的訓練」という言葉が心に残り、忘れられなくなりました。
現在のアメリカ社会も随分と変わり、もう就職のときに「宗教的訓練」は問題にされなくなったようです。
しかしアメリカ人は何事においても訓練を重視します。
そして私の考え方もアメリカ的な訓練を受けた期間があるのでアメリカ人のように思っています。
特にキリスト教の洗礼を受けた1971年以後は自分の信仰は宗教的訓練の繰り返しによって強められると信じています。聖歌を歌い、教会の行事に参加したり、日曜毎のミサに出るのもすべて宗教的訓練です。クリスマスや復活際に参加するのもすべて宗教的訓練なのです。そのお蔭で私はかろうじてカトリックの信仰を続けられるのです。
そして宗教的訓練の重要性はどんな宗教でも同じです。
仏教ではそれを修行と言います。修行をしないとお釈迦様の教えを信じられないのです。修行しなければ仏教を信じられないのです。修行をしないで仏教の批判をしてもそれは的外れな非難になってしまうのです。
それでは修行と宗教的訓練の違いは何でしょうか?
修行は苦しいことを意志的に克服して実行します。苦行が必ずある程度含まれています。
一方、宗教的訓練は苦行的要素はなりべく少なくなるよに知恵が絞られています。ミサなどは歌をつないで楽しい合唱が挟まっています。特にロシア正教では上質の音楽的な楽しみの連続になっています。
仏教の「声明」と同じようです。
宗教を楽しみながら信仰を続行するようにすれば、宗教は本当に楽しいものになります。
1962年の頃、アメリカの大学で聞いた宗教的訓練という言葉を53年後の現在も大切にしています。それが楽しいから長つづきするのです。
今日の挿絵の写真は庭に咲いている4種類の椿の花です。順々に白鳥、曙、乙女、山椿です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)