後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

急に桜が満開になりました

2015年03月29日 | 写真
今日は朝は晴れ、のち曇りでした。夕方には小雨も降って来ました。小金井市の近辺のあちこちのソメイヨシノの桜花を求めて、毎年見物に行くお気に入りの場所を数ケ所行きました。
写真の順にカトリック小金井教会の前の桜、そして続く2枚は貫井神社前の野川の桜、4番目の写真は本町公務員住宅の桜、5番目は武蔵境の桜堤団地の桜、6番目は国際キリスト教大学の桜、そして最後は多磨墓地内の桜です。
明日、晴天になったら写真を撮りなおしに再度行ってきます。
櫻の開化状況をご報告するために不鮮明な写真ですがお送りいたします。
みなさまのお住まいの地域の桜の開花状況は如何でしょうか?甲子園は雨でしたね。













今日は日曜日なので宗教に関することを書きます

2015年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム
全ての宗教には優劣がありません。原始宗教や高等宗教も同じように重要なのです。
全ての宗教は平等に重要であり、どんな宗教や宗派にも優劣が無いと私は信じています。
しかし私は古いキリスト教が好きです。宗教改革の前から受けたつがれて来たカトリックやロシア正教が好きです。マルチン・ルターの宗教改革のおかげで、カトリックの悪習や政治権力との融合が無くなり随分と改良されました。それも含めて、私は何故か古いものに魅力を感じます。
とくにカトリックは1549年にザビエルによって日本へもたらされました。他のキリスト教の全ての宗派は江戸末期か明治時代になってから日本へやって来ました。
今日は私の個人的な好みに従ってカトリックからはヨハネ・パウロ2世とロシア正教からは
ニコライのことを紹介したいと存じます。
====傑出していたローマ法王、ヨハネ・パウロ2世のこと===
2枚の写真の初めの写真は1920年にポーランドで生まれ、12歳の時の写真です。
次の写真はローマ法王当時の写真です。(2005年4月2日、84歳で旅立ちました)



このヨハネ・パウロ2世が2011年に福者に列せられるという決定が、ローマ法王、ベネディクト16世から正式に発表されました。福者とはカトリックの聖者の次の名誉称号であり、いずれ聖者になる可能性が大きいのです。
ヨハネ・パウロ2世が死後6年足らずで福者に列せられるのは異例のことで、如何に傑出した法王だったかの証です。
彼の偉大な功績は、法王なのに巡礼のように世界中を隅々まで旅をして、各地の言葉でミサをたて、洗礼式や叙階式をした事です。日本へも1981年に来て、長崎へも巡礼の旅に行きました。これほどローマ法王が身近に感じ、親しく感じた事はありません。
ポーランドの連帯代表のワルサさんに会いに行き、ポーランドの自由化を支援した事も忘れられません。
もう一つの偉大な功績は、いろいろな宗教間の和解運動を進めたことです。カトリック教会の過去の間違いにも謝罪しました。ガリレオの裁判も間違いだったと謝罪したのです。本当に温かい血の通ったローマ法王でした。十字軍も間違いだったと謝罪したのです。
ヨハネ・パウロ2世のお葬式へは世界中の国家元主が出席しましたが、日本政府からは首相クラスの人は出席しなかったのです。ヨハネ・パウロ2世は偉大でした。傑出していました。熱い血の通った人でした。
次は、ロシア正教のニコライ・カサートキンという人のことをご紹介します。
====神田のニコライ堂を建てたあるロシア人の物語=====
ロシア正教は他の東方教会とともにマルチン・ルターの宗教改革の洗礼を直接は受けませんでした。ですから本当に古いタイプの宗派です。
ニコライは1836年にロシアのある農村で生まれ、明治維新の7年前の1860年、24歳の時日本へ宣教のために行く決心をします。そして翌年、函館に着いてから終生日本に居ました。もっとも短期間、2度、祖国へ帰ったことはありましたが。
 函館に着いた1861年はまだ江戸時代です。それから51年後の1912年、75歳で永眠し、谷中の墓地に葬られ日本の土になりました。

この写真はニコライです。
函館着任後に血の滲むような努力をし日本語を習得します。書道も研鑽し、日本の歴史や佛教も勉強しました。古事記や日本書紀も読破する勉強家でした。
ニコライの日本を愛する心は強く、数々の感動的なエピソードが残っています。
今日はその中から一つをご紹介します。
1904年、1905年は日露戦争でした。戦争勃発と共に在日ロシア人は一斉に帰国して行きます。ロシア公使のローゼン男爵もニコライに帰国するように薦めます。ニコライは静かに断ったそうです。そして言うのです、「私はロシアに仕える者ではない。主ハリスト(主キリスト)に仕える者である。」と。
残留した理由は、日露戦争の間、日本人信者が迫害されるのを予想し、彼らを勇気づける為に残ったと考えらています。案の定、ロシア正教の日本人信徒は「露探」(ロシアのスパイ)と罵倒され、聖堂や集会所が暴徒の襲撃を受けたのです。
ニコライは教書を発表し信徒を慰めます、「我々には地上の祖国の他に、天に国がある。天の国には民族の別無く皆が平等に生きている。なぜなら全ての人々は皆同じ父(神)の子であり、お互いは皆兄弟であるからです。我々の属する国は主である神が作った教会なのです。信者は平等な会員なのです。天の神、すなわち我らの父の一つの家族としてとどまり、その家族としての義務をそれぞれに果たすようにしようではないか!」
ニコライは日本人信徒の一人一人を強く愛していたのです。ロシアへ逃げ帰るなど考える筈がありません。
1912年、持病の心臓病が悪化し、聖路加病院で天に帰りました。駿河台のニコライ堂から谷中の墓地まで、葬列を見送る人垣が沿道の両側を埋め尽くしました。明治天皇からの「恩賜の花輪」を抱きかかえた人が葬列の中に見えます。(葬列の写真10枚ほどを見ながら書いています) 
関東大震災で焼失したといわれていたニコライの日記の日本語全訳は2007年に刊行されました。(『宣教師ニコライの全日記』教文館全9巻)。
列聖以降、日本の亜使徒聖ニコライ、聖ニコライ大主教と呼ばれています。記憶日(祭日)は2月16日(ニコライ祭)です。
・・・如何でしたか?お茶の水のニコライ堂のそばを通るこいとがあったら上の話を思い出して下さい。
それはそれとして、今日も皆様の健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)