後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「小金井公園の中にある『江戸東京たてもの園』へのお誘い」

2022年04月30日 | 写真
広大な小金井公園の中央奥に『江戸東京たてもの園』があります。古い商店や住宅が復元され展示されています。 
 東京都は1993年(平成5)東京都江戸東京博物館の分館として敷地面積約7haの広い「江戸東京たてもの園」を作りました。そして文化的価値の高い昔の商店や住宅を移築し、復元展示しています。今日は入場料を払って丁寧に写真を撮って来ました。4枚の昔の商店の写真と3枚の昔の住宅の写真をお送り致します。詳しくは、https://www.tatemonoen.jp/ をご覧下さい。
1番目の写真の中央が武居三省堂(文具店)で右端は花市生花店 です。左端はうどん屋です。武居三省堂は明治初期に創業した文具店です。当初は書道用品の卸をしていましたが、後に小売店に変わりました。
建物は震災後に建てられた「看板建築」で前面がタイル貼りになっていて屋根の形にも特徴があります。 
2番目の写真は村上精華堂です。台東区池之端の不忍通りに面して建っていた小間物屋(化粧品屋)です。昭和前期には、化粧用のクリーム・椿油や香水等を作って、卸売りや小売りを行っていました。 イオニア式の柱が当時としてはとてもモダンです。
3番目の写真は鍵屋(居酒屋)です。
台東区下谷の言問通りにあった居酒屋です。震災・戦災をまぬがれた鍵屋は、1856年(安政3)に建てられたと伝えられています。建物と店内は1970年(昭和45)頃の姿に復元しています。 
4番目の写真は小寺醤油店の店先です。大正期から、現在の港区白金で営業していた店です。味噌や醤油、酒類を売っていました。
5番目の写真は田園調布の家(大川邸)です。1925年(大正14)郊外住宅地の一つである大田区田園調布に建てられた住宅です。
居間を中心に食堂・寝室・書斎が配置されています。また、当時としては珍しく全室洋間となっています。 
6番目の写真はデ・ラランデ邸です。この住宅は、元は平屋建ての洋館でしたが、1910年(明治43)年ころ、ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデにより3階建てとして大規模に増築されました。新宿区信濃町に建っていました。
7番目の写真は三井八郎右衞門邸です。
港区西麻布に1952年(昭和27)に建てられた邸宅です。
客間と食堂部分は、1897年(明治30)頃京都に建てられ、戦後港区に移築されたものです。 


「日本人の油彩画(3)夭折の画家、 中村彝のエロシェンコ氏の肖像画」

2022年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム
中村彝(なかむらつね)は結核に苦しみながら感動的な油彩画を沢山描いて37歳で亡くなった夭折の画家でした。私は何年も前に水戸の近代美術館で彼の特別展を見た時の強い衝撃を忘れません。そして新宿の中村屋には何度も行って壁に掛かっている中村彝の絵画を見ていました。
油彩画はどれも暗い色で人間の苦悩と美しさを描いたものです。風景を描いても静物画を描いても何か 中村彝の苦悩が滲んでいるのです。深い精神性を感じさせるのです。特に日本の重要文化財に指定されている「エロシェンコ氏の肖像画」はロシアの詩人エロシェンコの盲目の苦しみと強い情熱が描いてある彼の傑作です。そんな絵画を写真でお送りします。

1番目の写真は大きさ45.5×42cmの「エロシェンコ氏の肖像画」です。1920年(大正9年)に描かれた油彩画で現在は東京国立近代美術館に展示してあります。国の重要文化財です。
エロシェンコの像は盲目の詩人の内に秘めた精神性と内面的なものを感じさせる肖像画の傑作です。中村彝の“心の内”が投影された、いわば彼の自画像とも言はれてる作品です。
なおエロシェンコの生涯は末尾の参考資料にあります。

2番目の写真は下落合の「中村彝アトリエ記念館」に展示してある1914年の描かれた「少女像」です。
中村は1911年新宿中村屋の相馬夫妻の厚意で新宿中村屋裏のアトリエに引っ越します。絵のモデルは相馬家の長女「俊子」です。彼女との恋愛を反対され中村彝は失意のうちに新宿中村屋を去ります。
俊子はそののち、中村屋にかくまわれていたインド革命の士ラス・ビハリ・ボースと結婚しました。

新宿中村屋の創業者の相馬愛蔵氏と奥さんの黒光さんは明治、大正、昭和の始めにかけて深い人類愛と芸術へ対する尊敬を持ち、数多くの芸術家を情熱的に支援してきたのです。その正確な歴史的記述は「中村屋サロン」と題する、HP: http://www.nakamuraya.co.jp/salon/p01.html にあります。

3番目の写真は彝のアトリエ裏手の風景『目白の冬』です。中央に描かれてあるのがメーヤー館(宣教師の住居)で右端に描かれてあるのが英語学校です。

4番目の写真は福島の海岸の風景です。彝が21歳の頃転地療養中に福島県いわき市に滞在した時の作品です。板に描かれているので絵具が薄い部分は下地の木目が見えています。それが海の透明感や海中の岩を感じさせています。暗い色彩ですが美しい絵です。

5番目の写真は1919年、大正8年に描かれた「静物」です。現在は茨城県近代美術館が所蔵しています。

さて中村 彝(1887年 - 1924年)は大正期にかけての洋画家でした。(https://ja.wikipedia.org/wiki/中村彝 )
1887年(明治20年)、茨城県仙波村(現在の水戸市)に生まれました。父は彝が生まれた翌年に没し母も彝が11歳の時に没し、淋しい少年期を過ごします。
1904年(明治37年)祖母が死に、唯一生き残った姉が嫁いでからは天涯孤独の身となり一人暮らしの境遇になったのです。
その上、彝自身も結核を病み療養のため折角入学した陸軍中央幼年学校を中退します。
1905年(明治38年)、18歳の時に転地療養のため千葉県北条湊(現在の館山市)に行き、彝はこの地で水彩スケッチを始めたのです。翌年から白馬会研究所、次いで太平洋画会研究所で洋画の勉強をするが、その間にも千葉県などへ転地療養を繰り返しています。
1909年(明治42年)22歳の時に第3回文展に初入選します。
1910年(明治43年)には第4回文展で『海辺の村』が3等賞となり作品は実業家の今村繁三が購入します。
1911年(明治44年)、新宿・中村屋の主人・相馬愛蔵夫妻の厚意で、中村屋の裏にある画室に住むことになります。

1913年(大正2年)~1914年(大正3年)にかけての彝の作品には相馬家の長女の俊子をモデルにした裸婦像が数点あり2人は親密な関係だったのです。彝は俊子に求婚するが結核を理由に反対されます
その後の1916年に新宿区下落合にアトリエを構え、以後、彝は亡くなるまでこのアトリエでで油彩画を描き続けたのです。
1920年(大正9年)にはルノワールやロダンの作品を見て強い感銘を受けました。彝の代表作とされる『エロシェンコ像』はこの年に制作されたもので、ルノワールの影響が感じられると言う人もいます。
1921年(大正10年)には病状が悪化し翌年にかけては病臥の生活で、ほとんど作品を残していません。
1924年(大正13年)に37歳で夭折します。

6番目の写真は死の直前の1923年(大正12年)~1924年(大正13年)に描かれた『頭蓋骨を持てる自画像』です。若い頃の彝の自画像とは別人のように苦行僧か聖人のような澄みきった境地が描かれています。
絶筆は花を生けた花瓶を描いた『静物』ですが未完でした。
2013年(平成25年)に新宿区下落合に残るアトリエ跡が復元され、「新宿区立中村彝アトリエ記念館」としてオープンします。

この様に中村 彝は生前からその油彩画は高く評価されたのです。しかし37歳での旅立はあまりにも早過ぎました。これから円熟した絵を沢山描こうとしていた時に亡くなったのです。中村 彝の才能が惜しまれます。嗚呼。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=================
エロシェンコの生涯、https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴァスィリー・エロシェンコ

ヴァスィリー・ヤコヴレヴィチ・エロシェンコはロシアのエスペランティスト、作家、言語学者、教育者。1908年から1910年の間にエスペランティストになったと推定される。ウクライナ人。日本ではワシリー・エロシェンコとしても知られるが、中国で作品を発表した際は「愛羅先珂」を名乗った。
現在のロシア連邦ベルゴロド州オブホーフカ出身。
エロシェンコは麻疹により4歳で失明、9歳の時にモスクワに行き盲学校に入った。15歳のころからエスペラントを学ぶ。1912年にはイギリスの盲学校へ最初の旅をした。その後、世界各地をエスペラントの助けを借りて旅した。1914年には、日本では視覚障害者がマッサージ(あんま)により自立しているとのことを聞いて来日し、東京盲学校で学んだ。日本では盲学校生の間にエスペラントを広めた。
後にタイ王国に渡り、その地に盲学校を設立した。ビルマ(現在のミャンマー)へ行き、モルメイン(現・モーラミャイン)という町でしばらく盲学校の教師をする。さらにインドに渡ったが、ロシア革命の影響でロシア人は厳しく扱われ、ロシアのボルシェヴィキとして国外追放された。1919年の夏にシャンハイを経由して再び日本へと逃がれた。
日本語もよくできたので、日本語の児童文学の作品を著わし、日本の進歩的な文学者の間で知名度があがった。中村屋で秋田雨雀・江口渙・神近市子ら多くの文化人と交流し、その一人だった洋画家の中村彝は「エロシェンコ氏の像」を描いた。この間に、恩義のある中村屋に母国仕込みのボルシチのレシピを教え、1927年の喫茶部開店の折には、ボルシチが人気メニューとして食通に迎えられているほか、店員の制服として彼の着用したルバシカが採用されている。
1921年5月1日にメーデーと日本の社会主義者の会合への参加を理由に逮捕され、国外追放となり、敦賀からウラジオストクに送られた。そこからハルビン、上海、北京と移動し、魯迅などの知己を得て、1922年には北京大学でロシア文学について講演したり女子師範学校で講演したりした。
その後、モスクワに行き、8年ぶりで家族と再会する。そして、トルクメン共和国盲児童寄宿学校、モスクワ盲学校などで盲人教育関係の仕事をする。
晩年は生まれ故郷に帰り、1952年に62歳で亡くなった。エスペランティストであるとともに帰国者という当局からは危険視される存在だったにもかかわらず、障害者であったためか大粛清などの弾圧を受けることはなかった。

「西洋の美しい絵画(4)色彩が淡く美しいクロード・モネの油彩画」

2022年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム
クロード・モネの油彩画は色彩が濃過ぎないで淡いロマンチックな色合いです。日本人が好きな油彩画です。特に私が好きな絵は睡蓮の絵とサン・ラザール駅の絵と日傘をさす女性の絵です。眺めていると幸福感につつまれます。そうです、良い絵は人間を幸福にするのです。
クロード・モネ(Claude Monet)は 1840年に生まれ 1926年に亡くなりました。印象派を代表するフランスの画家です。モネの油彩画を7点お送り致します。

1番目の写真は有名な睡蓮の絵です。クロード・モネの代表作は『睡蓮』です。 約250枚の油彩画の連作を描いています。 モネはフランスのジヴェルニーにある「水の庭」の睡蓮をモチーフに描いたのです。 モネの晩年まで30年間も描き続けました。数多くの睡蓮の絵の色合いはさまざまです。1番目の写真の絵は私が好きな色合いの絵です。
2番目の写真は『サン=ラザール駅:列車の到着』(1877年)です。蒸気機関車の煙が夢を搔き立てています。

3番目の写真は『散歩、日傘をさす女性』(1875年)です。三枚描かれた日傘をさす女性をモデルにした作品の最初のものです。妻カミーユと息子ジャンをモデルに描かれました。カミーユはこの4年後、結核で32歳の若さで亡くなるのです。
以上の他では春の野の明るさや楽しさを描いた絵画も良いものです。春の野にヒナゲシの咲いている風景画です。その2枚の写真をお送りします。

4番目の写真はパリの北にあるアルジャントゥイユの春の野の風景画です。「アルジャントゥイユのひなげし」という油彩画で1873年の作です。

5番目の写真も「アルジャントゥイユのひなげし」という油彩画で1873年の作です。この様な風景画は何枚も描かれています。
ついでに私が好きな木造のヨットの絵と穀物の積み重ねの絵をお送りします。

6番目の写真は『アルジャントゥイユの橋』(1874年)です。キャビンの無い小さなヨットです。手前の縦の棒は他のヨットのマストです。石橋のたもとに係留してあるヨットを描いた絵です。遠景には帆を上げて走っているヨットがある楽しい絵です。

7番目写真は夏の終わりの穀物の積み重ねです。1890-91年の作です。
穀物のある風景画はモネの最初の頃の作品です。しかしモネはこの写真のように1889年以後にも同じ主題のいくつかの作品を描いています。
 
クロード・モネは1840年にパリで生まれました。5歳の頃から少年時代の大半をノルマンディー地方のル・アーヴルで過ごしました。少年の頃から絵がうまく、人物の肖像画を売るほどであったそうです。
18歳の頃、風景画家ブーダンと知り合い、戸外での油絵制作を教えられました。
1859年にパリに出て、絵の勉強を始め、ピサロ、シスレー、バジール、ルノワールといった仲間と知り合ったのです。1865年にサロン・ド・パリ(サロン)に初入選してから、サロンへの挑戦を続け、戸外制作と筆触分割の手法を確立していったのです。しかし1869年と1870年のサロンに続けて落選の憂き目に遭いました。
私生活では、カミーユとの交際を始め、長男も生まれます 。
そして1890年代、自宅に「花の庭」と、睡蓮の池のある「水の庭」を造ったのです。1898年ごろから睡蓮の池を集中的に描くようになりました。
最晩年は、視力低下や家族・友人の死去といった危機に直面します。
友人クレマンソーの励ましを受けながら、白内障の手術を乗り越えて、オランジュリー美術館に収められる『睡蓮』大装飾画の制作に没頭しました。その後の1926年に86歳で亡くなりました。 

今日はクロード・モネの絵画の紹介を致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「日本人の油彩画(2)パリで褒められ後、低迷した安井曽太郎の油彩画」

2022年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム
安井 曾太郎は1888年に生まれ1955年に67歳で亡くなった大正、昭和期の洋画家でした。1907年から1914年迄の7年間パリで絵を描いていました。
彼の油彩画の写真をお送りいたします。

1番目の写真はパリで1913年に描いた「山の見える町」です。パリ在住中の作品です。

2番目の写真は1914年の作品で「下宿の人々」です。パリ在住中の作品です。

3番目の写真はフランスで描いた「田舎の寺」です。パリ在住中の作品です。

4番目の写真はパリで描いた「孔雀と女」です。パリ在住中の作品ですが帰国後の1915年の第2回二科展で特別陳列されました。 京都国立近代美術館にあります。

5番目の写真は帰国後10年ほどしてやっと独自の画風を確立して描いた「金蓉」と題した中国服を着た婦人像です。この昭和9年の「金蓉」が安井曽太郎の最高の傑作と言われています。

6番目の写真は独自の画風を確立した後のバラの絵です。良く出来た油絵です。

7番目の写真は画風を確立した後の玉蟲先生の肖像画です。

安井曽太郎は1907年の19歳の時、それまで描いた油絵を一切焼き捨てて白紙の状態でパリの美術学校に入りました。そこでは彼の抜群のデッサン力で何度も優等賞を取りました。
そしてセザンヌの影響を受けて7年のパリ在住の間に数多くの油彩画を描いて高く評価されていたのです。
1番目の写真から4番目の写真がその頃、フランスで描いた作品です。

しかし帰国後、画風が決まらないで苦悩した時期が続きました。この低迷の苦しみを示す混乱した数点の絵も含めての展覧会が2005年にありました。それは「没後50年・安井曽太郎展」でした。私は家内と観に行き深い感動を覚えました。
水戸市の千波湖のほとり、県立近代美術館で2005年の7月に安井曽太郎氏の油彩109点、水彩・素描35点が年代順に展示されたのです。

この展示では浅井忠に師事していたころの少年期の作品、フランスでセザンヌの影響を受けていたころの滞欧期の作品、帰国後の東洋と西洋のはざまで苦しんだころの作品、そして曽太郎流画風の確立した後の傑作の数々が順序よく、ゆったりしたスペースに展示されていたのです。

全国の美術館や個人所有の油彩を109点も借り出して、曽太郎氏の芸術遍歴を浮き彫りにした企画展は、見る人にいろいろなことを考えさせます。
浅井忠に師事して描いた油彩を見た曽太郎氏の家族や友人は一流の画家になれると誉めたに違いありません。
そして19歳でパリに行ったのです。
美術学校で何度も優等賞を取り、後期印象派、特にセザンヌの直接的な影響を受け、澄んだ青を基調にしたいかにもセザンヌ風の裸婦、フランスの風景、静物などを精力的に描いたのです。
ところが、帰国後数年間の画風は混乱に続く混乱です。
パリで学んだ絵画精神で日本の風景、日本の裸婦、日本の静物を描こうとすればするほどバランスの取れない絵画になってしまうのです。
私はこの混乱期の、例えば京都近郊の多くの風景画や裸婦群像などは好きにはなれません。見ているうちに私自身も苦しくなってくるのです。

独自の画風を確立するまでの帰国後やく10年間の模索と深い思索こそがその後の曽太郎独自の芸術を生んだのです。
西洋の絵具、画材を使い西洋風の色合いで日本画の構図や線描を交えて和洋折衷の絵画を作ることは可能です。日本の風景、日本人モデルを用いてセザンヌ風に描くことも可能です。しかし安井氏はそんな浅薄なことは出来なかったのです。
東洋と西洋の文化の両方を受容して独自の境地を作り上げることに成功した画家はそんなに多くはありません。
ところが、昭和初期の少女像、玉蟲先生像、気位の高い和服の婦人像のころから、いわゆる曽太郎流画風が確立されたのです。それはフランスからの卒業です。
昭和9年の「金蓉」と題した絵からは女性の強さ、美しさが伝わって来ます。
日本画の精神性を背景にした表現で独創的な画風を作りあげたのです。

8番目の写真は「外房風景」です。
横長の大きなキャンバスに描いた外房風景には強風の沖を、流れるように白波が動いています。漁村の歪んだ家々が漁師一家の必死の生を暗示しているのです。松の木は自然の強い生命力を表しているのでしょうか。風景が美しいだけではなく漁師の生活そして人生を描いているのです。

もし「玉蟲先生像」、「金蓉」、「外房風景」、など曽太郎画風確立以後の傑作のみの展示であれば、曽太郎氏の絵の面白みや深みが理解出来なかったに違いありません。
「没後五十年・安井曽太郎展」を企画した方々の考えの深さに感心します。
安井曽太郎は梅原龍三郎とともに昭和期を代表する洋画家と評されてます。
そして1944年には東京美術学校教授、1952年の文化勲章受賞など、その功績が認められ画家としての成功を収めることとなったのです。

今日はパリで褒められ帰国し、その後低迷し苦悩した安井曽太郎の油彩画をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「西洋の美しい絵画(3)色彩が濃厚で美しいルノワールの油彩画」

2022年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム
ルノワールの油彩画は濃厚な色彩です。絵具が盛り上がっているような感じがします。描き過ぎたようでもありますが、そこが魅力です。油絵の美に圧倒的に感動します。
今日はルノワール(Pierre-Auguste Renoir )の油彩画を7枚お送りいたします。
ルノワールの油画はフランスやアメリカで何度も見ました。そして2016年06月、東京の新国立美術館での「ルノアール展」は感動的でした。ルノワールの103点の油彩画が一堂に展示してあったのです。この「ルノアール展」は圧巻でした。
ここにお送りする絵は私が好きなものです。特に濃厚な色彩の「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」が大好きです。屋外で語り合う家族やダンスを楽しむ人々の明かるい表情と空気感に魅せられます。

1番目の写真は「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」です。(1876年。油彩、キャンバス、131 × 175 cm。オルセー美術館蔵。第3回印象派展出品。)

2番目の写真は『ピアノに寄る少女たち』です。(1892年。油彩、キャンバス、116 × 90 cm。オルセー美術館蔵。)

3番目の写真は『浴女とグリフォンテリア』です。初期の作品です。(1870年。油彩、キャンバス、184 × 115 cm。サンパウロ美術館蔵。1870年サロン入選。)

4番目の写真は「舟遊びの昼食」です。(1880-81年。油彩、キャンバス、130.2 × 175.6 cm。フィリップス・コレクション蔵(ワシントンD.C.)。第7回印象派展出品。)

5番目の写真は「2人の姉妹」です。(1881年。油彩、キャンバス、100.4 × 80.9 cm。シカゴ美術館蔵。)

6番目の写真は『ラ・グルヌイエール』です。(1869年にモネとともに『ラ・グルヌイエール』を制作しました。その頃からは、セーヌ川やモンマルトルの風景を明るく描く印象主義的な手法を確立していきます。}

7番目の写真は「ポンヌフ」です。(1872年。油彩、キャンバス、75.3 × 93.7 cm。ナショナル・ギャラリー蔵、ワシントンD.C.)

ここでルノワールの略歴をご紹介しておきます。
ルノワール(Pierre-Auguste Renoir )は1841年に生まれ、- 1919年に亡くなりました。フランスの印象派を代表する画家でした。)(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB )
彼はにフランス中南部のリモージュで貧しい仕立屋の息子として1841年に生まれ、1844年(3歳)の時、一家でパリに移り住みます。
聖歌隊に入り、美声を評価されていました。1854年(13歳)に、磁器の絵付職人の見習いとなったが、1858年(17歳)、失業します。その後は扇子の装飾など職人としての仕事を手がけています。
しかし1861年(20歳)の時、画家になることを決意してシャルル・グレールの画塾に入り、ここでモネ、シスレー、バジールら画家仲間と知り合ったのです。
彼等とはフォンテーヌブローの森で一緒に写生もしていたのです。
1864年(23歳)にサロン・ド・パリに初入選し、以後度々入選していました。しかし始めは経済的に苦しく、親友バジールのアトリエを共同で使わせてもらっていました。
1869年(28歳)、ルーヴシエンヌの両親の家に滞在している時、モネとともに行楽地ラ・グルヌイエールでキャンバスを並べ、印象派の特徴の一つである手法を生み出したのです。
1870年(29歳)、普仏戦争が勃発し、騎兵隊に従軍します。その後、1871年(30歳)、パリ・コミューンの動乱に揺れるパリに戻りました。スパイと間違われ、一時逮捕される出来事も起きます。
このようにいろいろな事がありましたが、ルノアールは常に絵筆を握り感動的な絵画を78歳で死ぬまで描き続けたのです。晩年にリウマチのため絵筆が握ぎれなくなり絵筆を腕に括り付けて絵を描きき続けたのです。 

最近は雨や曇りで鬱陶しいです。今日はルノアールの油画をお送り致しました。皆さまの気分も楽しくなりましたでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人

「日本人の油彩画(1)30歳でパリに客死した佐伯祐三の油彩画」

2022年04月28日 | インポート
佐伯祐三の油絵数十枚をまとめて見たことが一度だけあります。2008年、横浜そごうデパートでの特別展でした。
油彩画には絵の具が盛り上がり、画家の熱い息づかいが感じられるのです。30歳で客死した佐伯祐三の情熱が直接伝わって来るのです。
彼はパリに魅せられ狂ったように絵を描き続けました。最後は文字通り狂って彼の地の精神病院で息を引き取りました。たった10年間ほどの画歴でした。
粛然とした想いで佐伯祐三の絵の写真をお送りいたします。

1番目の写真は「パリ街景」です。原画の大きさは38.1×45.4cm です。

2番目の写真も「パリ街景」です。1927年作で大きさは65×81cm です。

3番目の写真は「郵便配達夫」です。1928年の作品です。原寸は80.8×65.0cm です。

4番目の写真は「ラ・クロッシュ」です。1927(昭和2)の作品で原寸は、52.5×64.0cm です。

5番目の写真は「靴屋(コルドヌリ)」です。1925年作で原寸は,72.5x59.0cmです。.

絵画の写真について解説は不要です。命を削るようにして描いた作品群の前では、どんな美辞や賛辞も空々しくなります。
2008年、横浜そごうデパートでの特別展で一番感動した絵は3番目の写真の「郵便配達夫」でした。パリの自宅に来た郵便配達夫をモデル80.8×65.0cm の大きな油彩画にしたのです。彼の描いた人物画の最後になりました。彼の死後奥さんの米子が手を加えて完成したと言います。

さて佐伯祐三の略歴を記します。https://ja.wikipedia.org/wiki/佐伯祐三 からの抜粋です。
1898年4月28日 に生まれ 1928年8月16日にパリで没しました。佐伯は大阪府西成郡中津村にある光徳寺の男4人女3人の兄弟の次男として生まれました。1917年(大正6年)東京の小石川にあった川端画学校に入り、藤島武二に師事します。
旧制北野中学を卒業した後、1918年(大正7年)に東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学し1923年(大正12年)に卒業します。
東京美術学校の在学中に結婚した佐伯の妻・佐伯米子(旧姓・池田)も絵を描き二科展などにも入選していたのです。
佐伯はその後満30歳で死去するまでの6年足らずの画家生活の間、2回パリに滞在し代表作の多くはパリで描かれた絵です。
第1回のパリ渡航は1924年(大正13年)1月から1926年1月までで、約2年の滞在であった。この第一次滞仏時の作品の多くはパリの街頭風景を描いたもので、ヴラマンクとともにユトリロの影響が明らかです。
佐伯はパリに長く滞在することを望んでいたが佐伯の健康を案じた家族らの説得に応じ1926年にいったん日本へ帰国します。
2度目の滞仏はそれから間もない1927年(昭和2年)8月からであり、佐伯はその後ふたたび日本の土を踏むことはなかったのです。
1928年3月頃より持病の結核が悪化したほか、精神面でも不安定となります。
「黄色いレストラン」が屋外で描いた最後の作品で「描ききった」と家族に説明していたといいます。
自殺未遂を経てセーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院に入院します。
一切の食事を拒み、同年8月16日衰弱死しました。墓所は生家である大阪市の光徳寺と東京都千代田区の心法寺にあります。
現在、佐伯の作品は大阪中之島美術館50点、和歌山県立近代美術館14点など、日本各地の34か所に所蔵されているそうです。

今日は30歳でパリに客死した佐伯祐三の油彩画をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「西洋の美しい絵画(2)印象派の先駆者エドゥアール・マネの油彩画」

2022年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は印象派の先駆者の油彩画を示します。印象派には数多くの画家がいますが、やはりマネの油彩画には心が打たれました。
エドゥアール・マネ(Édouard Manet, 1832年1月23日 - 1883年4月30日)は、19世紀のフランスの画家です。近代化するパリの情景や人物を、伝統的な絵画の約束事にとらわれずに描き出し、絵画の革新の担い手となりました。
その後の印象派の画家にも影響を与えたことから、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられてい画家です。7枚の絵の写真をお送りします。
1番目の写真は「笛を吹く少年」1866年、油彩、161×97cmです。所蔵はオルセー美術館です。この絵は1866年のサロン展に出品し、落選しました。私が好きな絵です。

2番目の写真は『草上の昼食』です。1863年作、208 cm × 265.5 cm の大きさです。完成度の高い絵です。オルセー美術館蔵。展覧会に出品し物議をかもした作品です。

3番目の写真は『オランピア』です。1863年作、130.5 cm × 190 cm でオルセー美術館蔵。この女性の身分に関して憶測があります。

4番目の写真は『ローラ・ド・ヴァランス』です。1862年、油彩、キャンバス、123 × 92 cmです。オルセー美術館に蔵。 

5番目の写真は『テュイルリー公園の音楽会』です。1862年、油彩、キャンバス、76.2 × 118.1 cmです。ナショナル・ギャラリー(ロンドン)蔵。

6番目の写真は『老音楽師』です。1862年、油彩、キャンバス、187.4 × 248.2 cmです。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。 

7番目の写真は最後の大作『フォリー・ベルジェールのバー』です。1882年作、92 cm × 130 cmで、コートールド・ギャラリー、ロンドンにあります。マネが完成させた最後の主要作品で、1882年に、サロン・ド・パリに出品されました。

今日は印象派の先駆者エドゥアール・マネの多彩な作品を7点ご紹介いたしました。如何でしょうか。皆様お楽しみになったでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)




「東京の観光(9)八丈島と多数の縄文土器の出土」

2022年04月26日 | 日記・エッセイ・コラム
八丈島は想像以上に大きな島です。10万年前に噴火で出来た三原山が東にあり、西に1万年前に出来た八丈富士があります。そして西の海上には八丈小富士が突き出ています。この3つの山が近過ぎず、遠過ぎず、丁度良い距離でどっしりと座っています。この配置が雄大な景観を作っています。島の周囲は60Kmで東京の千代田区、港区、新宿区、中央区などの合計位の大きさです。
八丈富士の中腹に広大な牧場があり、そこまで車が上がれます。写真を撮るには丁度よいので2回登りました。
伊豆七島の大島や神津島へは何度か行きましたが、景観の雄大さという点で八丈島は抜群です。八丈島は東京都ですがいろいろ興味深いところが沢山ある観光地です。立派なホテルも美味しい寿司の店もあります。伊豆七島では一番面白い島です。写真でご紹介します。
1番目の写真は東の三原山の中腹から撮った八丈富士の風景です。手前の町は大賀郷町です。左の方向に飛行場が見えます。そして町の左右に港があります。風の向きによって客船の発着する港が変わります。

2番目の写真は大賀卿町の中心にある公園です。
公園の真中にドライブウエイがあって車で楽しみながら通り抜けられるようになっています。八丈島で感動的なことは、島全体が熱帯性の植物で覆われていて、さながら天然の植物園のように見えることです。1月の末なのにウグイスが啼いていました。

3番目の写真はフリージアの畑です。毎年3月に楽しいフリージア祭りが開催されます。
八丈島ではご紹介したいことが沢山あります今日は八丈島から出土した縄文土器や石器の話だけに致しました。
八丈島で忘れられない人に歴史民俗資料館でお会いした細谷昇司氏という方がいます。地域歴史の専門家で、その後、数か月にわたってメールの交換もしました。島独特の風習や歴史を教えて頂いたのです。
細谷昇司氏から教わったことですが、島から約6000年前の縄文時代の人々の遺骨や石器・土器が多数出土しているのです。
石斧の石は海岸にある石ですが、土器に使われた粘土は火山で出来たばかりの島には有る筈がありません。従って縄文人は土器を持って太平洋を渡って本州から来たのです。それを証明するために海用のカヌーで伊豆半島、大島、神津島と島づたいに漕ぎ渡った青年の写真も送ってくれたのです。

4番目の写真は八丈島の歴史民俗資料館に展示してある縄文土器です。

5番目の写真は歴史民俗資料館に展示してある縄文時代の石器です。

6番目の写真は歴史民俗資料館に展示してある多様な縄文土器です。

7番目の写真は八丈島の歴史民俗資料館です。これらの写真は2009年1月29日に撮りました。
八丈島は東京から約300キロメートル南の太平洋上に浮かぶ孤島で、また黒潮本流の外側に位置する亜熱帯の島です。驚いたことに縄文時代の人々は丸木舟で伊豆半島から黒潮を横切って漕ぎ渡ったのです。現在の日本人の体力からは考えられない事です。
東京に帰ってから八丈島の考古学的研究をいろいろ調べてみました。
そうしたら国学院大学の小田静夫先生の「八丈島の先史文化」という題目の研究論文を見つけました。以下はこの研究論文です。
http://ac.jpn.org/kuroshio/hachijo2005/index.htm に出ています。
現在までに4ヵ所(湯浜・倉輪・八重根・火の潟遺跡)の考古学遺跡が発掘調査され、その成果から八丈島の有史以前の歴史が判明したのです。
その成果によると、この南海の孤島には「八丈島先史時代」と呼称できるほどの特徴的な島嶼文化が形成されていたのです。
詳しい資料は以下に出ています。
国學院大學考古学資料館紀要 第21輯(「加藤有次博士追悼」特集号)2005.3.31 所収(pp.55-84)「八丈島の先史文化」、http://ac.jpn.org/kuroshio/hachijo2005/index.htm  に出ています。

このように八丈島は興味深い縄文文化があり花々が豊に咲いている楽しい島なのです。宿泊施設も整い、寿司屋も数店あり、伊豆七島では一番面白い島です。
機会があればお出かけになってみて下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「埼玉県秩父 の羊山公園の芝桜の圧倒的な絶景写真」

2022年04月25日 | 写真
埼玉県秩父市街地を一望できる羊山公園(の南側に広がる約17,600平方メートルの『芝桜の丘』には、10品種・40万株以上の芝桜が植えられています。

例年4月中旬~5月上旬頃に見ごろです。
丘一面にピンクや白、うす紫色の芝桜が咲き誇り圧倒的な絶景になります。
写真の出典は、https://event-checker.info/sibazakura-hitujiyama/ です。





「東京の観光(8)紅葉の高尾山、城山、小仏峠、景信山、陣馬山の尾根歩き」

2022年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム
東京の観光地としては高尾山と薬王院、そして裏に続く城山、小仏峠、景信山、陣馬山も魅力的な所の一つです。四季折々どの季節に訪れても素晴らしい所ですが特に紅葉の頃が良いと思います。
そこで今日は高尾山と薬王院、その裏山をご紹介したいと思います。現在は春ですが紅葉の頃の風景を示します。
高尾山は、東京の西の郊外にある山です。標高は599mの山です。
山頂付近に神仏混淆の薬王院というお寺があり、お寺の本堂の背後に飯綱権現神社があります。古くから修験道の聖地でした。
11月の中旬になるとイロハカエデ、ブナ、オオモミジの木々が美しく色づき山全体が紅葉になり素晴らしい所です。ミシュランの3つ星に認定されたこともあり、海外からの観光客も多く訪れます。
それでは以前、私が撮って来た写真と、https://yamahack.com/1945 からお借りした写真をまじえて高尾山の紅葉の風景写真を7枚お送り致します。

1番目の写真は高尾山に上げるケーブルカーの出発駅周辺の紅葉です。
7枚の写真のうち2番目、3番目、と7番目の写真は自分で撮りました。残りはお借りした写真です。

2番目の写真はケーブルカーの出発駅の右手にある高尾山登山道の入り口周辺の紅葉です。

3番目の写真はケーブルの線路下から見上げた高尾山の南面の紅葉です。

4番目の写真はケーブルの山頂駅から少し登った所にある展望台から見下ろした八王子の街の風景です。
   
5番目の写真は山頂の薬王院の周囲の紅葉です。

6番目の写真は薬王院を通過して高尾山の最高部へ行く登山道の回りの紅葉です。

7番目の写真も同じく高尾山の頂上へ行く登山道の回りの紅葉です。
高尾山の山頂からは尾根づたいに城山、小仏峠、景信山、陣馬山へ歩いて行けます。
小仏峠は旧甲州街道の峠で、それを東に3Km位下るとバス停がありJR中央線の高尾駅に出ます。西に下ると10Km位歩くとJR中央線の相模湖駅に行けます。
秋にこの山々を歩くと全て紅葉した雑木林の山道です。高尾山の山頂から陣馬山までの行程は約90分です。遥か下に中央高速道路や相模湖が見える気持ちの良い山道です。険しくないので家族連れがよく歩いています。
高尾山は1967(昭和42)年に明治の森高尾国定公園に指定されました。
山内には、約1200種の植物、約100種の野鳥、約5000種の昆虫が生息していると言われています。春の山桜、夏の青葉などいつ登っても楽しい山です。

さてこの高尾山には神仏習合ということが明快に理解出来る薬王院があります。真言宗智山派のお寺ですが、本堂のご本尊様が神道の飯綱権現という神様なのです。神仏習合です。
この本堂のすぐ上に立派な飯綱権現神社が建っているのです。
この本堂のご本尊様と飯綱権現神社の両方に真言宗のお経をあげているのが僧侶なのです。
この神道の飯綱権現の本部は長野県の飯綱山を神様と信仰する飯綱権現神社なのです。高尾山薬王院は興味深い神仏習合のお寺なのです。

今日は紅葉の高尾山、薬王院、城山、小仏峠、景信山、陣馬山などをご紹介しました。このハイキングコースは紅葉の時期も良いのですが、新緑の頃もウグイスが鳴いていてとても良いものです。高尾山と裏山は四季折々楽しい素晴らしい山です。
なお高尾山へはJR中央線の新宿から1時間の高尾駅で下車、そこで京王線に乗り換えると終点が高尾登山ケーブルカーの駅のすぐ傍です。交通の便が良いので是非お出掛け下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「イグナチオ教会の今日の復活節第2主日のミサ の動画配信」

2022年04月24日 | 日記
今日は復活節第2主日です。

4月24日朝10時以後でしたらミサの動画配信で何時でもミサにあずかることが出来ます。

イグナチオ教会の今日の復活節第2主日のミサ の動画配信は以下にあります。

なお関口教会の動画配信は、https://www.youtube.com/watch?v=ctcw9gW_0XQ です。

写真はカトリックイグナチオ教会の風景です。

それはそれとして、今日も皆様の平和とご健康をお祈りきたします。後藤和弘(藤山杜人)