後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本共産党は意外や愛国者集団だった・・不破哲三氏の「時代の証言者」より

2010年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム

122c383_4ce919051

上の写真は挿絵として入れたもので恵那峡のHPからお借りしました。以下の文章の内容とはまったく無関係です。=============

日本共産党はソ連や中共と親密な政党で、日本に革命を起こし、ソ連の衛星国にしようとしていたのです。それが私の認識でした。しかしこの認識は戦後長く続いた自民党政権の宣伝の影響を深く受けた全く間違ったものでした。

不破哲三氏の読売新聞、「時代の証言者」を読み続けると日本共産党は中国やソ連の凄まじい干渉を撥ね退けて、独立した日本国家をうち立てようと1961年から努力して来たのです。1959年にソ連と中国の共産党が大喧嘩をして別れたのをキッカケにして日本共産党も両国の共産党と縁を切り、武力革命を捨て、議会制民主主義による革新へと路線転換したのです。従って、その後の共産党は国会議員の増加へ努力するのです。企業からの寄付を一切断り、個人寄付だけで政治活動をしている清潔な政党なのです。

不破さんは愛国者です。彼の「時代の証言者」の連載記事を読むと自民党政治の裏がよく理解できて面白い記事です。日本の共産党は、アメリカからの完全独立を活動目的にした、右翼の集まりのような集団なのです。

しかし何故国会議員が少ないのでしょうか?そこで「日本共産党」のホームページを開けてその活動目標を読みました。ア然としてしまいました。あまりにも楽観的な、机上の空論なのです。アメリカから独立すると言うのは誰でも言えます。問題はどのような段階を踏んで、何時独立するのかという具体的な計画が一切書いて居なのです。一体日本の防衛は自衛隊だけで出来ると思っているのでしょうか?

頼りない政党です。バカバカしい活動方針です。これでは有権者が投票しない筈です。清潔だから良いというなら簡単過ぎます。不破さんは誠実で秀才です。しかし国際政治の弱肉強食の現実を全く知ろうとしません。普天間基地を県外へ移転すると放言して総理大臣を止めた鳩山さんの国際関係の音痴ぶりと同じなのです。

共産党は存在して良いのですが、国会議員の数は公明党より多くはならないと思います。皆様のご意見をお聞かせ下されば嬉しく思います。

=====共産党の綱領==========

民主主義革命と民主連合政府:現在、日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく、異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破――日本の真の独立の確保と政治・経済・社会の民主主義的な改革の実現を内容とする民主主義革命である。それらは、資本主義の枠内で可能な民主的改革であるが、日本の独占資本主義と対米従属の体制を代表する勢力から、日本国民の利益を代表する勢力の手に国の権力を移すことによってこそ、その本格的な実現に進むことができる。この民主的改革を達成することは、当面する国民的な苦難を解決し、国民大多数の根本的な利益にこたえる独立・民主・平和の日本に道を開くものである。

(以下省略)


恵那峡の写真をお送りいたします

2010年11月30日 | 写真

木曽川の中流、岐阜県東北部に大きなダムがあり恵那峡という景勝地を遊覧船で楽しめるようになっています。11月27日、冷暖房完備のジェットフォイル船で遊んで来ました。周囲の山々の紅葉は全て散っていて冬山になっています。巨岩があちこちに有り、飽きない景観を作っています。写真をお楽しみ頂ければ嬉しくおもいます。なお恵那峡の場所やアクセス方法は検索すると出て来ます。

120 122 136 141


タイの仏教僧の托鉢風景の写真をお送りします

2010年11月30日 | 写真

GAKUさんという方がタイのチェンマイという静かな古都に住んでいます。私の尊敬しているマイフレさんです。タイの生活や文化を静かな視線で写真に撮り、美しい写真をブログ、http://gaku404.exblog.jp/ へ沢山掲載しています。あまり素晴らしい写真なのでこちらのブログへ何回も転載させて頂いています。今日はこの下の記事で仏教の話題を取り上げましたので、タイの仏教僧の托鉢風景の写真をお送りします。

GAKUさん、いつもお写真をお借りして有難う御座います。どうぞ奥様、愛猫ともどもお元気でお過ごし下さい。藤山杜人

F0178278_151928671  F0178278_15204211_2 F0178278_152129461


日本が世界に誇れるのは仏教文化

2010年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム

Toshodaiji_nara_nara_pref01s5s42901

現役の間はしばしば外国へ行きました。その土地の人々と一緒に食事をしたり、お酒を飲んだりします。すると日本の文化とはどういうものですかと聞かれます。貴方は即座に答えられますか?長い間困っていましたが、ある時簡単な答えを発見しました。「佛教文化です。国宝には7世紀以来の古いお寺や仏像が沢山あります。」と簡単に答えます。すると今度日本へ行ったら何処のお寺を見たほうが良いですかと聞かれます。この質問も困った質問です。そんなに考え込む必要はありません。

自分の好きなお寺をあげれば良いのです。奈良の法隆寺と唐招提寺。京都では清水寺、南禅寺、高台寺、鎌倉では建長寺と円覚寺と答えます。この時、ウンチクを傾けて余り沢山のお寺の名前を言わない事です。相手が目を回さないようにゆっくり発音します。

さて次の質問はは大抵、「日本の仏教文化とインドやタイの仏教文化とどのように違いますか?」というものが多いのです。貴方は答えられますか?これも困った質問ですね。私は簡単に言います。「キリスト教でも戒律の厳しい宗派と自由な宗派があるでしょう。インドやタイの南方系の仏教は戒律が厳しく、日本の仏教は穏やかな佛教です。和を持って尊しとなす。ですね」と答えます。

その次の質問は、「キリスト教では福音書がありますが、仏教にはありますか?」です。答えは簡単にします。「勿論あります。お経と言います。福音書は4種だけですが仏教のお経は1000年ぐらいに渡っていろいろな弟子によって書かれたので数が非常に多いのです」と答えます。食事をしながらの話なので、大体このぐらいで質問は終りです。面倒くさくなったら楽しい話題へ変えてしまえば良いのです。

そんな事を思い出しました。写真は唐招提寺のWikipedeaとHPからお借りしました。私の好きなお寺です。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

About_ph11

参考までに:釈迦は紀元前5世紀頃、シャーキャ族王・シュッドーダナ(漢訳名:浄飯王 じょうぼんのう)の男子として現在のネパールルンビニで誕生。ゴータマ・シッダールタ は王子として裕福な生活を送っていたが、29歳で出家した。35歳で正覚(覚り)を開き、仏陀(覚者)となったことを成道という。まもなく釈迦のもとへやってきた梵天の勧めに応じて、釈迦は自らの覚りを人々に説いて伝道して廻った。80歳で入滅(死去)したと言われている。


東京のアメリカ大使館から時々メールが来ます

2010年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム

私事で恐縮ですが、1960年から1962年までフルブライト留学生として米国政府から経済的支援を頂きました。その後1969年から1970年まで西ドイツ政府のフンボルト研究留学生になりました。

その後何十年にもなりますが、アメリカ大使館とドイツ大使館(ゲーテ・インシュツテート)から連綿といろいろなメールやカレンダーや手帳が届きます。

日本政府が政府の予算を使って外国人を日本へ留学生として招んでいますが、はたしてアメリカ大使館やドイツ大使館のような息の長いコンタクトをしているでしょうか?政府の予算を使う以上、日本の国益になるように本気で努力しているでしょうか?

日本の役人の仕事ぶりから考えると留学生を長期的に日本の味方として維持し、国益を守る努力をしているか?とても心配です。

留学制度は税金を使っている以上、慈善事業ではありません。納税者の益になるように努力すべきです。

特に感心するのはアメリカ大使館のやり方です。メールをくれる担当者が個人的な自己紹介を簡単にして、人間的なメールを日本語で送ってくれます。担当者が交代するときは何処へ転任なったかを挨拶状と共に送ってくれます。いかにも個人を大切にするアメリカ的な良い文化です。

私はアメリカの悪口をこのブログで時々書いています。しかし総合的には親米的な見方をしています。悪い部分は悪いと書く。良い所は良いと書く。時々悪い事を非難してもアメリカ側からは苦情が一度も来ません。アメリカ文化の素晴らしい所です。

以前、チベット問題で中国政府を非難しました。1週間後、このブログは中国で開けられなくなりました。それまでは上海在住の友人がよく見てくれて居ましたが、その後はこのブログは中国では開かなくなっています。まあ、それでも私は中国人を個人的に好きですが。

昨日、アメリカ大使館から来たメールを以下に例として添付します。

公募中のフェロー・プログラムの応募資格のある方々は振るってお申込みなさるように祈っています。(終り)

========国務省プログラム同窓生の皆様へ========

平素よりAlumni(同窓会)活動をご支援いただき、誠にありがとうございます。

さて、早速ですが、現在ご活躍の同窓生の皆様に向け、Yale World Fellows Program参加者募集 をご案内申し上げます。

Yale World Fellows Program募集要項

期間:20118月中旬~12月中旬17週間)

対象:Mid-careerプロフェッショナルの方々(少なくとも5年以上キャリアをお持ちの方で、キャリアが20年以下の方)

内容: 

1. World Fellows Seminar

2. Skill-building sessions

3.   Weekly panel discussions

4. Monday night dinners with distinguished speakers

および

  個々人の専門に沿ったSemester-long coursesへご参加いただきます。

  また、ニューヨークおよびワシントンで、経済界、政府機関、財団、 メディア、国際機関など の代表との会合のための旅行も予定されています。費用:住宅費、渡航費、医療保険および生活費(US$32,500支給さます。

使用言語:英語

募集締切:2011114日(金)

応募書類提出方法:オンラインにてご応募くださいhttps://apply.yale.edu/worldfellows/Enter

            詳細は下記の案内およびhttp://www.yale.edu/worldfellows/application.html にてご確認ください

またConnect USA http://connectusa.jp/)でもご案内しております。      

応募詳細に関する問合せ先: Leslie Powell, Director of Outreach & External Affairs

   leslie.powell@yale.edu  +1 203 432 1916  

*米国大使館は問合先ではないので、ご注意ください。

ぜひ、ご応募お待ちしています!

*アラムナイ・ウェブサイトに登録がまだという方、ぜひこちらのサイトhttps://alumni.state.gov/landing-page?op=auth;method=createAccountからご登録ください

米国大使館広報文化交流部 


戦没画学生の絵画(5)山之井龍朗さんの「少女」

2010年11月29日 | インポート

011 大正9年、横濱生まれ、絵画は洋画家だった父から習う。昭和16年出征。1945年5月9日、フィリッピン、ルソン島バギオにて戦死。享年24歳。

尚、龍朗さんの弟、俊朗さんも後から出征し、龍朗さんの戦死よりも前に戦死してしまったのです。俊朗さんは昭和18年4月26日南洋の海に沈む。享年21歳。

この絵はきっと妹の百合子さんを描いたものと思います。

============

絵と文章の内容の出典は以下の通りですNHKきんきメディアプラン発行、「無言館 遺された絵画」2005年版、98ぺージです。


日本の歴史上最良の時代に生きる幸せを噛みしめる毎日

2010年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム

009 014

皆様はこの横濱の山下公園の写真をご覧になって何を感じられますか?都会のあちこちによくある公園の風景です。

これを見て、私は大きな喜びを感じます。地面に紙屑が一つも落ちていない、その清潔さに吃驚しているのです。人々が決して紙屑を捨てないのです。公徳心が高いのです。

道路も駅も公衆トイレも清潔です。どんな地方の村に行っても全てが完全に清掃され、清潔です。このような国に住んでいる私はしみじみと幸福感を味わっています。こんな時代は日本には無かったのではないかと思っています。もっとも後で書くように戦国時代に来たイエズス会の神父は日本の清潔さに驚いていましたが。

しかし人々の公徳心は一朝一夕に高くなったのではありません。終戦後の混乱期の話は古すぎるので止します。しかし1960年にアメリカへ留学したとき受けた大きなショックを忘れる事が出来ません。彼らの公徳心の高さに打ちのめされたのです。道路も公園も紙屑一つ有りません。当時の日本の公共の場所はゴミや紙屑が一杯でした。人々が勝手に捨てるのです。とくに観光地はゴミの山で、それが当たり前の事だったのです。車の窓からはポイポイとタバコの吸い殻を捨てます。

若く単純だった私は戦争に勝つ国は公徳心が高いものだと吃驚し、純粋に感動しました。

その後、日本人の公徳心は2度大きく上がりました。一度目は1964年のオリンピックから高度成長期です。外国人観光客を大いに呼び込むためにも道路や駅や公衆トイレを清潔にしました。しかしそれは他国の人々を意識した公徳心で、本物ではありません。本物の高徳心が一気に育ったのは1990年のバブル経済の崩壊後です。経済成長が止まった日本人は自信を失うのです。しかし間もなく人々は経済成長だけを目標に生きる愚かさに気がつきます。人生観が多様化します。そして成長神話にとりつかれ足元をみる暇のなかった生き方を反省するのです。

その結果はいろいろな形で現れました。抽象的な言い方で恐縮ですが、日本人が内省的になり、人間らしく生き始めたのです。文化の質が変化したのです。

公共の場所を清潔にするのは自分の心の平和の為にするようになりました。外国から来る観光客の為にするのではありません。

このような公徳心の高い時代は明治維新以来初めての事と思います。

日本の歴史上で最高の時代とは言えませんが最良の時代の一つではないでしょうか?戦国時代にフランシコ・ザビエルとともに来たイエズス会の神父がその本部へ送った書簡で、日本人の公徳心の高さを絶賛しています。日本のどんな片田舎へ行っても道にはゴミが無く掃き清めてある。家家の周りや庭先も整理整頓され乱雑さや不潔感が感じられない。それ以前に通ってきた東南アジアの国々とはまったく違うと報告しています。

誤解を恐れずに断言すれば、公徳心の高低こそが文化の高さを決めているのです。私はこのような時代に日本に生きていることを誇りに思っています。最高に幸せだと思っています。

このように幸せに思う理由はもう一つあります。豊かな食生活に恵まれている事です。

例えば1970年と現在の2010年の間の様変わりを見てみましょう。

当時は経済の高度成長が始まったばかりで、都会と地方の生活レベルに大きな差がありました。都会にはスーパーマーケットが有りましたが、その規模は小さくアメリカと比較するとみすぼらしいものでした。そしてファミリーレストランやマグドナルドやケンタッキーフライドチキンのようなファストフードの店は有りませんでした。そして街には質素な食堂がありました。ソバ、ウドン、丼物だけでした。店の中も小さく、暗く、テーブルも粗末でした。

人々は毎日自宅で食事をし、弁当を持って職場へ通いました。私も妻の作る弁当を毎日持って通ったものです。1970年当時の食生活は単純でした。朝はコーヒーにトーストと目玉焼き。昼の弁当は米のご飯に梅干し、そして野菜、魚のおかずが隅についています。夜はご飯に味噌汁、そして魚、時々肉料理です。外食はめったにしませんでした。出張で旅に出る時は地方の町にある食堂ですませます。兎に角、ご飯を沢山食べました。

40年後の現在はどうでしょうか?弁当を持って職場へ行く人は非常に少なくなり、外食が普通です。ファミリーレストランがそこかしこに有ります。家庭の主婦も幼子連れで食べています。老人夫婦も昼食はレストランで食べる人が多いのです。その上、レストランの種類が豊富です。寿司、天麩羅専門店、ウナギ屋、イタリアンにフレンチ、タイ料理店、中華料理店、こだわりのラーメン専門店、何でもあります。

レストランが増えただけでありません。美味しい食材が世界中から安く入ってきます。品質の良い食材です。1969年に私はドイツへ行き、1年間住みました。ドイツに行って一番驚いたことは卵とソーセージの美味しいことでした。日本の鶏卵は大きいのですが味が魚臭くて淡泊過ぎて不味いものでした。ソーセージは形は同じものが有りましたが品質が劣悪で、まずい代物でした。その上、魚肉ソーセージという変なものが横行していたのです。野菜や果物も形は悪いのですが、味が鮮烈で感動しました。ドイツへ行って食品の美味しいことに涙が出た思い出があります。

現在は日本の食品の質も上がり、美味です。食べ物の量だけでなく味が洗練され、大げさに言えば文化の香りさえします。それを私のような一般庶民が毎日楽しめる時代になったのです。下の写真は今回、木曽の御岳の中腹の質素な旅館で出た飛騨牛をメインにした夕食のお膳です。この写真の他に、刺身、天麩羅、鮎の塩焼き、蒸し物、などなどが時間をおいて出て来たのです。その豊かさと美味に感動しました。戦後のことを思い出して感動したのです。

033

このような時代は日本の歴史の中に無かったと断言しても反対する人は居ないと信じています。食生活の事を考えると現在は天国のようです。特に戦前、戦後のひどい食料難を通ってきた高齢の日本人にとっては夢のような世界です。このような国に育て上げてくれたいろいろな立場の人々へ感謝します。

私が最近、戦没画学生の残した絵画を時々掲載しているのには深い理由があります。このうように豊かな日本になったのは貴方がたのお陰です。どうぞ天上からこの日本を見降ろして楽しんで下さいという鎮魂のためです。そしてもう一つは、自分自身がこの最良の時代の日本に生きて居る幸せを骨身に沁みて忘れないようにするためです。忘れなければ感謝の気持ちが自然に湧いて来ます。毎日が幸福感で満たされます。(終り)

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人


クリスマスです・・・ケーキやプレゼントなどを今日から考えて楽しみましょう!

2010年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム

Bichechoco_top_011_2

Bichechoco_top_041_2 今日はイエス様の誕生を待ち望む「待降節」の始まりです。人々はクリスマスケーキやプレゼントの事をあれこれ考えて楽しい季節です。今年のディナーはどうしようか?家族と小旅行をして、旅先でクリスマス・ディナーを祝おうと考えている人も居るでしょう。子供たちはサンタクロースの持って来るプレゼントが楽しみです。若い恋人同士は何か一生の思い出になるような特別の楽しい事を考えています。

クリスチャンでなくとも大いに楽しむ季節です。左のクリスマスケーキは伊豆半島の付け根にある函南町のラ・ファッソン小松のケーキです。美味しそうですね。

クリスマスの季節はいろいろ楽しみを企画して家族ともども健康に明るく過ごしたいと願っています。

しかしクリスマスイヴの24日の夜には近所の教会の礼拝やミサに参加してみましょう。何処の教会も、信者でない人々をこの日は特に大歓迎します。後ろの方で静かに見物するだけでもクリスマスの意味が何となく分かると思います。

今日はミサの後で、マルセリーノ神父様の講話がありました。今日から12月25日のクリスマスまでの待降節の間はイエス様の教えを思い出したり、何故この世へ降誕してきたのかを静かに、深く考える時期だそうです。復活祭の前の四旬節は節制をして悔い改め行いを改める期間ですが、クリスマスの前の待降節は心を覚ましてイエス様の誕生と、その救いと、再臨を注意深く準備する期間なのです。静かに心の準備をします。ですから度を過ごしたお祝いの仕方はしない方が良いのです。

マルセリーノ神父様は時々小金井教会へ来て下さいます。私が尊敬する神父様の一人なのでそのご紹介を以下にしたいと思います。

マルセリーノ神父様はスペインのクラレチアン宣教会の方ですが、日本に永住なさっています。

この神父さんはいろいろな意味で特別な方です。これ以上素朴な人を見たことがありません。小柄なスペイン人で、兎に角純粋に一途です。信仰以外何も持っていません。説教でも神学的な理論を振り回すことは絶対にしません。ただ自分が篤くイエス様を愛している事だけを話します。それだけです。

この素朴さのお陰でマルセリーノさんが好きだという人々が多いようです。クラレチアン宣教会の日本本部が関西にあるため、関西のフアンが多いようです。その関西のファンがある時スペインへ旅をしてマルセリーノ神父さんの出身のアルデス村へ寄ってきました。その折の写真がhttp://www.cybersuds.co.jp/ge/kitaichi/1/index.htm公開されています。

その中からアレデス村の風景写真と、マルセリーノ神父様が母上にお土産を渡している様子の写真を転載させて頂きました。神父になり外国へ派遣されると故郷へは一生の間、2、3回くらいしか帰れません。マルセリーノさんの出身の村では、神父になり日本で働いているマルセリーノさんを誇りに思っていることでしょう。自慢に思っていることでしょう。日本とスペインの交流はザビエル以来、脈々として続いているのです。(終り)

Dc00621 Dc00631 


木曽、御嶽中腹の濁河(ニゴリゴ)温泉は本物の温泉です

2010年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム

東北地方で生まれ、温泉へ行く以外に楽しみの無い時代に少年期を過ごしたので温泉については特別の想いを持っています。硫黄泉、ミョーバン泉、炭酸泉、食塩泉、アルカリの強いヌルヌルの温泉、得体の知らない真っ黒な温泉。東北地方には源泉の種類がいろいろです。同じ旅館に3種も4種も源泉の違う温泉の浴槽が並んでいるのも珍しくありません。

本物の温泉とは鉱物質の成分が濃厚で、入浴すると何故かとても元気になります。非科学的な記述で申し訳ありません。

本物があれば偽物もあるのが世の常です。最近1000m以上も真っ直ぐな穴を掘り進む掘削技術が進歩しました。1000m以上掘れば多くの場所から熱水が出て来ます。それを温泉と称していますが、私はそれらの大部分を偽物と思っています。泉質が良くないのです。入浴して元気が出ないのです。そのような経験からすると一昨日泊まった御嶽山中腹の標高1800mの所にある濁河(ニゴリゴ)温泉は本物の温泉です。沸かし直しも不要で、そのまま浴槽に溢れさせています。下に旅館「御岳」の浴槽の写真を示します。硫黄泉ですが、硫黄はそんなに濃厚ではありません。褐色です。入浴すると芳しい硫黄の匂がして途端に元気がでます。少年の頃何度も入った東北地方の温泉場を思い出します。夜になっても体が何時までも暖かいのです。

次の朝、近くの滝を見に行きました。写真にある滝壺の上の方に析出した硫黄がビッシリと岸壁を覆っています。滝が温泉なのです。滝壺の色が不思議な青い色しています。温泉源が山のあちこちに自然に開いているようです。

この御岳旅館には階段を160段(標高差60m)下りると、渓流沿いに大きな混浴の露天風呂があるそうです。帰りの登りがキツイので行きませんでした。そこはより強い泉質の温泉だそうです。登り降りに自信がある方へお薦めです。

館内の浴槽と露天風呂の写真と硫黄が岸壁を覆っている滝の写真をお送り致します。温泉好きの方々にお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

030 031 049


旅の趣味・・・未知への憧れと少しばかりの危険な経験

2010年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム

人々は何故旅に出るのでしょうか?そして旅を趣味にしている人々が多いのは何故でしょうか?西行法師や芭蕉のような偉い人のことを書こうとは思っていません。

私のような凡人でも旅を趣味にしているのは何故でしょうか?その理由は人様々です。未知への憧れと言えば大雑把過ぎます。外国旅行のことは別にして人々が国内旅行に出る理由を考えてみましょう。

見た事も無い美しい風景を見たい。食べたことも無い美味しい食べ物に遭遇したい。泉質の良い本物のかけ流しの温泉に入りたい。都会では失われた昔の日本の生活を体験して見たい。地方にある独特の工芸品やお土産物を探して見たい。設備やサービスの良い旅館、ホテルの泊まって高級な生活感を楽しみたい。趣味の写真で特定のテーマの傑作写真を撮りたい。理由はどれでも良いのです。

しかし旅が飽きない趣味となるには多少の危険な体験が含まれる必要があると信じて居ます。危険とは言い過ぎで、日常慣れ親しんでいる便利な生活ではなく、非日常の経験の連続と言えます。例えば出発の日は朝4時に起きる。団体旅行なら集合地に遅れずに集まる。その後は全ての場所で、時間厳守です。団体行動の流れに従う。厭な店でも楽しそうに見て回る。決められた旅館や温泉には喜んで入る。文句を言わない。何時もニコニコしている。こういう配慮は楽しい団体旅行の原則です。日常気ままな生活をしているとこれは大変不便な事です。時間厳守は鉄則で、遅れると置いて行かれます。それはスリルある危険性でです。

こんな窮屈な団体旅行でも自分独自のテーマを持って、考えながら行動をすると自由な雰囲気を味わえます。今回の木曽、御嶽山中腹の濁河温泉への旅では2つのテーマを持って行きました。

(1)北海道の山々、奥多摩と秩父の山々と木曽の山々の風景としての違いは何処にあるか?

(2)神道の御嶽教とはどういうものなのか?

明快な答えを持って帰ってきました。(1)ですが、木曽の山々は北海道の大雪山と同じように雄大な印象を与えています。奥多摩や秩父の山々のようにスケールが小さくてチマチマした風景とは全く違います。北海道の山々は広い平原の向こうにあって、山の雄大さと大地の広がりが見て楽しいのです。未知の景観です。刺激を受けます。その一方木曽の山々はスケールは大きいのですが、山々の向こうにまた山々が見えるのです。雄大な大地は何処にもありません。中央アルプス、御嶽の山々、乗鞍と北アルプスに囲まれた開田高原が広がっていますが、雄大な大地ではありません。

下に木曽の山々の風景写真をしめします。上の2枚は御嶽山です。下の方の2枚に写っている山と、その中に抱かれた家の風景もお楽しみください。

さて御嶽教ですが、検索するとその成立の歴史が出て来ます。しかしその教義は分かりません。ところが今回寄った「霧しな」という麺類製造工場の社長さんが工場案内の後で、御嶽山を指さしながら教えてくれました。人々は死んだら皆が神様になるのです。そして御嶽山に住んでいるのです。ですから無くなった祖父母や両親に会いたくなったら御嶽山に登れば良いのです。先祖の供養をしたいのなら毎年1回や2回は決まった日に頂上まで登ります。この頃の若い人は信じて居る人が少なくなりましたがこの信仰な根強く続いています。

どなたか博学の方々が御嶽教の教義をお教え下さることをお待ちいたしています。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

020 024 013 012


あなたが学校の歴史で習わない領主、成田氏の城

2010年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム

031

032033  024 025 028

010 012 013 014 015

埼玉県、行田市は利根川と荒川の間にある低地です。周りは水を満々と湛えた水田が果てしなく広がっています。江戸時代にはこの水田はほとんど沼や湖でした。文政6年(1823年)、岩崎長谷の描いた「忍名所圖絵」を見ると沼に長い橋がかかり、その袂で農民が鵜飼をしています。

そんな湖沼を外堀代わりに忍城を作ったのが、熊谷を本拠にしていた戦国武将の成田顕泰(あきやす)です。1479年に完成しています。外堀のような湖沼が周りに広がり、敵が近づけない難攻不落の名城でした。その後111年間、1590年の秀吉による関東平定まで成田氏の城として存続しました。

1590年の秀吉の小田原城攻略の時には、城主の成田氏長が北条氏に味方します。

石田三成の率いる軍勢が忍城を取り囲みました。三成は湖沼の地形を巧みに利用して水攻めに出ました。利根川と荒川へ延長14kmもの堤を築き、多量の水を流し込んだそうです。今でも堤の一部が三成堤という名で残っています。

深い水で完全に囲まれましたが、なかなか落城しません。それを見た人々は、「城が浮いているから落城しない。浮き城だ!」と言い合ったそうです。

しかし、小田原城が落ちた後では、忍城も開城せざるを得ません。

江戸時代には徳川の城として、親藩、譜代16人の城主が在城する。

上の写真にある白い天守閣のような建物は三階櫓と称する建物で1702年に完成しました。1639年に忍城に城番になった阿部忠秋が城の大改修をした時に作りました。

全く根拠意の無い想像です。「江戸幕府へ遠慮して天守閣を作らないーでも天守閣のように見える立派な三階櫓を作ろう!」、こんな気持ちがあったのかも知れません。江戸時代は常に徳川幕府の意向を伺いながら生きて行かねばならない時代でした。

幸い、阿部氏はその後184年間城主を務めます。明治維新後、城は取り壊され民間へ払い下げになりました。現在の三階櫓は1988年に行田市によって再現された建物です。(終わり)

撮影日時:20086月7日午後1時頃。 撮影者:Mrs.藤山


私達が学校で習う日本の歴史は現実とは違い過ぎる!

2010年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム

私たちが学校で習う日本の歴史の教科書は明治政府成立以来、文部省が指導して作ったものです。廃藩置県を実施し、明治天皇と中央政府が全権力を握り、国内を統一しました。国内を統一し富国強兵を実行し欧米の植民地になるのを防ぎました。

従って国民へ教える日本とは飛鳥時代から江戸時代まで天皇と幕府の権力が国の隅々まで統一し、一糸乱れぬ統治をしていたと教える必要があったのです。日本は近代国家と変わらぬ一つの強力な国として存続していたと信じさせる必要があったのです。

したがって地方地方に小規模な武力集団が居て農民を勝手に領有し、一方では中央政権へ年貢の一部を上納し、忠誠を誓っていた実態は教えないことになっていました。このような武力集団の頭は、国人とか国衆と呼ばれ領主として君臨していたのです。国衆が強大になった場合は守護職を天皇から委託され公的にも権限を振るっていたのです。飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町、戦国と時代が変わっても地方の小さな武力集団と領主の存在は変わらなかったのが実態だったのです。その領主が成り上がった戦国大名で徳川側についた一群が江戸時代の各藩として生き残ったのです。

現在の東京にはそのような領主が作った城跡が沢山あります。江戸城、御殿山城、荏原氏館、品川氏館、池上氏館、馬込城、赤堤砦、奥沢城、世田谷城、渋谷城、滝野川城、板橋城、志村城、石神井城、練馬城、深大寺城、立川氏館、平山氏館、小野路城、小山田城、八王子城、滝山城、片倉城、高月城、桧原城などなどです。そしてこの領主の作った城の名前が品川区、世田谷区、渋谷区、板橋区、練馬区、立川市、八王子市、桧原村という名前と関係があるのです。これは東京地方の一例で、同じようなことは全国の各地にあると思います。

誤解を恐れずに明快に言えば、日本は明治維新以前までは完全な地方自治がおこなわれていたのです。明治維新はこの地方分権を完全に消滅させることになったのです。それを現在、地方自治の重要性を宣伝しています。しかし現在の国家体制のままでは地方分権への変革には大きな制約が存在しています。それは武力無き自治権です。当然、国家政策と国税の許す範囲の中に限定された地方分権なのです。

このような視点で日本の歴史を見ると、地方、地方の歴史を調べることの重要さがご理解できると思います。皆様の住んでいらっしゃる地方の歴史はいかがでしょうか?

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人


戦没画学生の絵画(4)片桐 彰さんの「街」

2010年11月26日 | 写真

008_2

大正11年、長野県生まれ、昭和17年に京都高等工芸学校卒業後すぐに入隊。昭和19年7月28日、マリアナ諸島にて戦死。享年21歳。

残された妹の思い出:「私をよく映画に連れていってくれました。戦地へゆく直前、{オーケストラの少女}という映画を見に行ったことがありました。映画の筋書きはとうに忘れてしまったけれど、戦争のことを考えながら二人で歩いた夜のまっすぐな兄さんの背中が忘れられません。」

絵と文章の内容の出典は以下の通りですNHKきんきメディアプラン発行、「無言館 遺された絵画」2005年版、58ぺージです。


江戸時代に日本海の北前船が何故栄えたか?(1)江戸時代の大型帆船の苦難のセイリングの実態

2010年11月26日 | インポート

以前から何故、北前船が栄え、一方太平洋航路の江戸ー大阪間の航路が北前船ほど重用されていなかったか不思議に思っていました。越前、越後、酒田などの日本海側の町々が裕福になっていた時代が続いたのか不思議に思っていました。

それを考える手がかりとして、江戸時代の帆船の操船技術の実態を調べてみました。初めに江戸から太平洋を渡って八丈島へ帆走した記録があるので、ご紹介いたします。日本海を北上して松前に帆走する場合と比較したいと思います。

伊豆諸島の順察をして「南汎日録」を書いた代官、羽倉簡堂の海上の苦難ぶりを、「八丈るんるんガイド」2008Vol.14秋号から抜粋して紹介します。

使用した船は八丈島預かりの江戸の大型官船で、長さ11間、巾3間の一本マストの外洋帆走用の船であった。船頭と水夫9人が乗り込み当時としては頑強さ、航行能力に優れ頼りになる島通いの大型官船であった。

1839年4月22日、一行は数艘の船隊を組み江戸の鉄砲洲を出発した。大島、利島、新島、神津島、を視察し、5月18日に三宅島へ到着した。ここまでは幸運にも風向きが良く問題なく帆走出来た。

しかし、三宅島からが苦難のセイリングとなる。簡略に書く。

5月27日三艘で、遠方に見える御蔵島へ出発。始めは風向きも良かったがしばらくして八丈島が見えだした頃、荒天になり一艘は転覆し、残りはなすすべもなく出発した三宅島へ漂着する。

6月2日態勢を整えて出発するが、風が逆風になり大島まで戻ってしまう。

6月7日大島出港、八丈島直行を試みるが、式根島へ流される。

6月8日式根島を出て八丈島へ向かうが逆に伊豆の三崎港まで戻ってしまう。

6月27日式根島を出港し八丈島を目指す。

7月1日八丈島の見えるところに達するが、今度は西風に吹かれ、東の遥か太平洋上まで流される。200海里も流された後、東風に変わる。この幸運を必死でつかみ西へ帆走する。ついに午後8時頃、八丈島の西の八丈富士の麓の小さな浦、荷浦に到着することが出来た。

三宅島を出発したのが5月27日、八丈島へ到達したのが7月1日であった。実に1ケ月以上行ったり来たりの苦難なセイリングであった。

三宅島と八丈島の間には黒潮の主流が西から東に流れ難所である。

それにしても現在の外洋帆走洋用の長さ12メートル位のクルーザーは三宅島と八丈島の間は10時間位のセイリングという。

GPSや天気予報の有無もあるが、決定的な違いは風に向かって登れるか否かの性能の違いと思う。帆船の設計の進歩の大きさに感慨無量です。(続く)


悲劇の八王子城と東京都内の鎌倉、室町、戦国時代の城跡の多さ

2010年11月26日 | 日記・エッセイ・コラム

Dscn1428_21 Dscn1421_21

Dscn1409_3     Dscn1410_2     Dscn1414_3    Dscn1411_2

人間は優しさと残忍さを持つ。洋の東西を問わない。人間の殺戮の歴史を忘れないために、今回は戦国時代末期の八王子城の悲劇と、関東地方の鎌倉、室町、戦国時代の数多くの城跡をご紹介したいと思う。

 小田原城に北条早雲が拠点を置いてから4代目当主は北条氏政。関東中央部を支配ししていたのがその弟の氏照。武田信玄に攻められ苦戦した滝山城から山中の八王子城へ移ったのが1586年。しかしその4年後の天正18年、1590年6月23日に落城。秀吉に忠誠を約束した前田、上杉、真田の軍勢によって滅びされただ。

八王子城を攻めたのは信濃から進撃してきた前田利家、上杉景勝、真田正幸の連合軍である。上州の支城を北から席巻し、6月23日には15000人の勢力で4000人が守る八王子城を速攻し夕方には落城させた。生き残った家臣、婦女子は主殿裏の滝の上で自害し滝壺へ飛び込んだという。滝壺から続く谷川は血で三日三晩赤く染まったと言い伝えられている。

八王子城が落ちた6月23日は城主の氏照は小田原城に居て留守であったことも敗北を早めた一因という。

生き残った捕虜は小田原の秀吉のもとへ送られ、7月7日の小田原城の開城後、7月11日の氏政と氏照の切腹と前後して極刑に処せらた。

天正18年は関東、東北地方に散在していた多くの戦国大名が秀吉一派に敗北した年である。八王子城のような悲劇は関東全域の各地で起きた。

日本人と日本人が殺しあう。そんな時代がつい明治維新後の西南戦争まで当たり前であった。歴史を忘れる者は同じ過ちを繰り返すという。住んでいる場所の近くで起きた悲劇なら忘れ難いと思い、八王子城跡を静かに歩いてきた。針葉樹に囲まれた暗い谷間に雪道が寂寥として続いていた。上に示す写真はその折に撮ったものである。

八王子城の他にも城跡は実に数多く存在している。しかし東京都区内にあった城や館の大部分は市街地に呑み込まれ記念碑や説明板だけになっている。

一方、東京の郊外の多摩地方の城跡は堀跡、広場、出入口の土手、建物の礎石群がそのまま残っているものも多く往時の様子が偲ばれる。

八王子城の他、滝山城、片倉城、深大寺城、平山氏館跡などは当時の建物群の礎石や空堀が良く保存されている。発掘調査も行き届き、説明板も明快である。

これらは車で行くと便利が良いが、滝山城だけ駐車場が無い。壮大な規模の城跡がそのまま残っているだけに残念である。

その他、現在の東京の地名に関係したものだけを以下に記す。

江戸城、御殿山城、荏原氏館、品川氏館、池上氏館、馬込城、赤堤砦、奥沢城、世田谷城、渋谷城、滝野川城、板橋城、志村城、石神井城、練馬城、深大寺城、立川氏館、平山氏館、小野路城、小山田城、八王子城、滝山城、片倉城、高月城、桧原城などなどである。東京だけでこれだけあるのだ。関東地方一円にはもっともっと数多くの城跡が存在している。

それにしても城の数の多いのに驚かされる。戦国時代、室町時代の群雄割拠ぶりが想像され感慨深い。なお高幡不動の裏山にも高幡城跡があり、上記のものの他にも城があったのでは無いかと思われる。

現在住んでいる多摩地域の歴史は文献が少なく不明なことが多い。しかし城跡は発掘調査をすると当時の家具調度、日用道具、食器、鍋釜などの破片が多数出土し最近、色々なことが分かって来つつある。皆様の住んでいる地域の城跡や館跡についてお教え頂きれば嬉しく思います。(終わり)

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人

========================================

撮影日時;2008年2月19日午前11時ー12時、

撮影場所、八王子市城山東斜面の八王子城主殿跡付近(尚、本丸は主殿うしろの城山山頂にあり、徒歩40分かかる)

東京都内から車で行く場合;中央高速道、八王子ICを出て16号線を甲州街道20号線まで行き右折し20号線をJR高尾駅手前の町田街道を右折。間もなく八王子霊園方面へ左折し中央高速道の下をくぐればすぐ左折。案内板にしたがって800メートル上ると八王子城跡入口がある。JR中央線で行く場合は終点の高尾駅下車、北口からバスがあるが、よく調べてから行く必要がある。