後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「忘れられない昭和という激動の時代」

2024年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム
老人は思い出の中に生きております。思い出は次第に美化され楽しいものになります。老境が華やかになるのです。
今日は私が生きた昭和という時代を写真で示そうと思います。昭和11年に仙台に生まれた私の記憶に残る光景の写真です。満州建国があり真珠湾攻撃があり、そして敗戦です。激動の時代でした。
1番目の写真は満鉄の「あじあ号」の写真です。大連と哈爾賓の間の950Kmの鉄道を走る「あじあ号」が幼少時に見た絵本にありました。
1932年(昭和7年)2月初め頃には、関東軍は満洲全土をほぼ占領し、3月1日、満洲国の建国が宣言されました。 
2番目の写真は昭和16年12月8日の真珠湾攻撃の光景です。ラジオが軍艦マーチを勇ましく放送していました。
3番目の写真は昭和20年7月のB29による空襲の様子です。これで全国の都市が焼かれたのです。当時、向山という高台に住んでいた私は仙台を空襲するB29の編隊を無邪気に眺めていました。

4番目の写真は焼け野原になってしまった仙台の街です。空襲の翌日、見に行きました。それは7月12日でした。
5番目の写真は敗戦後の日本を統治していたマッカーサー司令官と昭和天皇です。マッカーサー司令官の統治は昭和20年から26年までで、その後日本は独立国になったのです。
6番目の写真は進駐軍兵士との混血児を収容したエリザベス・サンダース・ホームの門です。混血児を育てたのは沢田美喜の愛でした。沢田美喜は2000人に及ぶ恵まれない子供たちに深い愛情を注いだのです。この写真は数年前に私が撮りました。 
7番目の写真は1960年、昭和35年に私が留学したアメリカのオハイオ州立大学です。Ph・Dを頂きました。
8番目の写真は昭和39年に開通した東海道新幹線です。

9番目の写真は1964年、昭和39年に開催された東京オリンピックで金メダルを取った日貿貝塚の女子バレーのチームです。

最後に昭和時代の主な出来事の一覧を掲載しておきます。
(1)昭和の戦前期
1927年(昭和2年) 昭和金融恐慌、東方会議、山東出兵、南京事件。
1928年(昭和3年)済南事件、張作霖爆殺事件。
1929年(昭和4年) 世界恐慌。
1930年(昭和5年) ロンドン海軍軍縮会議、濱口首相遭難事件。
1931年(昭和6年) 柳条湖事件、満州事変。
1932年(昭和7年) 血盟団事件、五・一五事件、第一次上海事変、満州国建国。
1933年(昭和8年) 国際連盟脱退、滝川事件。

1936年(昭和11年) 二・二六事件、西安事件、阿部定事件。
1937年(昭和12年) 盧溝橋事件、第二次上海事変(日中戦争(支那事変)始まる)。
1938年(昭和13年) 張鼓峰事件。国家総動員法。
1939年(昭和14年) 第二次世界大戦開戦、ノモンハン事件。
1940年(昭和15年) 日独伊三国軍事同盟、日華基本条約締結。
1941年(昭和16年) ゾルゲ事件、大政翼賛会、日ソ中立条約締結、真珠湾攻撃。

12月8日 南方作戦発動、太平洋戦争(大東亜戦争)始まる。
1942年(昭和17年) ドーリットル空襲、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島の戦い。
1943年(昭和18年) アッツ島の戦い、学徒出陣、同盟国イタリアが連合国に降伏。
1945年(昭和20年) 硫黄島の戦い、沖縄戦、占守島の戦い、国際連合設置、九州大学生体解剖事件。
3月10日 東京大空襲。
3月26日 沖縄戦。
5月 同盟国ドイツが連合国に降伏。

7月 ポツダム宣言。
8月6日 広島市への原子爆弾投下。
8月8日 ソ連対日参戦。
8月9日 長崎市への原子爆弾投下。

8月10日 ポツダム宣言受諾の決定。
8月15日 玉音放送。
9月2日 降伏文書調印。

(2)昭和の戦後期
戦後のアメリカなどによる占領期、1945年(昭和20年) - 1952年(昭和27年)
1946年(昭和21年) - 1950年(昭和25年) 農地改革
1946年(昭和21年) 伊豆諸島返還。日本国憲法公布(1947年(昭和22年)5月施行)、人間宣言、昭和南海地震。
1951年(昭和26年) サンフランシスコ講和条約・(旧)日米安全保障条約締結。
1952年(昭和27年) 主権回復。トカラ列島返還。

1954年(昭和29年)自衛隊発足。第五福竜丸事件。
1956年(昭和31年)日ソ共同宣言発効、国際連合に加盟。
1960年(昭和35年) (新)日米安全保障条約発効、安保反対闘争、日米新安全保障条約、カラーテレビ放送開始。
1964年(昭和39年) 第二水俣病発生、東京オリンピック開催。
1965年(昭和40年)日韓基本条約締結。

1968年(昭和43年)東名高速道路開業、小笠原諸島返還。
1970年(昭和45年) 日本万国博覧会(大阪万博)開催。よど号ハイジャック事件。
1972年(昭和47年) 札幌オリンピック、あさま山荘事件、沖縄返還、日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明調印。

1976年(昭和51年)ロッキード事件
1978年(昭和53年)成田空港開港、日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約締結。
1987年(昭和62年)国鉄分割民営化によりJRグループが発足。
1988年(昭和63年)リクルート事件。
1989年(昭和64年)昭和天皇崩御、皇太子明仁親王が天皇に践祚。平成に改元。

以上は以下の資料をもとに抜粋し整理したものです。
「日本史の出来事」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%81%AE%E5%87%BA%E6%9D%A5%E4%BA%8B

戦前の昭和11年に生まれ昭和33年に大学を卒業した私にとっては上の出来事はよく新聞でも読み鮮明に覚えております。そして戦前、戦後の食糧難の苦しい経験と相まって昭和の出来事は忘れることが出来ません。

皆様は昭和という時代をどのようにお考えでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「地方色豊かなドイツのカーニバル」

2024年01月30日 | 写真
「カーニバル」は、特にラインラント地方やドイツの中でもカトリックの影響が強い地方の古い風習です。その中心地はマインツ、ケルン、デュッセルドルフ、ボンです。南ドイツではアレマン地方の伝統的ファスネットを祝います。
https://japan.diplo.de/ja-ja/themen/willkommen/karneval-gegend/967296

1番目の写真はケルンのカーニバルです。

2番目の写真はデュッセルドルフのカーニバルの王子です。

3番目の写真はチューリンゲン州ヴァーズンゲンのカーニバルで
す。

4番目の写真はソルビア地方のカーニバルです。

ソルビア地方のカーニバル
ドイツ東部の少数民族ソルブ人の独自の風習を持っています。冬を追い出すため、騒々しい音を立てながら村の中をねり歩く、この仮想した集団は、村はずれまで行進する間、農家一軒一軒の前で止まり、ベーコンや卵、お金などを恵んでもらいます。農家の主人には焼酎をご馳走し、おかみさんとはダンスを踊ります。これはスラブ民族のカーニバルの古い風習で、「ツァムペルン」とよばれます。

「キリスト教と関係の無い浅草サンバカーニバルの写真」

2024年01月30日 | 写真
毎年夏になると、浅草や各地でサンバカーニバルがあります。キリスト教と関係の無い日本独特のお祭りです。その写真をお送り致します。写真はインターネットからお借りしました。 

「離れ島への憧れ、日本の最西の端、与那国島の家の写真」

2024年01月29日 | 写真
日本の最南端、与那国島の家の写真をお送り致します。
与那国島の多くの人はエアコンつきの近代的な家に住んでいます。これらの写真は与那国島の伝統的な家の写真です。
写真はインターネットからお借りしました。
 

「離れ島への憧れ、沖縄周辺に散在する離島への旅」

2024年01月29日 | 旅行記
沖縄ぼ周辺には実に数多くの離島が散在しています。ある離島愛好家それらの沖縄の離島を訪問した旅日記の抜粋をご紹介致します。
詳しくは、https://okinawa-labo.com/ishigakiisland-isolatedisland-12561 をご覧下さい。
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「石垣島からゆく離島めぐり!9島紹介&体験レポ」

沖縄をとことん満喫したいなら、離島トリップが最適です。
「これぞ沖縄!琉球!」という町並みや、(ありきたりな表現ですが)夢のような美しさの海・緑・星空が楽しめます。
石垣島離島ターミナルからは毎日何便もの離島往復船がでていて、とっても手軽に離島めぐりが楽しめるんです。
<目次>【1】3分でわかる離島めぐりの基本
【1-1】行けるのは八重山諸島の9島
【1-2】アクセス――基本的にどれも日帰り可能だが、一泊推奨の島も
【1-3】「石垣島離島ターミナル」が玄関口
【2】どの島へ行くか考えよう!
【2-1】西表島(いりおもてじま)
【2-2】由布島(ゆふじま)
【2-3】竹富島(たけとみじま)
【2-4】小浜島(こはまじま)
【2-5】黒島(くろしま)
【2-6】波照間島(はてるまじま)
【2-7】鳩間島(はとまじま)
【2-8】新城島について
【2-9】与那国島
【3】モデルコース
【3-1】1日1~2島だけでいいから、じっくりゆっくり訪れたい
【3-2】「時間はないけど、とにかくたくさんの島を周りたい」
【4】おすすめツアー・体験レポート
【4-1】西表島・小浜島・由布島の3島めぐりツアー
【4-2】竹富島 日帰りツアー
【最後に】離島周遊は季節選びも重要
 
行けるのは八重山諸島の9島。石垣島は、美しい島々からなる「八重山諸島」の中心的な島。ここからは9つの島に渡ることができます。
西表島(いりおもてじま)
由布島(ゆふじま)
竹富島(たけとみじま)
小浜島(こはまじま)
黒島(くろしま)
波照間島(はてるまじま)
鳩間島(はとまじま)
新城島(あらぐすくじま)/別名:パナリ島
与那国島

一泊推奨の島も
西表島・竹富島・小浜島・黒島・波照間島・鳩間島

・由布島
…西表島から水牛車で渡ります。干潮時は歩いて渡ることもできるくらいの距離です。
・新城島
…日帰りツアーへの参加、もしくは島内唯一の民宿に宿泊予約をして、宿に船の手配をしてもらうことで行けます。観光客向け定期就航便はなく、日帰り訪問できません。
・与那国島
…飛行機かフェリーかを選べますが、おすすめは飛行機です。
飛行機はJALグループのJTAが運航しており、一日3往復。欠航はほぼ無く、フライト時間は30分ちょっとです。

「石垣島離島ターミナル」が玄関口
発着は、基本的に「石垣島離島ターミナル」です。(与那国島は例外で別の港施設)
もし離島めぐりを中心とした石垣島滞在なら、周辺のホテルが便利です。

どの島へ行くか考えよう!
離島と一口に言っても、海水浴に最適なビーチがあったり、マングローブ林が広がったり、のどかな放牧地がつづいたり……と、特徴がそれぞれ違います。
各島の特徴を見て、どこで・何がしたいか計画を練りましょう!

西表島の特徴を一言でいうと
・マングローブや亜熱帯植物が生い茂る、日本のジャングル!
・国内で12番目という広い面積、そのほとんどが森林
・バカンスというよりは、探検気分を味わいたい方におすすめ
西表島の主な楽しみ方
船でゆったりマングローブクルーズ
キャニオニング(滝つぼに飛び込んだり、川を泳いだり)
カヤックで川下り
密林探検
バラス島(西表島と鳩間島の間にある、サンゴだけでできた無人島)へのツアー

以下は省略します。最後に4枚の風景の写真をご紹介いたします。
詳しくは、https://okinawa-labo.com/ishigakiisland-isolatedisland-12561 をご覧下さい。




「離れ島への憧れ、沖縄への旅と沖縄の悲劇的な歴史」

2024年01月29日 | 日記・エッセイ・コラム
沖縄は離れ島の世界です。沖縄本島の他に宮古島、石垣島、西表島、波照島、竹富島、伊江島、などなど多くの美しい島が散在しています。
沖縄へは2002年以来、4回観光旅行に行きました。レンタカーで観光客の行かない淋しい島へも行きました。
自然の美しさは圧倒的です。想像以上です。今日はその美しい沖縄の島をご紹介致します。
美しい沖縄ですが沖縄には悲しい歴史があるのです。琉球王朝時代の悲しい歴史。第二次大戦中の悲惨な歴史。そして今も続く基地の広大さ。沖縄の人々の悲しみは現地へ行ってみてやっと少し分かります。
沖縄の自然の美しさはいろいろな本に書いてあります。いろいろな写真集もあります。しかし私が特に感動した写真集は和田義明さんのフォトギャラリー(http://wadaphoto.jp/japan/oki0.htm )です。
そこでまず和田義明さんの写真をお借りして沖縄の美しい自然をご紹介致します。

1番目の写真は沖縄本島に西に見える伊江島です。海の碧さが違うと思いませんか。

2番目の写真はは沖縄本島の西海岸にあるホテルです。海が綺麗な上に、ホテルが立派で、格安で素晴らしいサービスなのです。

3番目の写真は西表島から由布島へ浅瀬を渡る水牛車の光景です。
写真では分かりませんが水牛の動きがゆうゆうとして、この世のものではない動きをするのです。御者がジャミセンを弾いて琉球時代から伝わる民謡を不思議な節回しで唄います。

4番目の写真は仕事を終えた水牛がのんびりとしている光景です。由布島は熱帯植物園の様です。

5番目の写真は西表島にある川を観光船で遡った時の岸辺の風景です。ガジュマルが水の中へ根をおろしているのが見えます。川を数キロ遡ると熱帯林の中で下船して、林の中を散策します。幹が平らに数か所分かれて地中へ入っている板根というものがあります。異境へ踏み込んだ気分になります。

さて沖縄の人々の悲しみについて書きます。悲しみは江戸時代から始まりました。
1609年に薩摩藩が琉球王国へ侵攻し、琉球王国は薩摩藩へ重い税金を納めることで琉球王国の存続が認められたのです。財政的に困窮した琉球王府は宮古諸島などへ厳しい人頭税を課したのです。
宮古島に行くと観光バスが、人頭税石の前に一時停車して「この石柱より大きくなった男子には一人一人税金が取られ、薩摩藩へ送られたのです」と悲しげな説明があります。バスの中はシーンと静まりかえります。私もビックリして那覇市の大きな本屋さんで郷土史の本を3冊買って、沖縄の歴史を勉強しました。

6番目の写真は 宮古島にある人頭税石です。
本で詳しく調べたらこの人頭石より大きくなったら税金をかけたというのはウソでした。実際は15歳から50歳の男性にかかった税金で、その税額はその男の家の収穫量、身分、年齢、などによって細かい等級が決まっていました。決して男の身長によって決めたのではありません。税金は粟などの農産物や反物で納められました。
この人頭税は驚くなかれ明治になっても続けられ、1903年になってやっと廃止されたのです。
薩摩藩の苛斂誅求によって困窮した琉球王国は未開墾の島々へ農民を移住させたのです。ところが村落全員がマラリアで死んでしまったという話も観光バスのガイドさんが悲しげに言います。未開墾の島々にはマラリアがあるので昔から人が住んでいなかったのです。

沖縄へ行くとサンゴ礁が美しいです。しかしそのサンゴ礁で出来あがった島々は水はけが良すぎて、サトウキビや粟などの農作物しか出来ないことにすぐ気がつきます。
人間が住むには過酷過ぎる島々なのです。過酷な生活の悲しさが沖縄の文化の基底に流れているのです。
さて薩摩藩の圧政の後、明治政府は1879年(明治12年)に琉球処分を断行し、琉球王国は完全に消滅しました。
ところが琉球王国は昔から清王朝を宗主国として貢物を送っていたのです。薩摩藩の横暴をけん制する目的もありました。
したがって明治政府が琉球王国を領土化した時に何人もの沖縄人が清国へ亡命したのです。そして清の政府へ「琉球王国の再興」を願い出るのです。日本政府の横暴をけん制する目的もありました。
しかしこの琉球王国の再独立運動はに1894年の日清戦争で日本が勝った結果、終焉したのです。
沖縄の独立運動は1945年の敗戦後にも起きたのです。それはある意味では当然だったのです。
1854年に那覇を訪れたペリー提督は琉球王国と琉米修好条約を締結するのです。江戸幕府と結んだ日米修好条約とは別なのです。
したがってアメリカ側の理解では日本と沖縄は違う国なのです。
その上、第二次大戦では多数の米兵の血を流して上陸作戦をした米軍です。上陸した米軍は凄惨な地上戦を繰り広げます。機関銃や火炎放射機で沖縄の住民も殺戮したのです。それは歴史に残る残酷な地上戦でした。アメリカ兵も多数戦死します。ですから戦後に沖縄に広大な米軍基地を作ったのです。
米軍の沖縄占領とともに独立運動がまた起きます。明治政府以来の強引な「同化政策」に苦しんだ人々が立ちあがったのです。日本共産党や社会党は沖縄独立運動を支援したのです。
しかしソ連や共産党中国とアメリカの冷戦状態の緊迫化がこの独立運動を終わらせたのです。
日本中にある米軍基地と沖縄の米軍基地を統一的に運用して軍事戦略を立てるほうが有利になります。それと同時に佐藤首相がアメリカ軍への財政支援も言いだすのです。いろいろな事情が相乗効果をあげて、1972年にニクソン大統領と佐藤首相の間で沖縄の日本への返還が決まったのです。戦後27年間も沖縄はアメリカの領土だったのです。
戦後の沖縄の運命はすべて、日本政府とアメリカ政府が頭越しに決めて来たのです。

7番目の写真はひめゆりの塔(手前)と 奥に見えている慰霊碑(納骨堂)です。塔と慰霊碑の間に口を空けているのが第三外科壕です。その壕は深さ14mあり当時はハシゴで昇り降りしていたのです。多数の女学生が看護師として動員されて死にました。
日本と沖縄との関係は悲し関係です。沖縄戦やひめゆりの塔の悲劇だけではないのです。もっと、もっと深く長い歴史的な背景があるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日のカトリック関口教会の年間第4主日のミサの風景」

2024年01月28日 | 写真
今日のカトリック関口教会の年間第4主日のミサの風景の寫眞をお送り致します。
カトリック関口教会の年間第4主日のミサのインターネットからの映像に従ってお祈りのことばを言ったり信仰宣言をして自宅であずかりました。聖歌も歌いました。



「離れ島への憧れ、神津島と美少女の恐怖の秘密」

2024年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム
絶海の孤島への独り旅。憧れでした。男のロマンです。ある時、絶海の孤島、神津島へ旅しました。そこで聞いた美少女の話です。韓国の美少女、おたあジュリアにまつわる恐怖の秘密の話です。
私は2006年に神津島へ旅をしました。おたあジュリアは今でも島の人々に大切にされ尊敬されていることを知りました。

1番目の写真は神津島の写真です。写真の出典は、http://runo345.btblog.jp/ です。

2番目の写真は2006年に私が撮った神津島の荒波です。神津島は太平洋の波頭に浮かぶ小さな孤島なのです。

おたあジュリアは秀吉の朝鮮出兵の時、捕まって、韓国から日本へ連行されて来ました。日本に来てからキリスト教の信者になりました。しかし一方、キリシタン弾圧が厳しくなっていたのです。
キリスト教の信者のおたあジュリアはむごい拷問にあいます。しかし絶対に棄教しなかったのです。ジュリアは神津島への遠島の刑を言い渡されます。
流された神津島では、ジュリアは罪人にも拘わらず貧しい人々の世話をして島民に愛されます。島民に尊敬され、親切にかくまわれます。
その時代にはキリシタンへ親切にしたり、尊敬した人々はキリシタンと同罪の罰を受けます。
ですから神津島の島民はジュリアを尊敬している事を絶対に秘密にしていました。それは島の人だけの恐怖の秘密だったのです。
時代は明治維新になり、明治、大正となりましたがジュリアを尊敬しているということは大声で話すことではなかったのです。

2006年に私は神津島へ東京から高速水中翼船で行きました。船にゆられて4時間。遥か外洋に浮かぶ小さな火山島へ旅をしました。山ばかりで平地が少ない小さな島でした。島ではわびしい民宿に投宿しました。燗酒を傾けつつ、宿の主人から島の昔話を聞いたのです。
彼は低い声で話し出しました。
「朝鮮風の石碑が岬に有りますよ。おたあジュリアの墓です」 と。
しばし沈黙の後、彼は話し出します。
「小西行長が朝鮮征伐のとき連れ帰った娘です。キリシタンだったのでここへ流された女です。当時の島の貧しい人々を助け勇気づけたので女神のように思っている人が多いです」 ・・・・
「おたあ、は立派な女です。元気に島の人々の面倒を良くみたのです。困った人の相談に乗り、悲しむ人々を慰めました。おたあは本当に優しく賢い女だったのです」 
「おたあ、に島の人々は感銘を受け、彼女の島での生活を温かく助けたのです。しかしキリシタンを助ければ幕府から重い処罰を受けます」 
「ですから神津島の人々はこのおたあジュリアのことは絶対に秘密にしたのです」・・・「秘密は明治、大正になっても固く守られたのです」
「島の人々は今でも、おたあのことを尊敬しています。まあ、つまらない話かもしれませんが」・・・

現地へ行ってみないとローカルな歴史は分からないものです。神津島とおたあジュリアの歴史は島の民宿に泊ったので知ることが出来たのです。
旅の後すぐにおたあジュリアのことを調べてみました。
おたあは3歳の時、日本へ連れて来られ、アウグスチノ小西行長の養女となり、洗礼を受けジュリアという名を授かりました。関が原の合戦の後、小西行長は石田三成とともに三条河原で斬首されます。
そしておたあは家康の側室の侍女となります。しかし信仰を持っていたので家康の言いなりになりません。
そんなおたあは桃山、江戸、駿河と移され、禁教令と共に神津島へ流刑になったのです。
それは慶長17年、1612年のことでした。小西行長の友人の石田三成一族も神津島へ隠れ住み、ジュリアを助けたという話もあります。
現在は、毎年、神津島おたあジュリア顕彰会などの主催で「ジュリア祭り」があります。カトリック東京大司教区と韓国のカトリック教会が共同でおたあジュリアの慰霊祭も同時に行っているのです。

3番目の写真はおたあジュリアの絵です。
ジュリアの姿絵は、https://www.asahi.com/articles/photo/AS20190515000709.html から転載しました。

4番目の写真は神津島にある記念塔で彼女のお墓と想定されています。

5番目の写真は韓国の切頭島へ神津島から引っ越したジュリアのお墓です。1972年日韓の友情によって移設されました。

毎年、5月になるとジュリア祭りが現在でも開催れています。おたあジュリアは慶長2年(1597年)に日本へ連行されたとすると、神津島へ来た時はまだ18歳の若さでした。

今日は孤島、神津島とおたあジュリアの話をご紹介いたしました。

それはそれとして今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考情報========================= 
神津島は伊豆諸島の島の一つで、活火山の火山島。東京都神津島村。周辺の島も含め数十個の単成火山があり「神津島火山群」を成している。島の形はひょうたん型をしており天上山(標高572m)を中心とした北部と、秩父山のある南部とに大きく分けられる。  南部と北部の間の西側の前浜沿いに主な集落がある。民宿などが4つほどある。温泉もある。
 黒曜石を産出し、後期旧石器時代から矢じりや刃物として大量に本州に送られた。
神津島へは東京、芝浦から水中翼船が出ている。旅客機は東京の調布飛行場から出ています。                                                                                                                                                           

「常夏の八丈島の花々の写真」

2024年01月27日 | 写真
常夏の八丈島のフリージアの花やブーゲンビリアの花などの写真をお楽しみ下さい。昔、冬に八丈島に行きましたら花々が豊かに咲いていました。そこは常夏の島なのです。
毎年、八丈島フリージア祭りを行います。今年の2024年は、3/23(土)~ 4/7(日)です。 この期間中にはフリージア畑に入って香り高い花を摘むことも出来るのです。
フリージア祭りの詳細は、https://www.freesiafesta.com/ をご覧下さい。
1番目の写真は三原山の眼に広がるフリージア畑の写真です。   
出典は、www.hachijo.gr.jp/blogs/第52回八丈島フリージアまつり%E3%80%80325日%EF%BD%9E48日/ です。
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2番目の写真は八丈島の花畑です。
3番目の写真は八丈島の冬でも咲いている花です。2009年1月28日から4日にわたって八丈島へ独り旅をした時に撮りました。
4番目の写真は摘んだ花束です。出典は、https://www.freesiafesta.com/ です。
5番目の写真は八丈島のストレチア(極楽鳥花)です。出典は、https://www.freesiafesta.com/ です。
八丈島で感動したことは大きな島全体が熱帯性の植物で覆われていて、さながら天然の植物園のように見えることでした。
一度冬にお出かけになると感動なさると思います。

「離れ島への憧れ、冬の波荒れる八丈島と團伊玖磨の記念館への独り旅」

2024年01月27日 | 日記・エッセイ・コラム
生来軽率な私は若い頃から離れ島への独り旅に憧れていました。はっきりした理由もなく離れ島はロマンティックな別世界のように憧れていたのです。
しかし若い頃は忙しくて旅に出る余裕もありません。しかも離れ島は数多くあるのです。東京都の離れ島を列挙すると次のようになります。
大島(伊豆諸島|大島町)
利島(伊豆諸島|利島村)
新島(伊豆諸島|新島村)
式根島(伊豆諸島|新島村)
神津島(伊豆諸島|神津島村)
三宅島(伊豆諸島|三宅村)
御蔵島(伊豆諸島|御蔵島村)
八丈島(伊豆諸島|八丈町)
青ケ島(伊豆諸島|青ケ島村)
父島(小笠原諸島|小笠原村)
母島(小笠原諸島|小笠原村)
硫黄島(小笠原諸島|小笠原村)
南鳥島(小笠原諸島|小笠原村)
(有人離島一覧、 https://ritokei.com/shima )
上の島のなかで私が訪れた島は、大島、神津島、八丈島だけです。
今日は八丈島への独り旅について書きたいと思います。
しかしその前に藤村の独り旅の詩をご覧下さい。

「小諸なる古城のほとり」  -落梅集より-   島崎藤村

小諸なる古城のほとり   雲白く遊子(いうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず   若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ)  日に溶けて淡雪流る
          ・・・中略・・・
暮行けば浅間も見えず   歌哀し佐久の草笛(歌哀し)
千曲川いざよふ波の    岸近き宿にのぼりつ
濁(にご)り酒濁れる飲みて  草枕しばし慰む

さて私は2009年1月に冬の波荒れる八丈島へ独りで旅をしました。
帰りの船が悪天候で欠航したので非常に印象深い旅になりました。
芝浦の桟橋から遥か286Kも船に揺られて翌朝辿り着いたのです。
着いてみると八丈島は想像以上に大きな島でした。
島の東に10万年前の噴火山の三原山があり、西に1万年前に出来た八丈富士があり、その間が平野で農村が広がっています。
そして西の海上には八丈小富士という急峻な火山が突き出ています。この3つの山が近過ぎず、遠過ぎず、丁度良い距離でどっしりと座っています。この配置が雄大な景観を作っています。島の周囲は60Kmです。

冬の荒波で帰りの船が欠航したので長い逗留になりました。そこでレンタカーを借りて島の隅々まで走り回りました。
江戸幕府の島役所跡や古い集落や秀吉の家老だった宇喜多秀家のお墓にも行きました。そして八丈島の自然の景観も楽しみました。
島の西にある八丈富士の中腹に広大な牧場があり、そこまで車が上がれます。写真を撮るには丁度よいので2回登りました。

1番目の写真は八丈富士のある西半分の写真です。西山 (八丈富士) の麓は平野になっていて農村が広がっています。左奥の海上には八丈小富士が見えました。
手前の町は大賀郷町です。左の方向に飛行場が見えます。そして町の左右に港があります。風の向きによって客船の発着する港が変わります。

2番目の写真は車でもっと八丈小富士に近づき撮った写真です。昔は人が住んでいて小学校もありましたが現在は無人島です。
私は伊豆七島の大島や神津島へは何度か行きましたが、景観の雄大さという点で八丈島は抜群です。
八丈島で感動的なことは、島全体が熱帯性の植物で覆われていて、さながら天然の植物園のように見えることです。
3番目の写真は島の大賀卿町の中央にある東京都立公園です。公園の真中にドライブウエイがあって車で楽しみながら通り抜けられるようになっています。
車を停めて歩いていたら、赤ん坊を抱いた母親に会いました。島の観光案内のような話をしてくれました。そして三原山の東の山麓の樫立に團伊玖磨の記念館がありますと教えてくれました。
4番目の写真は島の主産業の観葉植物の栽培地の風景です。三原山の麓にあったアロエの花です。1月の末なのにウグイスが啼いていました。

八丈島で忘れられない人に歴史民俗資料館でお会いした細谷昇司氏という方がいます。
地域歴史の専門家で、その後、数か月にわたってメールの交換もしました。島独特の風習や歴史を教えて頂いたのです。
例えば、八丈島から約6000年前の縄文時代の人々の遺骨や石器・土器が出土していることを教えて頂きました。
そして石斧の石は海岸にあるような石ですが、土器に使われた粘土は火山で出来た島には無い粘土です。従って縄文人は土器を持って太平洋を渡って本州から来たのです。それを証明するために海用のカヌーで伊豆半島、大島、神津島と島づたいに漕ぎ渡った青年の写真も送ってくれたのです。
5番目の写真は團伊玖磨の記念館の中にある作曲室です。写真は地方新聞、「南海タイムス」の2002年5月31日の掲載写真です。
随筆と言えばこれまでに、いろいろ読みました。寺田寅彦、中谷宇吉郎、團伊玖磨などのものは長年愛読してきました。團伊玖磨の「パイプのけむり」は、アサヒグラフに連載されていました。1963年に八丈島の樫立に別荘を作った翌年から2001年に亡くなる直前まで40年近く続いた随筆です。朝日新聞社から27巻の本として出版されていますので、お読みになった方々も多いと思います。
外国で仕事をしながら忙しく書いたものや、葉山の自宅や、八丈島でゆっくり書いたものなど変化があって飽きさせません。
世界の珍しい風物や人情、そして八丈島の自然、人々や植物のことなどが軽妙洒脱な筆致で活き活きと描いてあります。話題は多岐ですが、いずれも上品な書き方で、文章の裏に人間愛が流れています。読後の爽快感が忘れられません。
八丈島では團伊玖磨氏を誇りにしています。2002年の没後一周忌に團さんの別荘を公開し、遺品や著作を展示しました。

八丈 島では島唯一のホテルに投宿していました。そこから島の寿司屋に通いご主人から島の周辺で取れる魚のことをいろいろ教わりました。地魚の姿を見たいと言ったら、スーパーに沢山並んでいますと教えてくれます。翌日行ってみたら、成程スーパーの魚売り場に活き活きした地魚が5種類ほど並んでいます。

独り旅は淋しいものです。家族旅行のように楽しくはありません。
しかし旅先で会う人がみんな優しく話しかけてくれるのです。そしてその地方独特の暮らし方や地域の歴史を教えてくれるのです。

藤村ではありませんが、「八丈の海辺のほとり 雲白く遊子悲しむ」の境地です。欠航の船よ、明日は波荒れるとも出てくれ・・・と想いながら日が暮れ行きます。

それはそれとして、
 今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料==============
八丈島生成の地質学、
東京の南方海上287キロメートル、御蔵島の南南東方約75キロメートルにあり、東山(別名:三原山・標高701メートル)と西山(別名:八丈富士・標高854メートル)のふたつの火山が接合した北西-南東14キロメートル、北東-南西7.5キロメートルのひょうたん型をした島。面積は山手線の内側とほぼ同じ。(面積の比較)
富士火山帯に属する火山島で、東山は約10万年前から約3700年前まで活動し、約4万年前にカメソウノ鼻火砕流、鴨川火砕流を噴出した噴火で山頂部に6×4.5kmの東山カルデラを形成したと考えられている。完新世内では約4千年前と約6.6千年前に規模の大きな噴火が発生している。最終噴火は有史以前であり歴史記録上の噴火はない。西山は数千年前から活動を始めた新しい火山で、山頂に直径約500メートルの火口がある。1487年12月、1518年2月、1522年 - 1523年、1605年10月、1606年1月に噴火が記録されており、特に1606年の記録には、海底噴火によって火山島ができたとされる。
東山と西山の間にある低地には、20以上の側火山(寄生火山)があり、海岸近くには神止山などのマグマ水蒸気爆発による火砕丘がある。17世紀までに数回活動した記録があるが、規模は大きくなかったと考えられている。
気候は、暖流である黒潮の影響を受け、海洋性気候となっている。年平均気温は17.8℃となっており、高温多湿。年間を通して風が強く、雨が多いのが特徴。そのため、「常春の島」とも言われている。