後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「広島のカトリック幟町教会の6月23日のミサ の動画配信」

2024年06月23日 | 日記
年間第12主日ミサ 

第1朗読 ヨブ記 38章1、8~11
第2朗読 コリントの信徒への手紙二 5章14~17節
福音朗読 マルコによる福音書 4章35~41節

カトリック幟町教会
〒730-0016 広島県広島市中区幟町4−42



「鎌倉の和食処の『鉢の木』の思い出」

2024年06月19日 | 日記
4月4日は家内が鎌倉で生まれた日です。数年前に車を走らせて、鎌倉の海を見て鉢の木という和食処で妻の誕生日の食事をしました。
写真は海の風景1枚と続いて鉢の木での写真3枚です。
鎌倉は何時行ってものどかな昔の日本の風情があって良いものです。

「東京のイグナチオ教会の今日のミサの動画配信」

2024年06月16日 | 日記
 6月16日

【本日の聖書朗読箇所】
第1朗読
エゼキエルの預言(エゼキエル  17:22-24)
第2朗読
使徒パウロのコリントの教会への手紙(2コリント 5:6-10)
福音朗読
マルコによる福音 (マルコ 4:26-34)

カトリック麹町 聖イグナチオ教会
https://www.ignatius.gr.jp/index_j.html


「広島のカトリック幟町教会の今日のミサ動画配信」

2024年05月26日 | 日記
広島のカトリック幟町教会の今日のミサ動画配信です。
 
2024年5月26日 三位一体の主日
 
第1朗読 申命記 4章32~34、39~40節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 8章14~17節
福音朗読 マタイによる福音書 28章16~20節
 
広島県広島市中区幟町4-42
電話 082-221-0621 FAX 082-221-8486
2人の画像のようです
 
 
 

「2024年5月5日 復活節第6主日のミサ動画配信」

2024年05月05日 | 日記
2024年5月5日復活節第6主日のミサ動画配信です。

カトリック葛西教会のミサ動画配信,のご案内です。

今日のミサの動画配信は、
https://www.youtube.com/watch?v=oW5kJwxQ8KQ

1969.6.24 松江教会献堂式
初代主任司祭 エドワード・グリフィン神父
1979.6 二代主任司祭 ジョン・マカティ神父 着任

聖アウグスチノ・カトリック葛西教会
東京都江戸川区中葛西 1-10-15
TEL: 03-3689-0014

東西線 西葛西駅または葛西駅から (徒歩15~20分)


「旧懐の情にかられて国分寺駅界隈を歩く」

2024年04月27日 | 日記
アメリカ留学から帰国して直後の1961年に国分寺駅の南口を出た住宅街のアパートに住んでいました。1年間ばかりでした。
それから小金井に家を作り住んでいます。今日は旧懐の情にかられて国分寺駅界隈を歩いてきました。
昔住んでいたアパートは消えていました。新しアパートが並んでかつての面影がありませんでした。あまりにも古い老人の散歩でした。
写真はインターネットからお借りしました。

1番目の写真は国分寺駅の南口です。

2番目の写真は国分寺駅のホームの風景です。ここから本郷の東大に毎日通勤しました。

3番目の写真は現在の国分寺駅の商店街です。当時は商店が一切無くて貧し気な通路があるだけでした。

4番目の写真は国分寺市の郊外にある武蔵国分寺の脇にある水路です。ここだけは昔のままです。

「写真で見る絶滅寸前のヨーロッパの少数民族」

2024年04月06日 | 日記
趣味として私は世界の民族についてあれやこれやと調べています。
そんな趣味で集めたヨーロッパに住んでいる少数民族の写真をお送りいたします。今回は北方の少数民族に限ります。

1番目の写真はマンシ族の住居の夏の風景です。マンシ族はロシアのハンティ・マンシ自治管区の先住民です。ハントィとは近い親戚の意味で現在、およそ12,000人がロシアで暮らしています。写真の出典は、『マンシ、コリャーク、ンガナサヌィ… ロシアの絶滅しそうな少数民族』http://osoroshian.com/archives/37793045.html です。
2番目の写真は街に出て来たマンシ族の家族の写真です。
3番目の写真は昔のサーミ民族の家と民族衣装を着た家族の写真です。このような家には住んでいましたが現在は近代的な家に住んでいます。テントは夏だけ使うトナカイの放牧地の休憩用で、中で焚火をして弁当を食べたりコーヒーを淹れます。このような民族は北欧からロシアの西北部のかけて住んでいます。サーミ民族はラップ人とも呼ばれています。
4番目の写真はコリャーク族です。
犬ぞりのマッシャー(乗りて)はイルピリ村の住人です。
カムチャッカの北部に暮らすこの民族は現在6,000人しかいません。世界で最も北に住む民族の一つです。写真の出典は、『マンシ、コリャーク、ンガナサヌィ… ロシアの絶滅しそうな少数民族』http://osoroshian.com/archives/37793045.html です。
5番目の写真はンガナサヌィ族です。
この民族はロシアのクラスノヤルスク州のタイミル地方に住んでいます。ユーラシアの一番北で暮らす民族です。860人です。自称は「ニャ」(友という意味)です。
6番目の写真はロシアのドルガヌィ族です。
テュルク諸語を話す民族の中で世界で一番北に住む民族です。ロシア正教を伝えたコサックたちはドルガヌィ人に自分達の苗字を与えたのです。クドゥリャコフ、ジャルコフ、チュプリン、ポロトフ等でその苗字は今でも残っている。
現在8000人以下でクラスノヤルスク州とサハ共和国で暮らしています。
7番目の写真はイテリメン族です。カムチャッカ半島の先住民です。「イテンメン」(「ここに住んでいる」)という名前の発音が変化しこの様な呼び方になったそうです。



「カトリック関口教会の年間第6主日 世界病者の日の動画配信」

2024年02月11日 | 日記
今日のカトリック関口教会の年間第6主日のミサの動画配信です。

年間第6主日 

カトリック東京カテドラル関口教会 主任司祭:天本昭好

関口教会は1900年に正式に小教区として設立されました。1918年に大司教館が移転し、1920年に築地教会から関口教会に東京の司教座聖堂(カテドラル)が変更となり現在に至ります。
戦後、ドイツ・ケルン教区の多大な支援により1964年12月8日には、丹下健三氏の設計による東京カテドラル聖マリア大聖堂が献堂されました。


「カトリック関口教会の年間第5主日のミサの動画配信」

2024年02月04日 | 日記
今日のカトリック関口教会の年間第5主日のミサの動画配信です。

年間第5主日 

主任司祭挨拶
カトリック東京カテドラル関口教会 主任司祭:天本昭好
関口教会は1900年に正式に小教区として設立されました。1918年に大司教館が移転し、1920年に築地教会から関口教会に東京の司教座聖堂(カテドラル)が変更となり現在に至ります。

で聖堂は消失してしまいます。戦後、ドイツ・ケルン教区の多大な支援により1964年12月8日には、丹下健三氏の設計による東京カテドラル聖マリア大聖堂が献堂されました。


「関東地方のお正月の風物詩、箱根駅伝とその歴史」

2024年01月02日 | 日記
関東地方のお正月の風物詩の一つに箱根駅伝があります。
関東学連加盟校の大学の学生だけに出場権があります。ですからこのイベントは関東地方のローカル文化です。
この駅伝は1月2日の東京から箱根まで5人の学生が走り、今日復路をまた5人で競います。
今年もこの箱根駅伝が始まりました。我が家では熱狂的に好きな家内が毎年8時から13時までテレビを見て声援を送っています。こうして新しい年が始まります。
1番目の写真は現在の箱根駅伝のコースです。
この駅伝は箱根山の登り下りが興味深いレース展開になります。
2番目の写真はその箱根山のコースです。

帰りの駅伝は次の朝の8時に芦ノ湖畔をスタートします。箱根を下りる帰りのコースは毎年波乱万丈になります。
この箱根駅伝が大好きな家内二日間テレビに釘づけになっています。これが我が家のお正月の風景です。
私の趣味は歴史です。箱根駅伝の歴史を調べるのが楽しいのです。
いろいろ調べた結果、http://history-land.com/hakone-ekiden/ の資料が明快至極なので以下に引用することにしました。
(1)箱根駅伝には100年の歴史があるのです。
1920年に始まったのが箱根駅伝です。
第一回の参加校は明治、早大、慶大、東京高師(いまの筑波大)というわずか四校のみの状態でした。初期の大会の開始時刻は、午前中の授業の影響もあって午後から始まるようになっており、選手がゴールした時は真っ暗になっていたことも少なくありませんでした。
さてこの駅伝の1923年の第4回大会からは、夜間学生の出場が禁止されます。これは新聞配達を行っている勤労学生はその道のプロであるから、アマチュアではないという事が主張された為でした。
また1927年の第8回大会では、大正天皇崩御を受けて開催が4月にずれこみ、出場校もわずか5校という状態になった事もありました。

(2)戦前の箱根駅伝の優勝校
戦前の優勝校の主な顔ぶれですが、1920年から1934年までの15回の大会のうち早大が7回、明治が5回の優勝を飾っており、まさに二強といってよい時代でした。また、1935年の第16回からは、日大が大会初の4大会連続優勝を飾った事でも話題になっています。

 (3)箱根駅伝が受けた第二次世界大戦の影響
第二次世界大戦の影響は箱根駅伝にも及んでいます。1941年には戦争により、東海道と箱根路の使用が禁止されたことを受け、明治神宮から青梅の熊野神社間で往復する形で箱根駅伝が実施された事もありました。しかし、これは歴代の大会にはカウントしていません。
また、その翌年の1942年には戦時命令として日本学連が解体され、駅伝大会も中止となります。しかし1943年には、戦時下ながら靖国神社から箱根神社までを往復するコースに変更され実施され、日大が5回目の優勝を果たしています。
しかし、その後3年間の大会は、戦争の影響により再び中止とされています。
このように現在隆盛している箱根駅伝にも苦難の歴史があったのです。

(4)戦後の箱根駅伝と1987年の日本テレビによる実況放送の開始
戦後の箱根駅伝の歴史は、1947年の23回大会から再開されます。初めて予選会が導入されたのがこのときでした。また、読売新聞社が共催に名乗りをあげるも、GHQの指導により後援にとどまることになりました。
この頃の箱根駅伝の特徴として、学生の数が少なく、出場者の10名を揃える事が困難だったこともありました。そのため他の陸上競技の選手を入れたりしていたのです。
戦後の優勝校の趨勢は以下のとおりです。
1960年代前半まではほぼ中大の独壇場といってよい時代でした。そして1969年から1980年頃までは日体大が、その後は順大が台頭します。90年代は大東文化大、山梨学院大、神奈川大などが台頭しています。
2000年代には駒大が初優勝。2008年に至るまで6回もの優勝を重ねます。当時の駒大と順大の覇権争いは紫紺対決と呼ばれ注目されました。2009年には東洋大初優勝し、その後4回の優勝を重ねた後、2015年からは青学大が連覇しています。このように時代によって強い大学がガラリと変わるのが興味深いですね。

ラジオ中継の歴史にも変化が見られます。1953年にはNHKラジオによる全国中継がはじまり、1979年にはテレビ東京による初のテレビ中継があり、ゴールだけ生放をしました。翌年もNHKテレビが二区のみ中継しています。全国的な中継は1987年の日本テレビにより行われ現在に至っています。この頃から箱根駅伝が有名になり現在の隆盛につながっています。

以上の歴史を要約すると、1戦前の日本学連主催の時代、2戦時下の混乱期、3戦後の復活と読売新聞社の参加の時代、41987年の日本テレビの実況放送の開始以後の時代の4つの時代に別けることが出来ます。
箱根駅伝が関東地方のお正月の風物詩として定着したのは日本テレビの実況放送以後のことです。1987年の後のことです。
テレビは日本の風物詩もどんどん変えて行くのです。
そして時代によって強い大学がガラリと変わるのが興味深いです。

往路107.5Km 復路109.6KM 計217.1KMを10人の選手が襷を繫ぐのですからさまざまなドラマが毎年生まれます。
我が家ではお正月の2日と3日は箱根駅伝のテレビ実況放映が非常に重要になっています。
全国に住んでいる方々は箱根駅伝にご興味があるでしょうか?長距離走なら何でも興味があるという方は見ていると思います。

しかし各地には出雲駅伝のようにいろいろなものがあるので箱根駅伝はローカル文化と考えるのが公平な考え方ではないでしょう?
ローカル文化は人生を豊かにし大切なものです。

私は全国各地に豊かなローカル文化があることが日本を幸せな国にすると信じています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)